第887回 袖すり合う縁をも生かす

93撮影/大山行男 風の旅人 復刊第5号 いのちの文(あや)より

 

 昨日、建仁寺塔頭である両足院において寅市という手作り市が開催されていた。着物の切れ端を上手にデザインした布製のバックや、ガラスエッチングを施したグラスや花瓶、玉石のブレスレットや、自作の絵で作った一筆箋など、手作り感に溢れ、興味深いものがたくさんあった。

 最近、素人の手作り製品をオープンマーケットで販売している光景によく出会い、吉祥寺に住んでいた時も、週末になると井の頭公園にたくさんの露店が出ていた。
 私は、そういう手作りの物に弱いところがあり、つい買ってしまうのだが、その多くは、素人が時間の空いている時に作ったという趣味のもので、温かみはあるものの、作り方なども雑なところがあり、使えば使うほどに味がでるというものはそんなに多くはない。
 家具などのように毎日使うものは、同じ手作りでも、技を究めた職人さんが作るものと、趣味の延長の手作りでは、安定感も含めた身体への馴染み方など歴然たる違いが出る。
 手作りでさえあればいいというわけではなく、技術も大事だし、それ以上に大事な何かがあるように思われる。
 時々、素人の域を超えているものと出会うが、そういうものは、”温かみ”とか”素朴さ”という素人作品に対してよく使われる形容は相応しくなく、ものそれ自体から、ちょっと異様なオーラが滲み出ている。
 昨日出会ったガラスエッチングの人や、玉石ブレスレッドの人もそうだった。話を聞けば、とにかく、それを作るのが好きで好きでたまらないらしい。それに没頭している時間が至福らしい。
 ガラスエッチングの人は、手があいている時間はずっとやっているらしい。露店で売るために店番をしている時も、暇があればずっと手を動かしているらしい。そうやって三日間ほど没頭して、世界にたった一つしかないものを作って、2000円くらいで販売している。商売のことなんかまるで考えていない。売る時に、自分が作ったものから何かを感じてくれる人がいれば、幸福感は増す。露店で、ガラス製品を見ている人が手を滑らせて落として割ってしまっても、弁償なんか求めない。「割ってしまった!」と動揺して傷ついてしまう心の方が大事で、だから、「気にしないで、また作ればいいから」と言う。
 その人が作っているものと、その人の存在自体から、悦びと快のエネルギーが伝わってきて、こちらも力を得られるような気がする。
 ものを媒介にして、こういう感じで人と関わるのは本当に楽しいと思う。
 作っている人が、作っていることに対してものすごく悦びと快感を感じていて、それが直に伝わってくると、そのものを買う側は、ものだけでなく、悦びと快感もいただく。なんだかエネルギーをもらって力が満ちるような感じになるのだ。
 現代社会では、気取った感じで売られたり、宣伝に煽られたり、偽装表示とかが行なわれていたり、作る人が単なる時間労働で、決められた物(マーケティングされたもの)をマニュアル的に作っているだけであったり、心のこもった物と出会えることは、そんなに多くはない。
 これは写真などの表現行為にも言えることで、ファッション性などといって体裁ばかり気を使ったものや、現代アートのように評論家が意味深に価値付けしたり、規格品の大量生産のように、どこにでもあるようなものが氾濫している。
 私が風の旅人で関係を持たせていただいている写真家には、上に述べたガラスエッチングの人のような悦と快とエネルギーを強く感じる人はたくさんいるが、次の号で紹介する大山行男さんは特にそうだ。大山さんの富士山に対する思い入れは異様なのだ。
 大山さんは、毎日、富士山を拝めるように、富士山の真横に、自力で家を作ってしまった。自力で家を建てたと聞くと、素人の掘建て小屋のようなものをイメージしがちだが、そうではなく、立派な家なのだから驚く。柱も壁もないドームハウスという組み建て式の住居だが、ふつうは業者に発注するところを大山さんは自力でやってしまった。
 そして、富士山の側には大きな窓があって、その窓の比率も、フィルムの比率になっていて、毎朝、それを眺め、何かの兆しを感じると、場所を決めて出かけていくのだ。
 そんな生活をもう30年以上続けている。
 だから大山さんが撮る富士山は、絵はがきやポスターで頻繁に見られる規格品のような富士山像とはまるで違っていて、得体の知れないオーラがある。クレージーなまでにのめりこんで作られているものは、どんなものでも、作り手のエネルギーがこめられているが、それは写真でも同じなのだ。
 写真というのは、シャッターを押せば写るのだから、ピントが合っているかどうか、露出が適正がどうか、構図がいいかどうか、シャッターチャンスをうまくとらえているかどうかといったポイントが評価の違いになると考えている人が多いけれど、写真にも、撮影者のエネルギーが入り込む。
 写真に限らず、焼き物やガラス製品や織物でも同じことが言える。形や色以外に、ものをものとして認識する場合、形や色以外に、風合いとか質感という感覚があるが、風合いとか質感のなかに、エネルギーと関係の深い何かがあるのだ。
 このことを考えるうえで、アフォーダンスという概念が、参考になるのではないかと私は思っている。
 「人間は環境から刺激を受け、脳によって加工することで、その刺激を意味ある情報か、そうでないか区別する」と考えている人は多い。これに対して、アフォーダンスの概念は、「情報は人間の内部で処理された結果ではなく、人間の周囲に持続と変化するものとして存在している。生物が行なっていることは、その情報を探索して手に入れることである。」ということになる。
 具体的には、例えば森の中の果実は、食べられる物としてのアフォーダンスを備えている。こちら側が空腹であれば手を伸ばして食べるし、空腹でなければ手は伸ばさないかもしれない。空腹であるかどうかというこちらの主観的な事情によって、その果実の市場価値は変わるかもしれないが、その果実が食べられる物であるという潜在的な価値は、こちらの主観とは無関係だ。だからといって、その果実が食べられるものとして、客観的な普遍性を持つかというとそうでもない。なかには、それを食べると猛烈なアレルギー反応を起して死んでしまう生物もいる。
 その果実が備える「食べられるもの」としてのアフォーダンスは、相手との関係で引き出されたり、そうでなかったりする。関係性こそが、そのものの価値であり意味なのだ。
 宝が宝としての性質を備えていても宝の持ち腐れが起こることは、私たちが日常的に経験している感覚だ。
 このことを別の切り口で説明すると、柳生新陰流の剣術家、柳生宗矩の言葉で、柳生家の家訓にもなっている言葉がある。


 「小才は、縁に出会って縁に気づかず。
 中才は縁に気づいて縁を生かさず、
 大才は袖すり合う縁をも生かす。」
 
 柳生宗矩は、江戸時代の初期に徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えたが、この精神は、一昨日のブログに書いた法然の浄土思想とともに、徳川家が三百年続けた太平の時代の礎になっていると思う。
 人やものそれ自体の潜在的価値を、どれだけ取り出せるか、その関係性づくりこそが大事であり、それがアフォーダンスに対する心構えなのだ。
 ものや人に秘められているアフォーダンスを発見するためには、ただ見たり触れたりするだけでは発見できない。アフォーダンスを発見するためには全身での経験が必要だ。
 たとえば、暗闇の中で何かの物に触れた時、それが何であるか確認する為には、表面をなでるだけでなく、たとえば手に持って重さを感じたり、ちょっと振ってみたり、掌で触るだけでなく指先でつついたり、色々な感覚を総動員して、予測を立てる。
 目を閉じて森の中に入っていく時も同じだ。耳をすませたり深呼吸したり、肌にあたる風を感じたり。むしろ、目を閉じた方が、森が備えている質感のようなものが、より伝わってくるかもしれない。
 その対象に分け入って、色々な感覚を総動員してこそ、それそのものが備えているアフォーダンスを掴むことができる。対象との関係性の深さが、引き出す力の強さにもなる。
 ガラスのエッチングにしても、ガラスとの触れ合いに没入し、五感を総動員して感じとることで、潜在的な何かが引き出される。大山さんが撮る富士山の写真にしてもそうだ。見た目の色とか形ではなく、風合いとか質感として伝わってくるものは、それを引き出せる関係性を持った人にしか引き出せないアフォーダンスなのだ。

 表現行為に限らず、何か事を行なった時に、自分の意志で決めたというより、”何かに呼ばれて”とか”なるべくしてそうなった”としか言いようのないことが起こるけれど、それもアフォーダンスに無意識のうちに反応した結果なのだろうと思う。

 人生の転機は、そのようにして起こっていることが多い。計画でもなく、単なる偶然でもなく。

 「縁に出会って縁に気づかず」とか、「縁に気づいて縁を生かさず」という段階の時は、どんな仕事をするにしても、そこに悦や快は生じないし、だからそういう人が行なった仕事は、それに触れる人の内から悦や快を引き出せない。
 人間は誰でもアフォーダンスとして、その内側に悦や快を備えている。その悦や快を引き出し合える出会いとか関係性が、生きていくうえでとても大事なのだろう。
 「袖すり合う縁をも生かす」というのは、努めてそうしようと努力することではなく、ちょっとした出会いに何か大事な宝が潜んでいると直観し、その上で自らが動くことによって成すものであり、自己中心的に物を見ていては「縁に出会っても気づかない」し、依存的に受け身的になっていれば、「縁に気づいて縁を生かさず」になってしまう。自分の中から濁りを消して、無になって、素直に人や物に働きかけるからこそ、縁を生かすことができる。
 縁を生かすというのは、都合よく利用するということではなく、人や物に触発され、自分の中に力が湧き起るような感覚になること。つまり、自分の生命力というアフォーダンスが起動すること。
 誰しも生命力は備えている。それを引き出す人やものとの関係性こそが、暮らしを整えるうえで何よりも大事なのだろう。
 社会で役立つことをしたい、自分の仕事を通じて人を幸福にしたいという人が大勢いるが、何をもって役に立つというのか、何をもって幸福というのかという問題があるわけで、(消費社会の中で多くの人の生活の利便性につながる物をたくさん作ることも、役に立つことの一つである)、そういう価値は流動的だ。
 いろいろな価値が流動化するなかで見えてくる普遍的な価値というものがあり、それは、生命を生き生きとさせるアフォーダンスだろう。
 人や物との関係の中にそれを発見し、触発され、それを具体的に引き出し、自然な形で自分の仕事に反映させることで、他の人々の生命力というアフォーダンスを起動する何かができる。
 人の役に立つ事をするという意識過剰になる前に、”袖する合う縁をも生かす”心構えがないと、何も始まらない。


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