第886回 居場所(一昨日の続き)

 一昨日、『居場所」という内容でブログに記事を書いたところ、読者のAさんから以下の内容のメールをいただいた。
 この方は、2011年3月11日の東北大震災の後、故郷を離れ他の地域に移住している。その移住先で高校一年生の娘さんが、入学して間もない6月に、学校の担任の先生に自主退学するように追い込まれてしまったのだ。
 きっかけは、娘さんが、入学当時は仲良しグループだった女生徒達に、突然、SNSで誹謗中傷され続ける事態になったこと。「死ね」とか、「売春している」等という言葉の暴力によって頻繁に傷つけられた。
 そのことについて、同級生の彼氏と、担任教諭に相談に行ったところ、問題が解決するどころか、事態はおかしな方向に展開してしまった。
 なぜか、その担任の女性教師は、その彼氏に、彼女と別れるように命じ、卒業まで話をしてはいけない、スマホを解約することなどを命じた。
 そして、娘さんに対しては、「学校にはあなたの居場所がない」と退学を促した。娘さんは、1、2ヶ月ほど頑張ったらしいが、けっきょく退学。そして彼氏も退学した。
 娘さんがそういう事態に陥ってしまったため、Aさんが、その担任に話をしにいくと、「私はあなたの味方ではない」と言い放たれ、女性教師は、自分がいかに大変な身であるかということばかりを繰り返すのみ。最後には、「被災者の気持ちなんてわからない。賠償金をもらって生活できるのだから云々(Aさんは自主避難なので賠償金など受けていないのだが)」「娘さんが泣いても誰も理解はしない」という内容だった。
 娘さんと彼氏は、こんな担任の対応を受け続けて、自死願望に陥ってしまい、特に彼は、夜中や天候が悪いと自死しようとする。そして、「幸せになってはいけない、必要のない人間だから」と口にするようになった。
 普通の感覚だと、こうした教師がいることが理解しずらいのだが、時々、とんでもない学校や教師のことがニュースになるように、そういう人が実際に存在するのだ。
 Aさんは、避難先の土地の冷たさをひしひしと感じつつ、その担任の女性がなぜそういう歪んだ心になっているのか、怒りも感じながら、気の毒なものも感じている。
 幸いに、この娘さんと彼氏は周りの支えもあって自死することがなく、新たに自分の役割を見つけて、退学した後も元気に暮らしている。
 一昨日にブログに書いた「居場所」の中の16名の若者達も、学生時代にかなり際どいところまで追い込まれていたが、人との出会いなどによって、困難を乗り超えて生きている。
 いい出会いに恵まれず、ニュースで報じられるような事件になってしまうケースもあるけれど、結果がどうなるかは紙一重であり、一歩間違えばどちらに転ぶかわからないという状況は、至るところにあるのだろう。
 4年前、大震災があり、多くの人が犠牲になり、悲しみも大きかったが、これをきっかけに日本も変わっていくのではないかと多少の希望もあった。しかし、あれからいくら年月を重ねても、震災以前と変わらない現実がある。
 実際には、あの震災をきっかけに変わった人も大勢いる。それまでの仕事を変えたり、東京から地方に移住して地に足のついた生活を始めようと決断した人も、私が知っているかぎり大勢いる。
 また、各地で、地方活性化や、これからの日本のことを真剣に考える世代の垣根を超えた話し合いの場やイベントも増えた。そういうイベントに参加すると、日本社会を何とかいい方向に変えていこうと前向きな心を持ち、真剣に考えている人が大勢いることがわかる。しかし、そういう場に集まってくる問題意識の高い人達の中では分かり合える感覚が、それ以外の場所では、まったく通用しないのも事実だ。そのギャップはかなり大きい。そして、どうやら、問題意識を共有しているのは、全体からすれば少数のようなのだ。
 問題意識を共有している人のあいだでは、上に述べた教師の話など、「有り得ない!」「そんな人が本当にいるの!?」という感じになってしまうが、実際に、そういう教師は存在している。
 これはいったいどういうことなんだろうか?
 TwitterFacebookなどSNSの中では、問題意識を共有していたり、わかり合える人とつながり、そういう人達の言葉ばかり見ているので、現実感覚もそうなってしまうが、例えば選挙の時など、自分のSNSのコミュニティで交わされている話とまったく違う結果になり、そのたびに愕然とすることになる。
 ただ昔よりマシなのは、SNSなどを通じて問題意識を共有している人とつながれることだ。
 昔は、孤独だった。人との付き合いが、ご近所、職場、学校に限られていたので、その中で一人でも解り合える人がいたらラッキーだった。
 上に述べた教師のような人もたくさんいた。自分のことしか考えず、平気でえこひいきして差別もする。どの教師がそうなのか子供ながらにわかっていて、その先生が担任にならなければいいなあ、あの先生になって欲しいなあというのは、新学期のたびに思っていた。確率で言うと、いい先生にあたる確率の方が低かった。
 社会人になって企業で働き出しても同じだ。いい上司に巡り会えるのは本当にラッキーなことで、意地悪な上司や、自分が上役に気に入られることしか考えていない上司の方が多かった筈だ。
 あらためて考えてみると、近年、社会が酷くなってきているというより、前からずっと同じようなものだったという気がする。
 稀にいい人がいて、そういう時は本当に有り難く、神様みたいだった。職場の上司でもそうで、そういう稀な人のことは、ずっと忘れない。部下や生徒に酷い仕打ちをして、人間的に醜いなあと思う人は、周りからもそう思われていて、みんなの記憶にそう刻まれてしまっているのだから、周りの人を不幸にする以上に、その人自身が憐れなのであり、その憐れさに気づけるような何かが必要なんだろうと思う。
 問題意識を持って対話の場に臨む人は、放っておいても自分で色々考えたり、試みたりしていくだろうけれど、そんなことやっても無駄と開き直って悪態をついたり、自分の利害のことだけしか考えない人達の方が圧倒的に多いわけで、その人達の動向がこれからの日本社会の行方を決めていく。解り合えるもの同士が集まって、共感し合っているだけではダメなんだろうな。
 ということを考え、夕ご飯を食べて、テレビのスイッチを入れたら、法然のことをやっていた。

 テレビでは、法然ゆかりの知恩院法然院の観光ガイドもかねた紹介になっていたが、平安後期から鎌倉前期、内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこり、地震など天災にも見舞われ、人々が不安と混乱の中にいた時代に80年という大往生を遂げた法然のとった戦略は、かなり深い。
 法然といえば、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば死後は平等に往生できるという教えを説いた浄土宗の開祖である。
 厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは異なる彼の教えは、他の仏教徒から猛烈な反発を受けたものの、貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から受け入れられた。
 法然は、決して、他の仏教諸派のやり方を否定していたわけではなかった。
 法然は、自らを末法の時代に生まれた凡夫ととらえ、厳しい行によって悟りを得ることは素晴らしいことであるが、非常に困難で、自分自身でもそれを貫くのは困難であると考え、凡夫が往生するためには、無理な修行を重ねるよりも一心に念仏を唱えさえすれば確実に往生できると説き、それを実行すれば必ず救われると信じた方が、いろいろな意味でいい結果につながると考え、実践したのだ。
 安易な道を説いたというより、凡夫は、困難な道の前で諦めやすいわけで、物事を投出し自分の目先の利益しか考えない人ばかりになってしまうと、当然、世の中は乱れるし、一人ひとりも孤立化する。それよりも、実現可能であると信じられる道を設け、心を鎮め自らを省みる人が増えた方が、人と人とのつながりも増え、それぞれが憐れみによって支えられる。

 そして、法然が死んでから400年も後に、その思想に対する歴史上の最大の庇護者に徳川家康がなったというのが、日本の歴史を考えるうえでとても面白いと思った。
 戦国の戦乱の後、家康が築き上げた300年の平和もまた戦略的にかなり深い。
 戦国の鉄砲の時代から再び刀の時代へ、右肩上がりの経済から循環経済へ、グローバル化から鎖国へ、大名の力を削ぎ、お金が庶民に還元される参勤交代などの仕組みなど、徳川幕府のとった政策は、戦国の混乱に対する反省からきたものが多いと思う。
 法然は、平安末期、武士の子として生まれるが、9歳の時、父を夜襲で失う。その父が、死の間際に法然に対して、「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」と遺言を残す。
 その言葉に従って法然は仏門に入る。家康も戦国の時代を長く生きて、どこかで恨みを断ち切らなければ新しい時代に入れないと考えていただろう。
 法然の思想の根底には、負の連鎖を断ち切り、平和を実現するために、善人も悪人も分け隔てなく、救いを信じられるという状況づくりこそが大切だという考えが横たわっているのではないだろうか。
 救いが困難であるがゆえに救いを信じられなくなってしまい、本当は悪人でなくても、心を歪めてしまう人も大勢いる。上に出てきた酷い教師も、何かに絶望し、心を歪めているのかもしれない。
 救いを求めるために、出家し、厳しい修行と学問を続けていくのは凡夫にはとても無理なこと。
 それができる人は素晴らしい。でも、できない人も、信じる力を失ってはいけない。
 一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、救われると信じなさい。信じれば救われる。それくらいならあなたにもできるでしょう、という法然の深慮。
 現在のような情報過多の時代に、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると言われても、信じる人はそんなにいないかもしれない。
 しかし、もしかしたら、 「南無阿弥陀仏」という言葉に変わる何かがあるかもしれない。
 凡夫にでも実践でき、信じることによって自暴自棄にならず、心を鎮めることのできる何かが。


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