第911回 発想の転換がなければ、同じ過ちが繰り返される。

 

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 昨夜は、祇園祭りの宵宵山。今日は、関西圏に台風が直撃するとのこと。

 世に災いがある時に、それを怨霊の仕業とみなし、その怨霊を神として祀ることで災いを鎮めようとする御霊会が祇園祭りの起源だが、そういう転換の発想を、日本人は得意としてきた。
 地震とか台風とか、様々な災害に襲われやすい日本という国で、その不運を嘆くばかりであったり、いつ起こるかわからない災害を必要以上に怯えるばかりだと、肝心の日々の生活が疎かになる。心配しすぎて、そのことに心がとらわれてしまうと、なんのために生きているのかわからなくなる。
 心配するのは、自分の生の営みが健やかでありたいからなのだが、心配がつのりすぎて自分の生が不健全になってしまうことがある。そもそも、なんで心配していたのかわからなくなり、心配をより強化するための材料を探し出して、より強く心配したり、周りに心配を呼びかけたり、押しつけたりする人もいるが、当人は、自分の行っていることの矛盾を感じられないほど神経が鈍磨してしまっているのだろう。
 最近、祖国防衛を論じる学者などで、そういう輩の露出が非常に増えてきた。心配を増長させることでテレビ出演や雑誌への出稿などで収入を得たり、有名になって虚栄心を満たせるので、心配の種を色々と見つけてきて、それを得意げに語っている。「中国が攻めてくる可能性はこれだけありますよ!」と。一人ひとり、個人名を覚える気にもならないが、日本の不安を語る時に、状況に対する憂いがある表情なのか、自分が見つけてきた不安材料を得意げに語っている表情なのかというのはすぐにわかる。後者の言うことなど、一種の自慢話であり、アホらしくて耳を傾ける気にもならない。
 何かを行う時に、それができない理由や原因を探すことは簡単なことだ。いかにそれが難しいのか、無理なのかと、ネガティブな意見を展開するのは難しいことではない。だから、会社でもどこでも、そういう人は大勢いる。
 状況分析というのはネガティブな材料を探しやすいもので、ポジティブな材料というのは、僅かに可能性として見いだすことができるものでしかなく、その限られた材料を、どれだけ信念をもって大切にできるか。創造的な仕事というものは、その信念のうえに築かれる。
 僅かであるけど存在するポジティブな可能性を大切にしながら前向きに生きていこうとする時に、ポジティブの可能性の何倍もあるネガティブな可能性に心を捕らわれてしまうこともあるので、そうならないような心構えや工夫も必要だ。
 日本人が伝統的に行ってきた御霊会のような”祓い”の仕組みというのは、なかなかよくできたものだと私は思う。
 生きていくと疫病や天災など様々な試練があり、その原因を探ってもけっきょくわからないという不安心理のなかで、次に何が起こるかと、ビクビクし続けるのは精神的によくない。それこそ、いったい何のために生きているかわからなくなる。人生というのは時間が限られていて、仮に疫病や天災がなくても、死ぬ時には死ぬ。ならば、悪いことがあって、それに捕らわれ続けることよりも、「禍福は糾える縄のごとし。」と捉えた方が、限られた人生を健やかに過ごせる、かもしれない。
 奈良の東大寺に、転害門がある。害を転じる門。素晴らしいではないか。歴史上、東大寺は、何度も兵火に焼かれるが、この門だけは焼失することなく、天平時代の東大寺の伽藍建築を偲ぶことができる唯一の遺構になっている。
 現状を守ろうとする意識が強すぎると、おおかたの場合、現状は守れない。過剰に守ろうとする意識を消し、自然体で、仮に害があっても転換させてみせるという心意気があれば、意外とトラブルもなく健やかであり続ける。人生を振り返ってもそうだし、世の中の摂理も同じだろう。企業などにおいても、必要以上に顧客の苦情を嫌って、契約時に細々と条件を書き連ねる傾向が強まっているが、何かトラブルがあった時に、その対応窓口がどこにあるかわからず、よけいにストレスを感じ、その会社への信頼感がなくなることがある。事前の防衛意識よりも、何かトラブルがあった時にどうするかということが明確な会社の方が、信頼できるし、そこで働く社員も、人間的にも好ましい対応ができるだろう。なぜなら、前者は、苦情やトラブルは面倒なことでしかなく、後者は、苦情やトラブルは、そのやりとりによって自分のトレーニングになったり、それが転じて、関係作りに役立てられるという発想があるからだ。
 現在、盛んになっている防衛論議も、健やかに生きることの本質を見失って、理屈の戦いになってしまうと、ネガティブ派の方が圧倒的に有利だ。ネガティブな材料なんて、探せばいくらでも見つかるし、その論理構築も簡単なのだから。
 「何々が起こる可能性がある。だからそれに対して手を打たなければならない」という論法に対して、「いや、そういうことは起こらないですよ」と反論しても、起こる可能性と起こらない可能性の材料探しは、起こる可能性の方が見つけやすい。いくら起こらない可能性を説いても、「それは可能性ではなく、そう思いたいだけでしょ」と言われて、より多くネガティブな材料を見つけた相手を優越感に浸らせるだけになる。
 
 前置きが長くなってしまったが、安全保障関連法案が、15日午後、衆院特別委員会で採決が行われ、自民・公明両党の賛成多数で可決された。
 安倍政権を選挙で大勝させてしまった時点から、このことはある程度予想されていたが、街の人や学者など、もちろん大反対の人も多いのだけれど、真面目な顔で賛成する人もけっこう多い。そういう人は、中国や北朝鮮に攻撃される可能性を説き、こちらが武装することで相手に攻撃を躊躇させることができるとか、国際法の中で集団的自衛権は認められているから違憲ではないとか、友達がやられているのに加勢もしないのは人道的にも許されないことだという論理を説く。
 しかし、そもそも、そうした理屈がおかしいということに、理屈合戦のなかで気づかなくなってしまっている。
 そもそも、「他の国がそうだから、うちもそうする」という理屈で、日本国憲法があるのではないのだ。友達がやられていたら助けるかどうかという議論の問題ではなく、戦いにはいろいろな理由があるもので、その理由をいちいち認めてしまうと、けっきょくは取り返しのつかないことになってしまうという猛烈な反省があるから、日本国憲法がある。
 日本国憲法があるからではなくアメリカに守ってもらっていたから日本は平和を維持できたのだと主張する人もいるが、そういう理屈もナンセンスだ。その理屈の正当性を証明するために、いろいろな材料を探し出して提示したところで何になる。
 だって、第二次世界大戦で、あれほどまで惨たらしいことをやってしまったという反省があって、アメリカが守ってくれようがくれまいが平和を求めていくという精神があったからこその日本国憲法だろう。アメリカから押しつけられたとか、アメリカが守ってくれるという前提の、つまりそういうあざとい憲法が自分達の憲法なのだと、なぜそこまで卑屈に思えるのだろう。自分の国に対する誇りも何もあったものじゃない。誇りもないくせに、この国を守らなければならないと声を荒げる心理もよくわからない。本当の意味で誇りもなく、ただ小心なだけの人間の虚栄、もしくは、臆病になって理屈をこねているだけなのだろうか。
 アメリカが守ってくれたからではなく、たとえ守ってくれなくても私たちは戦争はやらなかったし、これからもやらない、なぜなら、70年前の経験を忘れていないからだと、なぜ堂々と言えないものなのか。
 もう二度とあんなことはやらないと決めた日本と、原爆投下などの悲劇を経験をしていない他国を同じ土俵に乗せて、国際的には、どの国にも認められている云々と理屈をこねる人間が大勢でてきていること。それはもう、あの戦争が過去のものというか、どこか他人のものになってしまったということなのだろう。
 経験をもとに成長していくという、傲慢不遜な人間でももっている筈の美質を放棄し、けっきょく、こういうぎりぎりの問題でも、「自分はどうなんだ」と信念をもって語るのではなく、「周りがそうだから自分もそうする」という日本人によくある卑小な特徴が全面に出てしまうのが残念でたまらない。
 日本人というのは、確かにナイーブなところがあり、周りの顔色ばかりうかがい、けっきょく自分は本当はどうしたいのか、どう生きて死んでいきたいのか、自分でもよくわからなくなっているところがある。しかし、自分でもよくわからない大勢が流れに乗ってしまうと、かなり厄介な暴力になる。そして、わからないという状態はよくないと感じる気持ちが少しはあるので、少し真面目な人ほど、上に述べたようなネガティブな材料探しの理屈に耳を傾けてしまって、素直に納得してしまうこともある。それは、物事の表面の理屈知識にすぎず、根本的な問題をみすえた話ではないということに気づかないまま。
 日本人はナイーブで、周りの影響を受けやすいという欠点はあるものの、害を転じるという柔軟な発想をする資質も持ち合わせている。それは、自然というものがそういう摂理であり、自然を見て生きていると、そういうことがわかるのだ。自然界で、死はただの死ではなく、必ず次の生につながる。終わりはただの終わりではなく、必ず次の始まりと裏表である。家族の中に病人が出たことで、それまで仲の悪かった家族の結びつきが強くなるということもあるし、個人の経験をふりかえっても、いくつか思い出せる筈だ。
 中国の軍備費が増大しているという事実はあるのかもしれない。しかし、そういう事実を過剰に心配して、不安がり、対抗措置を講じることだけが生きる知恵なのか。現代の武器の殺傷力や、緊密な国際関係からして、もはやどちらが勝つとか負けるという次元の問題ではないだろう。
 今こそ発想を転換する時期なのではないか。その発想の転換こそが、現代の複雑な時代、一人の個人にとっても、生きるうえでネガティブな要素を探し出せばキリがない時代を、いかに生きていくかという新しい思想の土台となるだろう。
 道を歩けば、犬の糞が落ちているかもしれないし、お金が落ちているかもしれないし、路傍に花が咲いているかもしれない。
 何が際立って見えるかは、当人の意識の問題。けっきょく、見えてくるものは、何を見ようとしているかという当人の意識の影響が大きい。人生にしても、一国のあり方にしても、その意識の積み重ねが、形を作っていく。
 だから、中国の脅威を論じる人間は、それは一種の意識の傾向(癖)だから、次にはきっと別の脅威や不安を見つけて堂々と論じるだろう。そのスパイラルに陥ると、止まることなく、その意識が膨張していく。
 誰だって、最初から戦争をしようと思って戦争に突入するのではなく、不安意識の膨張が、後戻りできないところに人間を導いていく。その結果を知った人間が、意識を転換できなければ、きっと同じ過ちを繰り替すことになる。


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