20世紀から21世紀、「ドブ河」の時代から、「波」の時代へ?

1011(撮影/森永純)

「私を深く感動させる写真、私の人生を変えてしまう写真は数少ない。森永純の写真はその二つを併せ持っていた。」 ユージン・スミス

 先日、東京に出た際、森永純さんが、生死の境を彷徨う大病後、週に三回通って透析を受けている病院に行った。

 森永さんとは電話で色々話しているが、直接、顔を合わせるのは「wave」の写真集が出来てから初めてだった。
 森永さんは、1960年代の初頭、高度経済成長ど真ん中の東京のドブ河を撮った写真が、ユージンスミスの心をとらえ、その後、ユージンスミスの勧めでアメリカに渡り、帰国後の1970年代の初頭、細江英公さんとともに日本の写真界の牽引者の一人であった。
 しかし、その森永さんは、1970年代に「河〜累影」というドブ河の写真集を出して以来、写真集を出さすに30年以上にわたって波の写真を撮り続けていた。そして、ようやくこのたび私が、その波の写真集を出すお手伝いをしたわけだが、長い写真家人生で、生涯に二冊しか写真集を出さなかったことになる。
 しかし、その二冊とも水の面であるということが共通している。
 写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうではなく、あくまでも”映し絵”であり、その映し絵を通じて何かを象徴的に表す行為である。水面もまた、そこに何ものかを映し出している。我々が水面を見る時というのは、水そのものを見るというより、水に映った、もしくは水を通して、そこにある何ものかを見いだす。写真もまた同じだ。
 水面を見ても何も見いださずに、ただそこに川や池や海があるという情報処理を行い、既成の概念やイメージの範疇で思考を停止させる人も多い。
 それは水に限らず、今朝の新聞に載っていた記事や、テレビ映像や、様々な情報にしても同じことだ。それらの情報に映った、もしくは情報を通して、そこにある何ものかを見いだそうとするのか、ただの記号的な情報として、わかったつもりになって処理してしまうのか。
 森永純さんの波の写真集を買ってくださった人で、今のところ批判的な声はないが(批判的な人は敢えて何も言わないだろうから)、「正直に言って、よくわからない」と返事をくれた人がいる。でも、その人は、「私なりに活かします。」と付け加えてくれた。
 森永さんの写真は、犬や猫のペット写真のように日常性に属する情報でないし、テレビ映像やカメラ雑誌などで頻繁に眼にする風光明媚な観光映像でもないので、多くの人にとって、”わからない”というのは自然の反応だろうと思う。
 問題は、人によって、”わからないこと”を自分に関係ないものとして避けて通るか、”わからないけど何か感じる”ゆえに惹かれるかどうかだ。
 写真に映っている、もしくは写真を通りぬけて、そこにある何ものかがじんわりと伝わってくるのだけれど、そのわけのわからない感覚に身を任せる曖昧な時間を意味がないと切り捨てる人も多くいるだろう。しかし、自分の物事の感じ方や考え方が少しでも広がる可能性というのは、その曖昧さの中にこそある。”気づき”のおとづれは、曖昧さの中でじっと集中して、自分の心に耳を傾けている時にこそ起こる。しかし、その集中を阻害する悪魔の囁きが今の世の中にはあまりにも多い。「そんなこと時間の無駄だよ」とか、「もっとウキウキする楽しいことがあるよ」とか。
 とはいえ、わざとわかりにくくして、意味深にすればアートになると勘違いしている作り手や評論家もいるので、話はややこしくなる。いろいろな詭弁を弄した評論家の解説や世間の評価、賞などの権威付けを無視して、悪魔の囁きも無視して、それそのものに向き合う体験を通して何が伝わってくるのか。独りよがりと思われるかもしれないが、自分の物の見方、感じ方、考え方というものを作り上げていかないと、評論家の言葉や悪魔の囁きに翻弄され続けて、いつまでたっても自分の軸が定まらない。
 世界には、見えそうで見えない、聞こえそうで聞こえないものの方が圧倒的に多く、そうしたものに自然に心が配れる状態にしておかないと、大事なものを見逃したり、大事な声を聞き漏らしてしまう。
 大事なもの、大事な声というのは、あの手この手で自分を陥れようとする世の中の数々の罠から自分を救うものでもあるのだ。
 とはいえ、今日の情報過剰社会のなかで、そういう状態を保ち続けるのは至難の技であり、なにがしかのトレーニングのようなものが必要になる。
 たとえば座禅を組んで瞑想することを課しているビジネスマンなどもいるだろう。瞑想というのは、意識を弛緩させることによる睡眠ではなく、脱力によって高まる集中だ。気づきというのは、そうした精神の状態でこそ起こる。
 奇しくも、森永純さんの波の写真集を見ることを、一種の瞑想体験だと感想を述べた人がいる。
 確かに、水面をじっと見るという行為は、大事な声に耳を傾けるような行為である。水面に限らず、樹木であれ、山であれ、石であれ、それをじっと見るという行為も同じであり、人を沈思に導く。今ここにはない声に耳を傾けさせる。
 作品が存在するということもまた、そういうことだと思う。作品が何かしらの答えを教えてくれるわけではない。答えは自分で見つけるものであり、その為には、気付いていない答にアクセスする集中が必要であり、作品は、その回路を準備する。
 表現者が作品の数で競い合うというのはナンセンスであり、自然界の波や樹木のような存在感で、人の意識を沈思に導き、集中させ、気づきを与えるものが人生において一つでも創造できれば十分とも言える。 
 人をただ楽しませ癒すということ以上に、時おり人を沈思の状態に導き、世の中の変化や、わけのわからない現象への備えをさせることは、人の生存に対して貢献するものが大きいだろう。
 森永純さんという人は、極めて寡作な写真家であり、「ドブ河」と、「波」の写真集しか作らなかったが、その二作の水面を映し出した写真集で、20世紀と21世紀をつなぐ回路を作り出していると私は思っている。
 30年前の「ドブ河」の写真集は、20世紀の人間の自己(エゴ)にひそむものが蠢き出たものである。そして、このたびの「波」の写真集は、人間の自己(エゴ)を超えた宇宙の律動が蠢き出たものであり、その律動は、それを見る私たちの中にも脈打っている。
 20世紀の「ドブ河」の写真は、その律動に干渉し、濁らせ、滞らせる自己(エゴ)が蠢き、自然の律動とのせめぎ合いがあり、その底に、声にならない悲痛、怨念が渦巻いている。
 経済が大事とか色々な言い分はあるだろうが、人間は誰しも健やかに生きて死んでいきたいという願いと、悲しみを、心の深いところに宿らせている筈であり、その願いの声にじっと耳を傾ければ、自己の殻の奥底に響く生身の鼓動と、「波」の律動が重なり合うことを知るだろう。(続く)
 

Image森永純写真集「wave 〜All things change」→


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