第909回 新国立競技場の問題は、現代日本の体質の問題

 2020年東京五輪パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)の整備計画が大幅に見直される問題で、文部科学省などがデザイン監修者としたイラク出身のザハ・ハディド氏(英在住)の事務所との契約解除を検討していることが5日、分かった。
 この新国立競技場の問題は、私が、30年間住んだ東京から京都に移住をしようと決断した最後のきっかけでもある。
 私は、新国立競技場の傍に住んでいたわけではないから、この競技場によって直接的に住環境に影響を受けるわけではなかった。
 しかし、こういう物事の決定の仕方が安易にされてしまう東京のあり方に、なんともいえないやりきれなさを感じた。もちろん、このプロジェクトは、東京が主導ではなく政府の主導ではある。だから、東京に限らず、全国で、ミニ東京という感じの似たようなことが、次々と行われている。
 箱物行政は、ずっと以前から様々な批判を受けながら行われてきた。そして今も、”活性化”という大義名分の為に、同じ事が繰り返される。しかし、その繰り返され方が、様々な批判を受けてきたために手を変え品を変え、複雑化しているのが気にかかる。
 莫大な税金を投入するわけだから国民を説得しなければならない。そして国民を納得させなければならないお役所勤めの人間のセンスの無さにつけ込んで、巧みな企画提案をしてお金儲けをする姑息な輩がいる。
 お金を牛耳っているお役所の人間は、芸術的な素養も自信もないことが多い。そんな彼らが判断材料とするのは、集客数とか、収益性とか、有名か無名かとか、権威的な賞の受賞歴といった、客観的に比較検討しやすいものだ。
 自分の感じ方や考え方よりも、周りの人がどう言っているかとか、世間の評価はどうだとか、そういうことばかり気にしてきた人たちにつけ込む方法がある。行政の予算で行われるイベントや建築やデザインその他のコンペに勝ったり代理人として勝たせるというのは、そういうことも含めて、上手にできるということでもあるだろう。
 今回の新国立競技場のデザイン設計において採用されることになったザハ・ハディド氏は、建築界の大きな賞を受賞していたらしいが、そんなことはどうでもいい。問題は、この人が、どれだけ東京の街を知っているのかということ。この建築家の建築思想は、様々な歴史的背景を無視すること=新しさなのだから、東京の歴史を知っているはずがないし、知ろうともしないし、知ることすら必要がないという立場だ。この人にとっては、過去からの断絶が未来ということなのだろう。だから、周りとの関係性や調和を無視した”目立つ建築物(目障りな建築物でもあるということ)”を提示し、その時に生じる違和感や不安感こそが現代性だという詭弁で、それが心の活性化につながるのだと訴える。現代アートと称するものにその類が多いが、何かを作って人を少し驚かし、飽きられたら捨てられる消費財のような紛い物のアートなら害は大きくない(積もり重なると害になる)が、莫大な税金を投入する建築で、そんなことが認められていいはずがない。
 ”活性化”というのは、そういう一過性のものではないはずであり、ちょっと騒いで、すぐその後に反動がきて深刻な沈滞状況になるということを、戦後史は繰り返してきたし、その傾向は、しだいに強くなっている。
 人が大勢集まったり、騒いだり、お金が大きく動くだけで活性化していると考えているのが大きな間違いで、それは、心が本当の意味で活性化しておらず、むしろその逆に、空虚だからそうなるのではないか。
 心が活性化するというのはどういうことなのか。それは、派手に動き回ることよりも、むしろ静かに自分の心と向き合っている状態ではないのか。自分の心と向き合うことで、自分につながっている色々なこと、周りの人たちのことや過去の人たちのことに思いをはせて、そのうえで、未来に向かって自分が何をすべきなのか真摯に考えて実践していくこと。それが心の活性化だろう。自分たちにとって本当は何が大事なのか静かに考えることもせず、行動もせず、人からあてがわれたものを消費するだけの空騒ぎを”活性化”だなんて、人を欺いたり、大事なことから目を背けさせる目くらましだ。
 ザハ・ハディド案の新国立競技場は、高さ70メートルもあるという。上空から眺めたデザイン画は、アニメのようで人受けするのかもしれないが、いったい誰がこの巨大な建物を、上空から眺めて暮らすのだ。
 地上にいる人間にとっては、ただ70メートルの高さでそびえる巨大な壁が、延々と続くだけのことであり、そういう光景は心を疲れさせるだけであり、リフレッシュして自分に向き合う集中力を高める場になるとはとても思えない。
 東京の都市設計において、神宮の森を作り出したことは素晴らしいことだった。こういう森が中心部にあることが、日本人の精神性にとってどれだけ重要であるか。時間をかけて、伝統と未来のことを見据えて、色々な角度から非常に考え抜いて作り上げていった先人たちの努力。神宮の内苑と外苑の関係を十分に配慮しながら大切に育てられた森のことを無視する発想を、新しいものとみなす浅はかさに、心底、憤りと絶望を感じる。日本人の心は活性化するどころか、ますます砂漠化するだろう。
 未来が、過去から断絶した目新しさのなかにあるという発想は、もう古い。私はそう思って京都に僅かな期待を抱いて移住した。しかし、ここでも行政が主導する催しは、やはり東京と似たものになる。かなりの税金を投入して行われている京都国際現代芸術祭など典型だ。
 そこには、この種の現代芸術祭で、必ずご指名のかかるアーティストのマンネリ化した作品が集められている。こういうマンネリズムを、新しいことだと信じている人間が、行政の周辺には多いということなのだろうか。
 新国立競技場においてハディドの案が採用されることが決まった時、それに便乗するような様々な企画が催され、「ロンドン在住のザハ・ハディドは、現代の建築界を牽引する巨匠であり、世界を席巻する建築家です。」といったキャッチコピーが、繰り返し見られた。実にくだらない紹介文だが、おそらく、行政の担当者を説得したり、マスコミに記事にしてもらうための資料に、そう書かれているのだろう。そして、多くの人々を集客するうえでも、こういう紹介文が有効だと考えているのだろう。
 
 新国立競技場が、ハディドの案に決まり、実際に実行しようとしたら、予算の倍となる3000億円がかかることがわかり、プロジェクトを進める日本スポーツ振興センター(JSC)は計画を見直した。当初案とは大きく外観が異なり、なんともみっともないデザインの案になったが、それでも当初の予定より高い1600億円もかかるのだという。
 そして、さらに今、ハディドとの契約を解除する動きも出ているが、契約解除になると、多額な違約金が発生することも考えられ、それも覚悟しているのだという。いったい誰がどんな覚悟しているというのか。
 ハディド案に関わった文部科学省を中心とする人間たちが、その違約金を負担するのであれば、覚悟という言葉を使ってもかまわないが、ハディドに対する違約金も、これまでの無駄な仕事に対する自分たちへの給与も、税金によって、まかなわれている。
 他人のお金を使って、みっともない仕事をして、それについて何の責任もとらずにすむなんて、呆れてものも言えない。
 こういう流れが、東京だけでなく、京都も含めて全国に広がっているわけだが、行政にお金が集中して、行政が主導権を握っているかぎり、治らない。
 行政担当者がいくら反省したところで、判断力のない人にうまく取り入って”頼りにされる人”たちがいて、判断力のない人たちは、その人たちのアドバイスを有用なものだと信じ込んでいて、悪気がないけれど愚かなことを繰り返すことになる。
 新国立競技場の問題は、行政の横暴によるものではなく、物事を本質的に判断できなくなっている人たちの集団組織に、お金と権力が集中してしまっているというこの国の現代の体質・構造の問題だと思う。
 たとえば図書館や美術館も、同じようなことが繰り返されている。住民の要望ということで、どこの本屋にも積み上げられている広告ばかりの使い捨ての雑誌を図書館の予算で購入したり、上に述べたように、「現代アートの展覧会」では、名前が知られている方が企画が通りやすいし集客もしやすいので、いったん有名になると、どこでも顔を出すということになり、どこも似たような催しばかりになる。
 新しさをアピールするもののほとんどが、ステレオタイプにしか見えない。
 新しさというのは、もはや物としての目新しさではなく、ものごととの関係性の新しさなのではないか。
 見た目が派手でなくても、飽きがこなくて愛着を感じ、それに触れるたびに心が新しくなるものがある。
 また、使いこむほどに新しい表情を見せてくれるものもある。
 そうした関係性によるものは、関係の仕方が複雑精妙であるがゆえに、ステレオタイプにはならない。
 建築にかぎらずどのような物作りも、もともとは、人と自然の様々な関係性を通して行われていた。
 関係性に配慮せず、頭でっかちの自己表現のための物作りが増殖し、それが建築という巨額なお金を必要とする分野にも広がってしまった。
 でも、だからこそ、その矛盾や醜さも、際立つことになる。
 問題は、建築にかぎらずどの分野でもそうだが、「裸の王様」のように、おかしいものやつまらないものを、正直にそう言えない大人が多いことだろう。とりわけ、自分をインテリとか文化人の一員だと思っている人に。