第954回  高齢化問題で、ふと思ったこと

 最近、身近にあった出来事で、今まであまり意識していなかったことが、自分ごとになった。
 高齢化によって様々な問題が生じることが当然ながら予測できるが、膨大な高齢者をどう支えるかという問題だけでなく、これから高齢化していく人たちの意識を、今からでも遅くないので、どう変えていくかということも大きな問題だろうと思う。
 10年後、20年後に、今のような社会保障が受けられる保証もないので、病気にならないよう、日頃から意識して健康的な生活をするということも、もちろん大事なことだ。
 そうした自分を守るためのことは、比較的、意識しやすいし、納得感もある。
 問題は、自分では意識できないまま(極端な場合、自分は正しい、自分は間違っていないと思いこんでいる)、その無意識の膨大な集積が、日本社会を歪めていくことだ。
 たとえば、保育園や幼稚園において、子ども達が遊んでいる声が周りの住民の迷惑になるからという理由で、子ども達をできるだけ外のグランドで遊ばせないとか、わざわざ遠くの公園まで連れていくという、周りの住民への”気遣い”が必要だということが言われる。また、そうした問題のため、それでなくても足らない保育園の建設が難しいという話もある。
 しかし、普通に考えてみれば、園児達が遊ぶ時間に、そのはしゃぎ声が迷惑になるという人達は、勤め人ではなく、昼間の時間、ずっと家にいる人たちだ。主婦か、仕事をしていない人、もしくは家で仕事をしている人に限られる。なかでも、特に何もすることなく、家の中でただ静かに過ごしたいという人達。その多くは、高齢者なのだ。この高齢者達が、日中、家の中で静かに快適に過ごしたいという権利意識だけを強く持つようになると、近所に、保育園があるということ自体が不快になる。
 活動的に外に出ていくような人達はいいが、何をするわけでもなく、ずっと部屋の中に閉じこもるだけだと、ちょっとしたことでも気になってしかたないのだろう。そして、こういった人達が、ものすごい人数になるのが、高齢化社会でもある。高齢化によって身体が弱まる人が膨大になり、年金や医療費の負担が若者を圧迫するという問題だけでなく、もし、自分の快適さのことしか考えられず、他者に対して不寛容な高齢者が増えると、その層は人口が多い故に政治的な力もあるので、若者や子供は、ますます窮屈な生き方を強いられるようになる。口では子ども達のために保育園は必要だと言いながら、でも作るんだったら他で作ってくれというタイプ。自分自身が、人を寄せ付けない雰囲気や言動を発しているのに、近頃の若いヤツは俺に挨拶もない、と不満をぶちまけるタイプ。高齢者に限らないが、個人主義が発達して、どこかの知事のように、自分には甘いけれど他者には厳しく不寛容な人が増えていることは間違いない。それでも、やることがあって忙しければ、そちらに意識がとらわれ、問題はあまり表面化しない。問題というのは、人間が暇になった時ほど、表面化しやすい。
 人々が快適に暮らす権利が強く主張され、行政は、その障害を取り除くことが仕事になり、そのため、昔に比べて、トラブルは減っているのかもしれない。しかし、そうしたナーバスな対策の積み重ねによって、表面的には波風は立たなくても、その皺寄せがどこかにきている。
 保育園の設置場所に神経質にならざるを得ない問題もそうだが、たとえば、能力に関係なく正社員の権利を守るという正論は、これから職に就く人のことを後回しにすることにつながり、その結果、若者の非正規社員が増える。
 両方が満たされればいいのだが、そんなに都合よくはいかないというケースはこれ以外もたくさんあり、どこかで、どちらかが折れなければならない。
 そして、どちらかが折れなければならない場合は、本来であれば、人生経験が豊かである筈の年長者が、より寛容でなければならない筈なのだが、その逆に、年とともに自分の権利意識に囚われ頑迷に主張するパターンが増えてしまっている。
 どの分野でも、後進に道を譲らない人が、非常に増えているし・・・。
 一体何故なんだろう。他者への不寛容は、根本のところで自分自身が満たされていないことが原因なのではないか。本当の意味で充実した人生というものは、地位や名誉、便利や快適といった自分を満たすことのために向けられるエネルギーだけでは達成できず、おそらく、自分よりも他者のことを優位に考えられるような円熟した境地にならないと掴めないのかもしれない。なのに、自分の心を満たそうとする欲求で自分のエゴに走れば走るほど、より不満が溜まるという悪循環に、個人も社会も陥ってしまっているのだ。
 (定年までの長い間、組織社会のしがらみで個人の意見が言えなかった反動で、定年後、急に権利を主張し始めるという指摘もある。)
 自分の傍で子ども達が騒ぎ立てるのを、微笑みを浮かべながらただ見ているだけの好好爺のイメージが、まだ理想の老人像として脳裏に残っているが、それはもう昔話の中の出来事のようにぼんやりとしたものになってきている。年齢を重ねるとともに自我(エゴ)を削ぎ落としていくのが理想の生き方だが、もし、逆の人間が増えていくようなことがあれば、日本はもう終わりだ。これから高齢者になっていく自分自身は、常にそのことを意識していなければいけないと思う。自分もまた、戦後の個人主義社会の影響を受けて年齢を重ねてきているので、意識しないと、それでなくても年齢とともに思考や感受性の柔らかさが失われていくわけだから、エゴばかりが肥大化して、その重い石が、これからの社会を作っていく若者だけでなく、自分自身の心も押しつぶしていく可能性があるから。

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