第957回 「もののあはれ」を知る二つの東京 第1回

 この20年ほどの間に、パソコンが大型コンピューターに取って変わり、さらに、どこにでも持ち出し可能なラップトップコンピューター、より携帯性に優れたスマホが人々のあいだに普及した。これから急速に進むのは、IoT(Internet of Things)、「もののインターネット」だと言われている。
 時代を先取りしながら思い切った手を打って、この20年で世界有数の巨大企業になったソフトバンクが、史上最高の3.3兆円もの金額で、英国のARM(アームホールディング)を買収した狙いも、当然ここにあるだろう。
 ARMは、スマートフォン向けのCPUの設計を行ってライセンスビジネスを行う(在庫を持たない)ユニークな会社だが、その市場シェアは、95%とも言われている。
 ソフトバンクは、自社の携帯が市場競争に負けて売れなくても他の会社の携帯がさらに売れれば、ARMを通して稼げると目論見もあるかもしれないが、それ以上に、消費電力に優れたARMのCPUは、携帯端末以上に、IoTにおいて、より重要な役割を占めるという読みがあるに違いない。
 IoTの浸透によって、家電製品,産業用機械、交通機関など、世の中に溢れる全ての”もの”にコンピューターチップが搭載されることでセンサーとなり、インターネットを通じて遠隔操作ができるようになるだけでなく、それらの”もの”の全ての動きをデータとして蓄積して、人工知能を駆使して解析を行い、人々の行動特性(心の動き)を把握し、しかるべきフィードバックを行う。
 30年ほど前、セブンイレブンがPOSシステムの使用をフランチャイズ店舗に徹底させるために莫大なコストとエネルギーを費やしていた頃、その啓蒙に関わる仕事に携わったことがある。
 店頭に並ぶ商品を単品管理し、どの時間帯に、どの商品がどれだけ売れるかを追跡し、そのデータに基づき弁当等の適切な生産数も割り出し、できるだけ売れ残りが生じないようにすること。さらに、棚から商品が無くならないように少量でも配送できる合理的な流通システムを構築し(店舗を近接地域に集中させることも含めて)た。
 セブンイレブンの店のオーナーは、酒屋など小売業からの転換が多く、当時は、あまり馴染みがなかったコンピュータを仕事に取り入れることの意義を、あまり感じておらず、どうしてもさぼりがちで、社命を受けたセブンイレブンの社員は、多くの時間を、オーナーの意識改革にあてていた。
 オーナーがPOSシステムをきちんと使わないと、正確なデータが集まらないからだ。当時、私は見たことがないが、セブンイレブンの社長室には、全国のセブンイレブンから集計した単品の販売の移り変わりの最新のデータが、常にモニターで確認できて、それをもとに、鈴木社長は、様々なことを決断していると聞いたことがある。
 IoTは、セブンイレブンが店舗内で始めたことを社会全体に広げることになる。そして、その膨大な情報を解析するために人工知能が使われる。問題は、そのデータのフィードバックだ。セブンイレブンの場合は、データの解析で売れ筋を見極め、商品の入れ替えを行い、販売量を正確に読み取って不良在庫を減らし、販売機会を逃さないために、時間単位で対応できる流通網を構築するといったフィードバックを行った。
 全社会スケールで、こうした経済的なフィードバックが起こることは間違いないだろう。それに伴い、産業構造も変わるだろう。
 しかし、私たちの動きが先読みされて、コンビニに行けば必要なものが入手できるようになって、便利になったことは間違いないけれど、私たちの暮らしの中身や心の状態が、いったいどれだけ健やかに変化したと言うのだろう。
 上手に管理されて提供される”もの”たちが、私たちの狭い家の中に所狭しと並んだところで、しみじみと人生の有り難みを感じることは、あまりない。
 人間の幸福感というのは、おそらく、そうした合理性とは、別軸のところにあるということを、多くの人々は、薄々は感じている。
 にもかかわらず、知らず知らず合理的に考えるようになってしまっている私たちは、幸福というものを、”いかにも幸福につながりそうなもの”を抽出することで得られると思いこんでいる。
 IoTの普及によって私たちにフィードバックされるものの多くは、”いかにも幸福につながりそうなもの”になるだろう。もちろんそんなに単純なフィードバックではなく、幸福感を得るためにはちょっとしたスリルや困難も必要だという判断が、人工知能によってなされるかもしれない。
 いずれにしろ、人工知能が、人間心理をどう扱うかによって、解析とフィードバックは決まっていくし、そのフィードバックの効果もすぐさまデータ化されて、人工知能が経験を積んでいくことで、より正確に人間心理に迫るようになり、よりきめ細かなフィードバックが行われるようになっていく。
 社会全体の流れとしては、そういうことなのかもしれない。それをビジネスチャンスにして金儲けを行い、その上で社会を変えるという大志と信念を持つ人間は、孫正義のように果敢な投資を行い、自分の仕事を通じて、予測可能なビジョンを事実化し常態化していく喜びに人生を賭けるのだろう。
 これまでの技術革新は、どちらかというと、人間の心を置き去りにして進んできた。しかし、IoTや人工知能は、人間の心を詳細に理解しようとする方向へと進んでいく可能性が高い。セブンイレブンが行ったことは、人間の心のうち、飲食の欲求や嗜好に関わるところが大きいが、IoTは、人間の心の全領域がターゲットになっていく。
 少し前、「物から心へ」というキャッチフレーズがよく唱えられていた。物よりも心を大事にしようという意味で。(形ある物だけでなく、形なき心も大事にしようという意味も含まれているかもしれない)。しかし、私たちの生活から”もの”が消えてなくなることもなく、それらの”もの”との関係性に、私たちの心は投影されている。だから、物から心へではなく、「”もの”を通じて心へ」となるのだろうし、IoTの進展によって、そのことがもっと意識されるようになる。
 しかし、ふと冷静に考えてみると、私たちの心に添ったフィードバックを、わざわざ、技術発展の恩恵に委ねなければいけないというのも、どうなんだろう。
 IoTや人工知能に解析されたりフィードバックされなくても、人間の心は、実際には昔からそんなに変わっておらず、そのことに気付けば、社会の表層の変化に翻弄されることもなく、心を満たす道があるのではないか。”もの”を通じて人間の心の動きを知ることは、何も、IoTや人工知能だけに頼ることはない。
 また、どんなに周到に調べ上げても人間の心の全てをデータに置き換えられるとは限らず、想像力で補わなければならないところもある筈だ。
 古くから、人間の営みの中で、人間の心の動きともっとも関係の深かったものは、芸術だ。
 現代芸術というジャンルの流行で、世の中の雰囲気や時代の気分を映し出すことや、既に具体的な観念言語になっている文明批判などを敢えて抽象化してもったいぶる行為が、「アート」という「ファッション」とほぼ同意語の行為になっているが、科学技術が作り出す世の中の現象を後追いして意味づけたり、誰かが装飾化した行為をさらに後追いして、時代の先端を気取っている場合ではないだろう。
 IoTにおいて、全ての物にセットされていくセンサーに当たるものが、芸術家の感覚であり、その感覚を通じて、人間の心の動きを読み取って表現に置き換えていくこと。
 1000年も前に源氏物語で実現されていたことが、芸術が時代を超えても評価されてきた根拠であり、移り変わりの激しい消費社会に適合しやすいファッションアートは、その他の多くの消費財と同じように、消費されるために持ち上げられ、消えていく。
 そして、源氏物語で表現尽くされているように、ものを通じて人間の心の動きを知ることは、「もののあはれを知ること」である。
 「もののあはれを知ること」は、繊細で、心遣いに優れ、情けに厚く、我欲に執着せず、ものを大切にする心にのみ可能であり、源氏物語においては、光源氏の美貌に対する言葉よりも、光源氏をはじめ主要な登場人物たちの「もののあはれを知る心」を称揚する描写に、より力が注がれている。
 「もののあはれを知る心」は、近代合理主義、利己主義、消費主義といった、「ものを自分に都合よく利用する心」とは対極にある。
 現代社会に溢れる写真表現なども、「もののあはれを知る心」の反映か、「ものを自分に都合よく利用する心」の反映かは、非常に明確にわかる。
 パパラッチなどは、もちろん後者だが、芸術表現とみなされているものにも、後者のものが多くある。
 多様な価値を尊重する時代だから、どちらが好きか嫌いかは、人それぞれの判断でかまわない。
 しかし、IoTの時代となり、パパラッチは姿の見えない機械技術にとって変わられるだろうし、報道写真だけでなく、目を楽しませたり驚かせたりする映像は、膨大な数の素人の偶然に既に取って変わられている。文明批判などの表現も、ネット上に露出している無数の素材を、既に言語によって具体化されている文明批判の筋書きにそって編集すれば、とくに頭を使うこともなく、簡単に、それなりの問題提起ができてしまう。
 源氏物語のような壮大、深遠、多彩、精密で、文脈の豊かな物語を書き上げることは、現代においてはほとんど不可能だし、いくら科学技術が発達してもできるとは思えないが、けっきょくのところ機械では簡単にはできないものだけが、後世の、今以上に機械技術が発展しているだろう時代に、人々の心を打つものとして残る。
 芸術が時代を超えるというのは、現代においてはそういうことになる。
第2回に続く)


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