第925回 不登校をきっかけに? 同じ条件の中で闘い続ける必要はない。

 探検家の関野[E:#x20BB7]晴さんが、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸を横断し、南北アメリカを縦断してパタゴニアの地に辿りついたその道を、逆から人力で辿るという大冒険を行った。
 関野さんが、そのスタート時点であるパタゴニアに行った時、そこに暮らす人達は、もっとも長い距離を旅してきた人達の子孫だから最も屈強な人間ではないかと考えていたのに、実際はその逆で、弱いからこそ追いやられて、最も遠くまで来たのだったと対談の時に語っていた。
 人類に限らず、恐竜が滅んだ後に地上に繁栄したのは、恐竜に見つからないように隠れて生きていた弱いほ乳類だった。
 また、サクラマスは、ヤマメよりも体重で30倍も大きいが、もともとは同じ母親から生まれたのに稚魚の時に餌の取り合いに負けた弱いものたちで、しかたなく海に下っていったものたちが、敵も多ければ恵みも多い環境の中で生き残って、鍛えられて、河を遡上してきた魚達だ。
 一定の条件の中で生存に適していなかったもの達は、その条件の中では弱いものということになるが、彼らがその条件を離れて、新天地で生きているうちに、別の基準の強さを発揮するということは、自然界ではごく普通のことだ。
 そもそも私たちの祖先のホモサピエンスは、ネアンデルタール人に比べて脳の容量も身体の大きさも劣っていた。近年の研究では、この二つの種は同時期に比較的近いところに住んでいて、お互いに戦闘したわけではないこともわかっている。にもかかわらず、ネアンデルタール人が滅び、ホモサピエンスは生き残った。厳しい氷河期を乗り越える知恵は、弱くて繊細で臆病なホモサピエンスの方が長けていたのかもしれない。
 現在社会は急激な環境変化にさらされており、氷河期と同じように生存条件が劇的に変わってしまう可能性がある。これまでの条件に適していたものが、これからもそうだとは言えない。
 不登校というのは、これまでの条件に適合することが難しい子ども達だ。ただそれだけのことなのに、彼らに対して、負け組とか無能というレッテルを貼りたがるのは、これまでの条件を何とか死守したい人達の不安心理によるものだろう。
 これまでの条件を何とか死守したい人達は、不登校の子ども達を、自分達が適合している条件の中へ戻すことで安心する。彼らが戻ってくれば、自分達が上位で、彼たちが下位という構造は崩れないと思うからだ。
 もちろん、人間は社会動物だから、不登校の子供であっても生きていくためには何かしらの形で社会に戻ることは必要だろう。しかし、すぐに同じ条件のところに戻して闘わせようとするのは、その条件の方が都合がいい人たちの発想であり、それは不登校の子ども達にとって酷な話だ。
 不登校の子どもの親としては、回り道をしてもいいから海に下って逞しくなって河を遡上するサクラマスのように、別の生存戦略を考えた方がいいかもしれない。
 そして、時代環境としても、既存の条件に適合することが必ずしも生きていくための最善の手段ではなくなってきており、それが負の要因になることもある。
 かつてのように一流大学を卒業して一流企業に就職することが幸福の条件であれば、その条件を満たすための努力だけを行えばよかった。
 そして、その既存の条件にあまりにも最適化してしまった人たちが、現在の社会秩序のヒエラルキーの上位にいるわけで、彼らは、この条件を必死で守ろうとする。 
 この人達がメンバーになっている有識者会議とやらで、”不登校”の子ども達のことが論じられるほとんどの場合、いかにして、そういう条件不適格者を条件の中に押しとどめるかという話にならざるを得ない。上から目線で、不適格者を保護して、いかにして自分達にとって都合の良い条件に貢献させるかという話になるだろう。このたび新しく安倍政権が掲げた「一億総活躍社会」も、強い経済とか子育て支援とか社会保障制度の改革・充実とか、これまでの社会条件の中で何度も耳にしてきたような言葉ばかりが並んでいる。
 しかし、これまでの条件への適合とは一体どういうことだったのか冷静に考えてみればいい。明治維新で富国強兵をスローガンに掲げた時から、今日のアベ政権が主張しているような「一億総活躍」を目指して、標準的な教育を普及させてきた。それは、国家が審査した教科書に書かれた内容を、要領よく身につけた者が優秀とされる教育だった。その教育は、標準化された規格品を大量生産する分業の仕組みの中で、単純な仕事を要領よく正確に行う人間を育てることには向いていたかもしれない。大して面白いとは思えない先生の授業を根気よく聞かせてテストでふるいにかける教育は、大して面白いとは思えない仕事でも根気よくやらせて人事のふるいにかける企業現場に適応させる準備としては相応しかったかもしれない。いつしか、そういう大して面白くないものが勉強というものであり、仕事というものだと信じさせられていた。その努力の報いは、学びや仕事、そして人生の喜びではなく、地位・肩書き・名声などの虚栄や、金銭でしかない。にもかかわらず、その秩序を維持するために、周到な情報操作で、地位・肩書き・名声・金銭のある者が偉いと洗脳してきた。
 その虚栄で固められた無感動なゴールを目指すことのバカバカしさに早い段階で気づいてしまった子どもは、早い段階で、その路線から外れてしまう。
 もちろん不登校にはイジメなどの要因もあるが、イジメの構造もまた、社会構造の反映だ。
 たとえばみんながやっているゲームをやっていないという理由で仲間はずれにされたり、転校生というだけでターゲットにされたり、標準化から外れていることが、イジメの原因になることが非常に多い。
 標準化によって大量生産が可能になり、みんなが買っているものを買うという特性が、大量消費社会を実現する原動力になる。大量生産と大量消費のイニシアチブを握っているものがヒエラルキーの上位に来る社会において、規格から外れることは、それだけでイジメの原因になる。
 しかし、大量生産と大量消費に頼る経済が頭打ちになっていて、今後さらに縮小していくことは、多少の勘の働くものならわかっている。そう思いたくない人間の数がまだ多すぎることが、この国の停滞と閉塞感を作り出しているが、色々なところに風穴はできている。
 だから、自分の子どもが不登校になっても心配する必要なんかまったくない。
 学校に行かなくても格安で学ぶ方法はいくらでもあるし、人間関係を育む場を探すことも簡単になっている。学校にいかずに学習して、社会活動に関わりを持てるように生きていれば、日本でも海外でも、高等教育を受けるチャンスはいくらでもある。
 不登校になってしまった学校に、もう一度戻そうと躍起になる理由なんてない。
 私の知り合いは、そう考えて、息子が不登校になって二ヶ月ほどで、その中学を辞めさせた。家での学習も考えたが、まずは引っ越しして別の地域の別の学校に通わせた。標準化が隅々まで行き渡っている日本社会であるが、その綻びが目立ち始め、文部科学省の指導の隙間をぬって独自の取り組みを初めている地域は、意外とあるものなのだ。
 どの川の水があっているかは、やってみなければわからない。水に合わなければ、他にも選択肢はある。何よりも、子供が、学校それ自体に拒否反応を持っているのか、それとも、特定の学校環境に適合できないのか確かめるためにも転校というのは一つの手だろう。義務教育期間の公立中学校であれば、住所さえ変われば別の学校にすぐに通えるのだから。
 また、父親は、何らかの理由で同一環境条件の中で生きずらくなっている子供が、そのことのために自信を無くしてしまい、自分には生きる資格がないかのように思ってしまうことだけは避けたかった。一つの環境に不適合でも、別の環境では何とかやっていける可能性があるのが生命であり、そのことを経験的に知ることが大事だと思った。
 そして、その息子は、転校した学校で、初日はうまくいくかどうか不安一杯でガチガチだったけれど、生命の底力を発揮して学校に通い、新しい環境に少しずつ適合していった。そういうことは、子どもに限らず、人生において多々あることなのだ。



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