20世紀から21世紀、「ドブ河」の時代から、「波」の時代へ?

Tumblr_m2x654qfqi1r7gfuyo1_500(撮影/森永純)


「私を深く感動させる写真、私の人生を変えてしまう写真は数少ない。森永純の写真はその二つを併せ持っていた。」 ユージン・スミス

??の続き

 そのユージンスミスが、21世紀になってようやく完成した森永純さんの第2作目である「波」の写真集を見たら、どういう反応をするのだろうか。私は、ぜひ彼の声を聞いてみたい。

 残念ながらそれは叶わないが、ユージンスミスに深く関心を抱き、また、水俣病にも長く深く関わってきた作家の田口ランディさんが、森永純さんの「波」の写真集を見た時の感想を次のように書いている。
 →http://runday.exblog.jp/22743492/

 ランディさんが、森永純さんのドブ河の写真を見た時、ユージンスミスと同じように衝撃を受けた。当時、彼女は、広島に通い続け、原爆のことをどう表現しようか思い悩んでいた。
 原爆のことを知れば知るほど、被爆者と関われば関わるほど、彼女は、”客観的”でもなく、”主観的”でもない表現の方法の必要性を強く感じて思い悩んでいた。6年前の春だったと思うが、深夜遅く半蔵門バーで、そのことについて話し込んだ。そして、後日、森永純さんのドブ河の写真を見せたところ、彼女は、それらの写真にユージンスミスと同じく”原爆”を見て、その体験が表現者としてどうあるべきかを考える重大な転機となった。 
 ユージンスミスは、森永純さんの写真を見た後、しばらく森永さんと行動をともにするが、森永さんが長崎出身だとは知らなかった。森永さんは、自分が原爆の犠牲者だという表向きの意識は持っていない。
 幼少の森永さんは、戦争末期、佐賀に疎開していた。戦争が終わって長崎に戻った時、家は原爆で跡形もなく消え、夏の日差しに照らされて、その場所が白く輝いていた。その白い影の中、学校に通うために長崎に残っていた姉と父親の遺品を、感情さえ喪失したような状態で探していた記憶はあると言う。そして、その後、一度も長崎には帰っていない。
 ユージンスミスは、日立のPR誌制作の取材の列車移動の時、軽い気持ちで出身地はどこ?と森永さんに聞き、森永さんが『長崎だけど」と答えた時、ユージンスミスは、血相を変えて、「やっぱりそうじゃないか!」と言ったらしいが、森永さんは、何のことかわからなかったらしい。
 ユージン・スミスは、森永純さんの「河〜累影」に以下のような言葉を記している。
「ここに収められている写真には現実の人間はまったく登場しない。しかし私には、われわれの時代の様々な怨念の底流が、これらの写真の中に執拗に渦巻いているように思われる。(略) それらを感受するためには、観賞者は伝統的な認識のいかなる狭隘さも打ち破らねばならない。(略)それは努力に値するひとつの経験である。
(略)汚物の泥の渾然としたイメージ。私が見たつもりのものはこれだった。私は、私自身に対して憤然と唸りの声を挙げた。だが、それらのイメージから脱け切らないうちに、この汚物や泥、草や、廃棄物や毀れ物の破片のイメージに深く捲きこまれてしまった。私はひとつのイメージの中の無数のイメージ、それぞれの中にひそむ感動的な力に愕然とした。
 私は男は泣かないということを承知している。が。私は泣いた。同室のものから顔をそむけ、涙と嗚咽を抑えるのに精一杯だった。私を深く感動させる写真、私の人生を変えてしまう写真は数少ない。森永純の写真はその二つを併せ持っていた。
 (略)
 彼は表現していながら、それを自覚しているとは信じられないある領域のことがあるからだ。それは原爆に関してのことである。そのようなミステリーはあくまでもあなた自身が解答を出すべきであり、さもなければ、あなた自身を全く煩わせるべきでない。
 (略)
 私たちは対話を試みた。彼は語った。「あなたは師匠です。私の写真はどうすればよくなりますか?」 私は、私の誠実さのすべてをもって答えた。「君のやっていることにおいては君が師匠だ。私は、ただ、君ほどの写真が自分にも撮れたらと思うよ」  

 ・・・・・・・

 森永純さんは、長崎の原爆のことを、ユージンスミスの言葉のとおり、「表現していながら、それを自覚しているとは信じられない」という意識状態でとらえている。そして、ユージンスミスは、森永さんがそのことを意識してしまうことは、森永さんのユニークなビジョンに対して却って有害になりかねないと危惧をしていた。
 でも、そのような言葉がユージンスミスの口から出た時点で、意識しないようにしてもどこかで意識してしまうもの。森永さんのドブ河への取り組みは、その時点で終わった。そして、ドブ河でなく、波を、撮り続けた。「表現していながら、それを自覚しているとは信じられないある領域のこと」を心中に抱いて。
 そのある領域のことは、原爆をも包含する、もっと底深く広大な何かだ。
 もしもこれらの写真をユージンスミスが見たらどういう反応するのかと、私なりに想像する。
 彼は、ドブ河の写真を見た時のように、言葉にすることで森永さんにとって有害になるものがあることを承知で言葉にしてしまうことは、もはや冒さないだろう。
 ランディさんもブログに書いているように、この波の写真の前に、言葉は不要だ。

 にもかかわらず、私は、ウダウダと書いている。写真集をより多くの人々に送り出したいという気持ちと、たった二作しか写真集を出していないこの寡作すぎる写真家の写真が、写真家として膨大な作品を作り続け、20世紀において最も有名な写真家の一人であるユージンスミスを感動させ、その人生を変えてしまったと呟かせた事実、その不思議な接点と出会いの背景を、私なりに記しておく責任があると思うからだ。

 ユージンスミスは、森永さんの写真と出会い、日本の各地を訪れ、水俣病と向き合うことになる。水俣病は、彼にとって日本の一地方の奇病ではなく、近代化が隅々まで行き渡ってきた世界の中で、その悶絶するような痛みと苦しみと悔しさを自分のものとして感じる普遍性を持った重大なテーマだった。

(実際の体験としても、1972年1月、ユージンスミスが千葉県五井にあるチッソの工場を訪問した際、多数派労組に患者さん達が暴行を受ける事件が発生し、彼もカメラを壊され、脊椎を折られ、片目失明の重傷を負い、その事件を通して、患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と語っている。)

 そのユージンスミスが、もし生きていて、森永さんの波の写真集を見たら・・・・・、私の浅はかな想像だが、両手のひらを身体の前で合わせて静かに合掌するのではないだろうか。
 不浄な自分自身を反映する左手と、宇宙の清らかな意志を反映する右手を重ねて。
 あの戦争から戦後世界を生き抜いてきた戦士への労りもこめて。
  

Image森永純写真集「wave 〜All things change」→

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