神の子羊か、スケープゴートか。

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 太陽光発電を邪魔する雑草を取り除くために、ヤギが、現代社会で重んじられるようになってきているのは象徴的で面白い。 

 ヤギは、確かに食欲旺盛で、草を食べる時に根っこまで食べ尽してしまう。その為、植物が再生できず、荒れ地になってしまう。場所によっては固有植物がヤギによって食べつくされ、絶滅を危惧されるまで至っているため、ヤギは、世界の侵略的外来種ワースト100の1種に指定されている。だから草原地帯では、ヤギではなく羊を放牧する。

 そのような貪婪なイメージがあるためか、ヤギは、キリスト教世界では悪魔の象徴だ。それに対して、羊は、神の子羊エスキリストと喩えられる。
 ヤギと羊は、よく似た生き物のように見えるが、まるで違う。羊は群れの中に馴染んでいるが、ヤギには孤高の風情がある。峻険な岩山でも、平気で駆け抜けていく力がある。
 キリスト教世界で悪魔になる生き物は、たとえば蛇もそうだが、それ以前の世界では神の側に属するものだった。ヤギもそうだ。キリスト教の支配地域が広がっていくと、それまで信仰されていた宗教が、異教徒が信じる邪神の宗教ということになってしまうからだ。

 こうした転換は、キリスト教だけに起こっているのではない。古代ペルシャ最高神だったアフラマズダーが、古代インドに入った時に魔神の阿修羅になるし、その逆に、古代ペルシャで魔神だったインドラが、インドに入って天空を司る神になり、帝釈天として仏教でも重要な位置を占める。

 単に、異教徒の宗教だから逆転現象が起きているのでなく、それらの神々が持っている性質と、その時々の社会との関係も強くあるように思う。
 それは、”生命力”に対する捉え方の違いだ。蛇もヤギも、どこか不気味なところがある。人間の管理の範疇に及ばない力があるように感じられる。どちらも生殖力とか繁殖力が強い。厳しい環境に耐え、粗食にも耐え、険しい地形も苦にしない強靭な性質がある。
 キリスト教では、生け贄は羊だが、古代ユダヤでは、生け贄はヤギだった。ヤギは、羊のように殺されて神の前に供えられるのではなく、全ての人の罪を背負わされ、生きたまま荒野に放り出されるのだ。特定の人間に責任を負わせるスケープゴートという言葉も、そこからきている。
 羊のように従順でないということで、周りと迎合し妥協しながらやっている多くの小心者に嫌われやすい性質なのだろう。
 ヤギは、そういう周りのやっかみや人の悪口を気にすることもなく、ひたすら荒野の我が道を行く。
 私は、ヤギに関して、二つの鮮烈な思い出がある。
 どちらも20歳の頃だ。一つ目は、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東などをヒッチハイクや野宿をしながら旅をしていた頃、クレタ島の南部の楽園のようなヌーディストビーチで過ごしたことがある。そこは、サマリア渓谷というヨーロッパで一番長い渓谷を歩いて通り抜けたところにあるビーチで、クレタ島の背骨のような峻険な山々に染み込んだ水が、地下帯水層を通って砂浜や海の中に湧き出ていた。だから、砂浜を掘ると、新鮮な水を手に入れる事ができるし、海に潜ると、湧き水のところにタコなどが群がっていて、それを食料として獲ることができた。すばらしい場所で気持ちよく逗留していたのだが、問題は、ヤギだった。砂浜の背後は絶壁になっているのだが、夜中、ビーチで寝ていると、ものすごい勢いで岩や石がゴロゴロと落ちてくる。ヤギが、垂直の壁をピョンピョンと跳ねるようにして移動しており、そのたびに、岩が落ちてくる。直撃されたら大怪我を負う。それが心配で、できるだけ崖から遠い波打ち際で寝るしかなかった。
 もう一つの思い出は、ベルギーのナミュールという田舎町の郊外に居候をさせてもらって、そのお礼に、毎日、ヤギの世話をしていた時のこと。
 鎖につないでいたのだが、ヤギは、ひたすら自分の足下だけを見つめ、足下の草だけを食べて歩き続ける。支柱に鎖を設置していたのだが、鎖をめいっぱいに伸ばすと10メートルくらいになるが、支柱を中心に半径10メートルのヤギが歩く円ができる。ヤギは、その円の上の草しか食べないのだ。その円の内側には草があり、鎖を緩めれば草をたくさん食べられるのに、自分の歩く方向の眼の前の草だけを食べ続けて、そこだけほとんど草がなくなっているのに、ひたすらその道だけを歩いていて、ぐるぐると円を描いている。視野が狭いなあと感心した。視野が狭く、頑固だけれど、ハングリーな状況にはとても強い。

 頑固で単純だから周りとの軋轢も増えて苦労も多くなる。でもそれが精神の強靭さにつながるということがあるだろう。情報をたくさん持って計算高く選択してやっていくのは、賢明な生き方と言えるかもしれないけれど、その分、孤高の強靭さはなくなる。そういう臆病な人達の集団が、ヤギをスケープゴートしたりするのではないかな。
 20歳の頃のヤギ体験が記憶に鮮明に残っているのは、ともに生命力というものを暗示する体験だったからだと思う。
 ヤギが悪魔的に扱われる時代は、計算高い小心者が権力を握る管理社会なのではないか。
ヤギが、聖なる生き物として扱われる時代は、過酷な環境の中で生きる逞しさを人間が切実に求める時代なのではないか。
 実際に、山岳地帯や乾燥地帯で生きる人達にとって、過酷な環境に強く、粗放的飼育に耐えうるヤギは大切な家畜だ。
 それに対して、環境に恵まれた農耕地では、管理をきちんとする必要があるけれど、肉や毛皮がヤギよりも良質な羊が好まれるし、乳の量がヤギよりも多い牛が飼われる。
 人間社会もまた、たとえばベンチャー企業ではヤギのようなタイプが重要だろうし、大企業になって安定してくると、羊や牛のようなタイプを多く採用するのかもしれない。
 日本社会は、今どういう状況にあるのだろう。
 

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