第941回 中学生の自殺と、大人の想像力

 中学3年生の男子生徒の自殺が世間を騒がせている。当人には身の覚えのない万引きで校長推薦が取り下げられ、それを苦に自殺してしまったという事件。学校側の記録ミスや、記録のずさんな管理、そして、廊下の立ち話で進路指導が行われていたことなどが大きな問題になっている。
 なかには、なぜこれくらいのことで自殺してしまうのかと思う人もいるだろうが、自殺によって明らかになった学校の実態に、これまでも色々な局面で感じていた不信感が噴出している。
 こういう事件が起こるたびに、学校の先生達が、文部科学省教育委員会への報告などで忙殺され、生徒達に向き合う時間やエネルギーが大きく削られていることが、よく引き合いに出される。
 それも事実としてあるのかもしれないが、教師職に携わりながら、無気力でエネルギーが感じられず、デリカシーに欠け、配慮がなく、洞察力に乏しい先生がたくさんいることは、経験上、知っている。(それは、教師に限らず、どの職種でも同じだろうが)
 中学生の子供を持つ親として、この問題について真剣に校長先生に訴えた時、校長先生の考えていることは素晴らしい内容だったが、質の高い先生を増やすための採用、教育は、かなり困難を極めていることを、校長は、正直に話されていた。
 もちろん、いい先生もたくさんいる。しかし、学校現場で働く先生の数は膨大であり、その全てを質の高い先生で揃えることは、かなり難しいようだ。教師採用の基準にも原因があるし、教師になってからの世間も狭く、社会経験も持たないまま、歳月を重ねていく。
 企業現場であれば、全ての社員が真面目で優秀な必要はないし、人間に限らず働き蜂などでもそうらしいが、ある一定の割合で、あまり一生懸命に仕事をしないものが存在するようになっているらしい。
 しかし、学校の先生の場合は、10人中2人が教師としての適性に欠けていると、子供を預ける親は、納得できないし、心配でならない。なにせ、子供の将来がかかっている、と親は思い込んでいるから。
 多くの教師は、残念ながら、子供の心に対して、とても無神経であるということが、個人的な経験でよくわかった。そして同時に、親である自分も、子供の心に対して、とても無神経であったということが、よくわかった。子供に対して、本当に申し訳ないと思う。あの時にああしていれば、こうしていればと、悔やんでも悔やみきれないことは、たくさんある。
 子供が生きていても、そういう後悔に苦しめられる。しかし、子供が生きてさえいれば、後悔は大きいが、反省してやりなおすことはできる、と思い直すことができる。
 もし死んでしまったら、それすらも許されない。つまり、死というのは、死を選んだ当人がどこまで考えていたかわからないが、自分を苦しめた相手に対する最大の抗議という形になる。
 今回の事件の非難の的になっている教師は、自分の軽率さを一生悔いて、その苦悩を背負って生きていくことになる。しかも、何かしらのきっかけで気持ちを持ち直して人生を再チャレンジしていこうという意欲を持っても、大騒ぎの世間がそれを許さないという状況が想像できてしまう。恐ろしいことだ。
 車のハンドルを握っている時、ここで人を轢き殺してしまったら自分の人生はどうなるのだろうと、最近、ふと思うことが多い。
 ”取り返しのつかないこと”に対して、以前より、かなり臆病になっている自分がいる。自分の安全のために臆病になっているのではなく、もし人を傷つけてしまったらどうなってしまうのだろうと想像すると、かなり恐ろしく、慎重にならざるを得ない。それでも人間は不完全だから、ミスもしでかすだろう。完璧な人間などいない。
 今回、自殺をしてしまった中学3年生の男子生徒。彼はいったいなぜ自殺をしてしまったのか。
 普通の感覚なら、ちょっと理解できない。推薦がダメでも、高校への進学の道が断たれたわけではないと、冷静に考えればわかる。
 自殺してしまった原因は、そういう”大人の普通の感覚”ではなくなっていたからだ。中学生というのは、自分に対する客観的な目が育っていない。だから、主観的な”思い込み”に囚われてしまい、その思い込みが、動かしがたい現実になってしまうことがある。大人が、いくら「そうではないよ」と言っても、思い込みに囚われてしまって硬直した心は、簡単には緩まない。そして、「なんでそうなってしまうのか」と、大人にはまるで理解できない行動と結びついてしまう。
「心が傷ついた」から「自殺する」のではなく、この2つのあいだに、当人にしかわからない独特の思考回路と、当人なりの納得の付け方や、どうすればいいかわからない切迫感のなかでの激しい衝動行動がある。
 どういう段階を踏んでそうなるのか、大人が普段行っている思考の手順では、とうてい理解できない。
 教師に、そこまでのことを理解しろとは言わないし、それは無理だろう。
 理解できなくてもいいし、間違ってもかまわない。でももう少し、想像力を働かせてほしい。事実を事務的に処理することを仕事だと思わず、「なぜそうなのか、そうなったのか」ということを気にかけてほしい。とりわけ子供を相手にする場合は、物事の背後への関心が、とても大事だと思う。
 万引きの事実を誤認したことが問題というより、万引きの事実を確認する際に、あまりにも事務的で、それゆえに真実を見落とすことになったことが問題だという気がする。生徒に対して、もう少し深い関心を寄せていれば、「万引きをしているから推薦を取り消します」ではなく、「どうしてそういうことをしてしまったの?」という対話に発展したかもしれず、そういう対話があれば、生徒も、「先生には何を言っても聞いてもらえない」という思い込みを持つこともなかっただろうし、先生も、間違いに気づける可能性があった。
 想像力の欠如や洞察力の弱さは、関心の低さの反映であり、それは教師職に限らず、いろいろなところでみられることであるが、生徒への関心が低いのに教師をやっているというのは、自動車への関心が低いけれど自動車メーカーに勤めているという社員よりも、相手が生身の存在ゆえに、その相手を深く傷つけてしまうことになる。関心は、愛情のバロメーターだと思う。