地獄極楽この胸の中 仏心で物を観よ

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今年の書き初めと、高野山の伽藍に再建された中門の前


 5年連続で新年に訪れた高野山。前日、京都は大雪だったが、高野山も氷点下7度と聞いて、覚悟して出かけた。4年前の2011年の正月も、高野山は大雪だった。あの時は、寒さと雪のすごさもあって、初めて訪れた高野山の荘厳な雰囲気に飲まれてしまい、自分の人生も大きく舵を切らなければならないと1人で気負っていた。そして、下山してから風の旅人の第43号を「空即是色」というテーマで企画し編集したところ、その内容が、3.11の東日本大震災とシンクロしてしまった。
 あれから色々なことがあった。昨年の4月、京都に移住し、はじめて京都で新年を迎えることになったが、その京都が61年ぶりの大雪に見舞われ、新年をともに迎えた友人の家から帰る時にタクシーがつかまらず、やむなく吹雪の中を歩くことになった。そして、翌日の1月3日、高野山に入った。
 今年は、高野山が開創1200年ということもあり、様々なイベントが計画されているが、2011年から2014年までの4年間、除夜の鐘を聞いていた高野山の聖域「壇上伽藍」の入り口に、1843年の火災での焼失いらい170年ぶりに中門が再建された。
 結界に入る前にこの門を通ることになるのだが、実は、3ヶ月前に高野山に来た時、この中門の再建に用いられた樹齢500年以上の檜の木の立派な端材を、高野山の友人の陶芸家、三星善業さんにいただき、それを京都の新居の玄関に設置している。だから、このお正月に、中門をぜひとも訪れたかった。
 その念願が叶い、伽藍でおみくじを引かせてもらおうとしたら、5時を5分ほど過ぎて社務所が閉まっていた。けれども傍にいた僧侶にお願いしたら、中からくじを持ってきてくださり、ひくことができた。
 くじは大吉で、その言葉が、今の自分の心境にぴったりだった。
 「地獄極楽 この胸の中 仏心で 物を観よ」

 「如何にこの世が苦しくても、ひとたびその眼を嘆転じて見れば、山には鳥が歌い、野には花が咲き乱れています。冬去れば春来たり、四季とりどりに廻り来たって、無限の楽しみが其の中に見いだされるでしょう。御仏の心になって人生を観つめ、地獄の底に喘ぎ苦しむ愚かさを捨てて心の中に極楽世界を招きいれましょう。」
 という意味らしいが、物事を俯瞰して見渡せば、「禍福は糾える縄のごとし」ということがはっきりわかる、何をじたばたする必要があろうか、そうした分別にとらわれずに、物事をありのままに観よという意味とも受け取れる。

 最近、「今のままではいけない、変わらなければいけない」といった議論を耳にすることが多いのだが、私が思うに、放っておいても世の中はどんどん変わっていく。それに対して心の備えがでいているかどうかが重要だと思う。たとえば年金がなくなるかもしれない。国民皆保険がなくなるかもしれない。自分が所属している会社が倒産するかもしれない。リストラされるかもしれない。今、獲得している地位を手放さなくてはならないかもしれない。所有しているお金が紙くずになるかもしれない。さらに自分が頼りにしている人がいなくなってしまうかもしれない。そして、自分が大病を患ってしまうかもしれない。
 そういうことを考えると不安になるので考えない、という人が多いかもしれないけれど、たとえ考えなくても、そういうことは、自分を避けて通ってくれやしない。
 だから、何がどうなろうと、パニックにならずに生きていける自分を作っておくこと。
 仏心で物を観れば、消えてなくならないものなどこの世に存在しない。
 だからいつ消えるような事態に陥っても、惜しんでもしかたがない、悔いてもしかたがない。
 とはいえ、まだまだ執着の多い未熟者ゆえ、この言葉を今年の書き初めでしたため、眼に付くところに置いておくことにした。



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