第975回 競争から共創へ、利己から利他へ⑤ 人間と自然をつなぐ宗教

 伊勢に行った。冬至の前後、太陽は、伊勢神宮の内宮の宇治橋にある大鳥居から昇るというので、それを見るために。
 夏至の時は、夫婦岩の間から昇り、その延長線上に、富士山と鹿島神宮があり、その逆方向は、高野山から剣山を通り、高千穂に至る。日本を南北に引き裂く中央構造体と重なるのが不思議だ。
 太陽のラインに沿って聖地があるのは、太陽観測に基づいて聖地を定めていけばいいので、そんなに不思議ではない。しかし、その太陽のラインが中央構造体と重なっているのは、人為を超えている。
 ちなみに、冬至の日の太陽のラインは、丹後の元伊勢と、伊勢神宮をつないでいるが、そのあいだに京都がある。京都は、やはり風水に基づいて遷都されたのだろう。 
 神社というのは、神様がそこにいる建物だと思われているけれど、実際は、神社という建物の裏山に奥の院があって、そこが本当の聖域だったりするわけで、建物は、一つのランドマークであり、その周辺全体が聖域であることは間違いない。
 伊勢の内宮(皇大神宮)に行くと、そのことがはっきりわかる。建物そのものより、それ以外の空間とか、次の遷宮の時に新たな神殿が建てられる予定地の何もない空間に、西行が詠んだ、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」 という歌が伝えている、”なにごとか”が満ちているような氣がする。
 伊勢神宮は、人間が手がけた場であり、人間が作ったものであり、人間が維持してきた領域であるけれど、人間のことよりも自然のことを、より意識させられる世界だ。人間の創造行為の中で、もっとも尊いものは、そういうことではないかという気がする。結果的に、人間のことより自然のことを意識する瞬間、人間の心は、鎮められ、和らぐ。
 人間の作り出すもので、もっとも忌むべきものは、当の人間の心さえ、不穏に波たたせ、おぞましいものを感じさせる。知恵を司る”もんじゅ”などというおこがましい名前を冠した高速増殖炉など、その代表だろう。
 伊勢神宮に参拝する政治家などは、なぜ、忌むべき人間行為と尊い人間行為の違いを感じないのか、不思議でならない。
 しかも近年、神社関係者ですら、政府の改憲運動と足並みをそろえる輩も増えてきている。
 ただ、伊勢神宮そのものは神聖さを感じさせても、その中で見かける神社関係者の立ち振る舞いなどに、まったく神聖さを感じるどころか、だらしなく、醜悪なものを感じることもある。
 ただ給与をもらうために自分はそこにいるという気持ちがにじみ出てしまっている。そうなると、身にまとう衣装も、公務員のユニフォームでしかない。神社に限らず寺も、ヨーロッパの教会も同じことかもしれないけど。
 本来の宗教の精神は、世俗の塵にまみれる我ら人間にとって、リアルに感じにくく、歪められやすい性質を持っているのだろう。
 人間は、生死の境とか、自分ではどうしようもできない極限の状況に陥ることなく宗教の本質を感知することができないのかもしれない。
 何を今さら、ということになるが、伊勢神宮が伝えているのは、人と自然の共生と共創だという気がするが、生と創は、人智を超えた領域であり、自然と人間は同等でなく、もちろん人間が上位ということなどありえず、自然の中の一部に現れて消える存在として、共に生きて、共に創らせていただくだけで、有り難いという感覚に自然にならないかぎり、高速増殖炉のような人間が勝手に作り出したもので、人間は、おぞましいしっぺ返しを受けることになるのかもしれない。
 古代から、ソドムとゴモラの時代に、必ず、人間の傲慢を諭し、謙虚を説く宗教が出ているのは、人間の性質が、過去から現在まで、そんなに変わっていないからなのだろう。だからこそ、過去のことを、遺物としてではなく現在に反映させて、見直すことは必要なのかもしれない。
 伝統文化も、宗教も、様式になった時に、その魂が抜かれる。魂の抜かれた文化や宗教は、いとも簡単に政治に利用される。
 

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