第914回 不登校をきっかけに

 夏休み前に、知り合いの中学2年生の子どもが不登校になり、夏休みの色々な体験(自分を客観視する体験)で、8月25日からの新学期は、なんとか学校に行けるようになったものの教室には入れず、一日中、自習室で過ごしている。
 学校に馴染めない子どもは、夏休みが終わって新学期が始まる時、精神的に一番辛くて、自殺するケースも多い。そういう子どもに対して、「無理して学校に行く必要はないよ」と呼びかけることも大切かもしれないけれど、夏休み後に辛くなることは最初からわかっているので、夏休みの体験によって何とか気持ちを切り替えることができないものかと、その子どもの親は、一緒に旅行したり、ずっと話し相手になるなど、色々と努力していた。無理して学校に行かせようというのではなく、世界の見え方が変わればそれまでの悩みが嘘のように消えると親は考え、その親の考えは、子どもには伝わっているようだ。
 そういう課程を経て、子どもは、自分の陥っている状況をかなり客観的に捉えることができるようにはなっている。
 しかし、その子どもが通う東京郊外の中学校は、マンモス校で生徒数が多く、その子どもは「学校は人間の数が多すぎる」と訴えることもある。
 数ヶ月前までは何も問題はなかった。しかし、体育祭の時、足を骨折して一ヶ月以上松葉杖の生活が続き、体育や休み時間をはじめ、みんなが元気そうに動き回っている時に、じっとしていなくてはならなかった。そういう自分が情けなく、次第にコンプレックスを深めていき、クラスメートのちょっとした言葉に傷つくようになった。今年の春に転校し、周りに友人がいなかったこともあるが、動けない彼に対して、「そこに立っているだけで邪魔だ」だとか、クラスメートが無神経な言葉を投げつけるたびに針のむしろのような気持ちになり、学校に通えなくなった。(本人は、なんでそんなこと言われなければならないんだと落ち込んだが、自分を客観視するようになって、それはイジメというほどのものではなく、自分が傷つきやすいだけだと認識するようになっている)。しかし、身体を動かせず、気持ちを発散させることができない状況で、頭の中だけで色々なことを考えるうちに自分の性格を自分で責めるようになり、自己嫌悪感が対人恐怖症を引き起こし、街を歩いていても、みんながジロジロを自分を見て悪口を言っているような(当人にとっては、本当に悪口が聞こえるという症状)、視線恐怖症になってしまった。
 親としては、このままズルズルと不登校が続き、益々症状が重くなり、学校に行けないどころか家から一歩も外に出なくなり、自分の部屋の中に閉じこもってしまうということを恐れる。
 その子どもは、まだそういう事態ではないが、家の中で家族共有のパソコンで色々な情報を見ている。母親が、検索履歴を確認すると、アスペルガーとか心の病に関係することや、「異次元へのトリップの仕方」みたいなサイトにもアクセスしている。子どもなりに、一生懸命に自分が陥っている状態を客観的に把握しようとしたり、その苦しさから脱出の術を探し求めたりしている。
 「客観性」という視点は、大人にとっては当たり前に備わっているものかもしれないが、思春期の頃は、その感覚は未発達だ。自分の状態を外から観察して、冷静に分析して、対策を練ることは難しい。大人だって、追い詰められた状態で、そういう客観性や冷静さを保つことは難しい。
 その子どもは、客観的に見るかぎり、心は純粋で誠実だし、態度も堂々としているし、顔の表情にも内面の健やかさが現れている。しかし、当人は、自分の目つきが悪いとか、色々と自分の欠点を見つけ出して、その欠点に押しつぶされそうになっている。その苦しみの悪循環は、客観的にはまるで理解できない。当事者の中の世界で、当事者が、いろいろな敵や困難を作り出して、必死に闘っている。人間の脳というのは、本当に厄介なものだなあと思う。
 さてどうしたものかと、親は考える。いくら心がナーバスになっているからといって、腫れ物に触れるような扱いは、よけいにこじらせるのではないかと予感がする。なぜなら、子どもの心の中には自己嫌悪感が満ちており、子どもに対してあからさまに配慮する周りの空気が、子どもをよけいに苦しめることになるからだ。
 視線恐怖症に陥っている子どもは、世の中の全ての人間が自分を無視してくれたらどんなに楽なことかと、ある時、呟いていた。
 ならば配慮はせずに放っておけばいいのか。学校の勉強の遅れといったことは、後からいくらでも取り戻せる。人間は、ある日、猛然と勉強したくなる時があり、その時から勉強を始めても、短期間のうちに、あっという間にそれまでの遅れを取り戻せると、その子どもの親は思っている。ダラダラと机に向かい続けるよりは、自分と必死に向き合い、哲学的な問いにさらされている方が、客観性その他、人間が生きていくうえで必要な”脳力”が鍛えられるということもある。
 だから、勉強の遅れなどは、そんなに気にする必要はない。けれども、不安がある。それは、学校(先生や生徒など学校の常識とされるものを共有する場)や、社会(世の中の常識とされるものを共有する場)の問題だ。近年、学校や社会が共有する常識の幅が、非常に狭まっており、その常識の枠組みを常に感じさせられているかぎり、そこから外れている自分の在り方を常に意識せざるを得ず、自己嫌悪感や、対人恐怖症も和らぎにくいのではないかと、子どもの親は思う。
 近年、多様性とか個性という言葉が非常に目につくようになったが、実際はどうだろうか。いくら人とは違うファッションを身につけたとしても、そのファッションのお手本みたいなものがあって、そのお手本を贔屓にする人達が集団を形成し、それとは違うものに対して排他的な態度をとったりする。「価値観の多様性を主張する人」が、それに同意する人とはすぐに仲間になるものの、『価値観の多様性を否定する人」に対して寛容になれず、目くじらを立てているという自己撞着が起こっている。個性や多様性を主張する言説が、あまりにも非個性的で画一的で、根本的に何かが違っている。
 けっきょく、多様性や個性を主張する人達も、性急で、結論を急ぐということにおいては、この時代の支配的な価値観と同じなのだ。
 現代社会は、平均寿命がのびて、その長い人生の中で色々な可能性が広がっているはずなのに、結果や結論を性急に求めるという価値観は、依然として支配的である。
 テレビ番組などにおいても、”わかりやすい解答を得てすっきりする”という類のものが非常に多い。可能性が広がり、情報が増え、そのことによって逆に不安をつのらせ、性急に情報を整理して決着をつけたいという症状に陥っている。”わからない”という状態のものを性急に片付けていきたい。心が不安定な状況の人間を”精神病”と決めつけ、それに効果があると医者が言う薬を与え、入院させ、隔離することで整理するという発想にもつながってしまうかもしれない。
 ”個性”とか”多様性”を求める時に、結果や結論を性急に求めるという気持ちが働いている限り、表面的に異なるように装うだけで、本質的には何も変わらない。
 新幹線かリニアモーターカーという選択は、目的到達意識ばかりが強く、課程を慈しまないということで同じなのだ。
 個性とか多様性は、この世界に存在するものは、それぞれ異なる時間の中に存在しており、時間の経過は、それぞれ違っているものだという感覚が伴っていなければならない。
 中学校を3年で卒業しなければならないという感覚、浪人とか留年はみっともないという感覚、大学卒業後、新卒で就職しなければいけないとか、この国の時間感覚は、あまりにも狭い枠組みの中に揃えられすぎている。
 100歳まで生きる人もいれば60歳くらいで亡くなる人もいるのに、10代における1年の違いに対して、異常に気にする国民性が不思議でならない。
 1年や2年、標準的な基準からすれば、”棒に振る”ようなことがあっても、その後の人生にきっと活きてくる棒の振り方がある。
 世間的な基準に合わせようと心理的にかなり無理をしてしまう1年とか2年が、結果的に、10年以上の長きにわたって世間とのズレに苦しめられる状態へとつながり、さらに年数を重ねるたびにそのギャップが大きくなって苦しみを増すという悪循環に陥ってしまうこともある。
 時間の経過に対して、あまりにも画一的になってしまい、結果的に、上辺だけの違いで実際には没個性に非多様性になってしまうのは、社会の中に存在する物が、ほとんど全て同時代の同じ基準規格のなかで作られ、同じような消費サイクルの物ばかりになっていることもあるだろう。
 不登校の子ども達を励ますメッセージも、なにゆえにこれだけ画一的で標準的になってしまうのだろうと思わされる。
 世の中で正しいとされる基準を一方に置いて、そうでなくてもいいんだよ、逃げていいんだよ、という答をもう一方の側に置く二項対立では解決できないものが横たわっている。そういう二項対立だと、けっきょく勢力の強い側が基準という意識は変わらず、そこから逃げて”少数派”意識で生きていくことになり、少数派のオピニオンリーダーという立場になれるかどうかが、自己承認の基準になってしまう。
 また、「あなただけではない」という言い方も、狂信的な宗教団体の誘い文句でもある。 
 不登校の中学二年生の子どもにも、直感的にそういうことはわかるようで、「逃げてもいい」とか、「あなただけではない」という言い方は、自分の今の状態を脱する思考の回路ではないと理解している。
 子どもは、他の誰かと同じ問題ではなく自分の問題として、できれば誰にも頼らずに、逃げずに闘おうとしている。その思いは、生命体としての本能のようなものだ。だから、闘い方が鍵になる。何と闘うのか、そしてどうやって闘うのか。
 親としては、その闘いの場や方法が、経験の浅い子どもが想定できる狭く限定したものに限らないということを、どうやって子どもに伝えるかが問題だ。
 世界の多様性、時間の経過の多層性は、別の現実や、別の時間の中にたっぷりと身をあずけることで、心の深いところに刻まれるのだろう。
 中学校2年生の登校拒否の子どもが、自分だけの特別な時間を深く経験していることを一つの恩恵と受け止め、その特別な時間の中を逞しく生きていく力を、この標準化の著しい社会の潮流のなかでどうやって身につけていくか。
 そのためには、人数が多いゆえに標準的なマニュアルの中に生徒を押し込めて管理し、そのため、かえって”異物”が際立ってしまう学校に席を置き続けない方がいいのかもしれない。
 いずれにしろ、現代社会の中で、”健やかに生きている”とされている人達も、実際は、消費財のように何に役立つかというわかりやすい有用性を常に問われ、時流に乗っているかどうか消費サイクルのことばかりを気にしながら、いつ取り替えられるかと不安に怯えながら消耗していく。
 文部科学省の指導によって、学校教育の現場は、ますます均質化がはかられている。先生の対応もマニュアル通りであり、イジメの件数、登校拒否の生徒の人数、進学率、テストの平均点など、すべてが数字で計られてしまう。

 それはコンビニエンスストア等で積極的に導入されてきたPOSシステムで、商品の売れ行き、時間帯、購買者の特性などを精密に記録し、不良品の発見や、在庫管理、次の商品企画に活かすという発想に非常に近い。
 子どもをコンビニエンスストアの棚に並ぶ商品と同じように管理しようとする発想は、マーケティングが上手で現在社会でうまく出世できて、エリートになったり、お金儲けができる人間の発想であり、そういう人達は、自分と同じような人間をたくさん作り、不良品を生み出さないことが健全な社会運営だと考える。その人達が、出世し、社会の上位に位置することで、ますますその傾向が強化される。
 そういう人達は、「それが現実だ」と、狭隘な現実の時間軸の中だけで通用する自分の考えを正当化するだろう。
 しかし、その人達も、その現実が、いつまで続くか不安で仕方ないから、陰で保身のために汚い根回しをしたりしている。
  標準的で均質的な世界は、新たなスタンダードによって、あっという間に覆される。インターネット上の熾烈な闘いは、その繰り返しである。その勝者の億万長者がヒーロー扱いされるが、けっきょくその価値の基準は数によって計られているだけで、数というわかりやすい基準が絶対的な基準として君臨している今だから、ヒーロー扱いされているだけかもしれない。 
 もしも、自分の生活の周辺で、規格品以外の様々なものや、使用目的のよくわからない古いものがたくさんあると、時間が均質に流れていない感覚が無意識の中に蓄えられる。時間の流れが均質でなくなると、数という基準が、たちまち意味をなさなくなる。
 東京と大阪を何時間で結ぶかという基準よりも、どれだけ、わけのわからない複雑精妙な体験ができたかの方が重要視される価値転換が起こる可能性があるのだ。
 親としても、世界を標準的なものとしてしか考えられないと、子どもが陥っている苦しい状況は、親にとってもイレギュラーで、人生の予定、計画を狂わされるアクシデントになってしまう。
 しかし、自分が拠り所にしている標準的な枠組みこそが、実は、人生の墓場へと直結する牢屋みたいなものかもしれない。
 そのことを知れば、親にとっても長いだけで単調な人生の時間が、子どもをきっかけに、エキサイティングで冒険的な時間に変調するかもしれない。
 誰しも、限られた人生であることはわかっているものの、自分の意思だけで世界の広さを体験し尽くそうという行動に出ることは簡単ではない。しかし、自分の子どもをきっかけにして、自分も子どもと一緒に世界の広がりを体験し尽くす旅に出るという選択肢はあるだろう。
 実際にそれを行うかどうかは別として、そのように考えていくと、登校拒否に陥っている子どもとの対話も楽しいものになるかもしれない。
 まだ脱出の道が見えたわけではないが、夏休みに子どもと一緒に体験したことは、子どもにとっては負荷がかかり辛かったかもしれないけれど、親としては、子どもの息吹を身近に感じられて、とても新鮮だったようだ。人生の時間というものは、そのように正しい答のない道を彷徨いながら彩られていくことが実感として感じられたからだ。手間がかかる子どもほど愛しく、人生もまた手間がかかるほど愛しいことは、今日的な基準ではどうだか知らないが、一生を後から振り返ってみれば、ほぼ間違いないだろう。

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