第949回 ”これまで通り”の果てに


地震によって破壊された阿蘇神宮 画像:NHKニュースより)


 日本を縦に貫くフォッサマグナと、横に貫く中央構造線にそって、東の鹿島神宮から長野の諏訪神社伊勢神宮など、重要な神社が建っていることは前から気になっていた。大地が引き裂かれたり押されたりしているわけだから、電気や光など何らかのエネルギーが発生していることは間違いなく(それを察知できる生物は、驚いて事前に動く)、現代人には感じ取れないそのエネルギーを古代人は感じ取っていただろうし、実際に、その場所で、地震をはじめ様々な神の怒りのような天災も起きていたのだろう。その中央構造線に、愛媛の伊方原発や鹿児島の川内原発など原子力発電所が建てられていること。そのうえで、川内が、現在、日本で唯一稼働中の原発で、危険なプルサーマル原発である伊方が、7月に再稼働が予定されていること。この2つが、今起こっている熊本や大分の大地震の両隣であることが何かとても暗示的で、不気味で、そうした考えを非科学的と批判されるかもしれないけれど、気になる。
 しかし、”科学”の英知を総動員して行われる地震予知が、まったく当たらず、地震研究は、いつも起こった後の説明ばかりである。
 つまり、科学というのは、けっきょくそういうもので、終わった後の分析・研究であり(宇宙誕生の探求も含めて)、過去の分析が未来に役立つという前提で莫大なお金が投入され、ロマンとされるわけだが、過去の分析という過去に対する傲慢な態度よりも、過去の教訓に学ぶという姿勢の方が未来にとって大事なことであり、その謙虚と厳粛こそが、日本の精神文化の根底に流れていて、神社は、その要なのだろうと思う。このたびの震災で、中央構造線の上に立つ阿蘇神社が崩壊している姿を見た時、聖なる生物が潰れて死んでしまったかのように見えて、大きなショックを受けた。
 世の中には雑多な情報が多すぎて、大切なサインがそれに紛れて見落とされる。
 意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音を排して、古代人もそうしていたように、じっと目を凝らし、耳をすませて、自分がどうあるべきかを、謙虚に、考える時なのかもしれない。
 しかしながら、九州に大地震が発生して、どのテレビチャンネルも自粛して震災報道になった時に、その”自粛”を批判して、被災地にいない人々は、できるだけこれまで通りの生活をしながら被災地の為にできることを考えてすべきという意見があったが、数日が経ち、これまで通りの番組が流れ出した。
 震災前であれ後であれ、今のテレビ番組は、どのチャンネルも、常に、キンキンとした笑い声が絶えない。中には、相変わらず、グルメや大食いのものもある。その番組のあいだ、頻発する地震ごとに、震源とか震度とかテロップが流れる。番組を見ている時に、そうしたテロップを見るのではなく、ニュース番組を探してリモコンを動かしているあいだに、笑いと震災テロップが重なった画面を何度も見ることになる。これは、ものすごく違和感を感じる。私たちの”これまで通り”というのは、まさに、こういうことなのであり、意識を攪乱させる姦しい処世的な雑音だらけなのだ。
 お笑いなどを”自粛”をしたうえで現地からのニュースを伝えているとされていたあいだも、神妙な顔をしているというだけで、実際にやっていることは、”これまで通り”だった。
「テレビ局なんですけどお、どんな揺れでしたか?」「今のお気持ちは?」という決まりきった質問、そして都合のいい答、欲しい言葉だけもらったら、はい次に行こう、というスタンスは、これまで通りで、震災の最中のテレビの中の安易なバカ騒ぎと同様、違和感を感じる。目の前でとてつもないことが起こっているのに、じっと目を凝らし、耳をすませて考えさせるような伝え方にはならない。
 この10年、IT技術の発展による流通・製造をはじめとする様々な社会変化、金融危機、東北の震災、原発事故など、あきらかに、これまでのやり方を変えなくてはいけないという状況ではあるけれど、テレビ番組のスタンスは、何も変わっていない。テレビが悪いというよりも、テレビは、何かを象徴しているのだろう。”人生には色々と辛いことがあるけど、あまり深刻に考えたくない、考えてもどうにもならないことは考えたくない、今を愉しく生きられればいい、人が陥っている不幸はもちろん見ていて辛いけれど、だからといって自分が何かできるわけでもないし、自分も安泰ではないので人のことはそんなにかまっていられない”という大勢の感覚を、きっとテレビが代弁しているのだろう。テレビが変わっていないというのは、私たちが変わっていないということなのだ。
 その根底には、無気力があり、諦めがある。
 諦念じたいは、悪いことではない。
 今も南九州では絶大な人気を誇る西郷隆盛の言葉に、「いのちもいらず、金もいらず、名もいらぬ人は始末にこまるなり。されどこの始末にこまる人ならでは、天下の大事に任じがたし。」というのがある。
 無欲に徹し切った人は、心を惑わされないので、人に簡単に操られない。だから、扱いにくい。利用しにくい。
 諦めるならば、そこまで諦めきらなければ、自分では気づかないうちに、欲や保身につけこまれて、うまく利用される。政治家の人気取りの政策というのは、ほとんどがそうだし、経済界にも、その類のものが多い。ヒット商品というのは、”始末に困らない人”がターゲットであることは間違いない。
 国民が、”始末にこまるような人達”になれば、我欲に簡単につけこまれることもなく、きっと何かが変わるのだろう。多くの国民がそうなることは不可能でも、せめて指導者とされる人からでも、そういう人が出てくれば、変わっていくのだろう。
 しかし、西郷隆盛のように高潔な指導者は、もうほとんど見られない。多くのケースで見られるのは、それとは真逆の執着ばかりだ。自我が肥大化してしまい、自分の周辺のことだけは、なかなか諦めきれない。誰が悪いとかではなく、天下のことは諦めていても、自分と自分の周辺のことだけはなかなか諦めさせてくれない自我が、知らず知らず自分を蝕み、その集合である国全体を蝕んでいく。





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