第976回 競争から共創へ、利己から利他へ⑥ 籠の中の鳥は、いついつ出やる?


(元伊勢 皇大神社

 かごめかごめ  籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった  後ろの正面だあれ?

 今年は酉年。首相も都知事も、大空を飛ぶ鳥のように俯瞰の目で見ながら手を打っていくと、年頭の挨拶で述べていた。
 しかし、実際には、鳥が大空を舞う前に、囚われた籠の中から、いつ、どのように出るかの方が大事な年になる。
 2017年の初詣は、丹後の天橋立のすぐ傍の籠神社と、その奥宮の真名井神社若狭湾から由良川を遡った元伊勢皇大神社、元伊勢豊受神社と、元伊勢ではないかと議論されている4つの神社を訪れた。
 昨年末、12月に冬至の太陽に合わせて三重の伊勢神宮に行き、宇治橋の前の大鳥居から昇る太陽を見たが、そこから、京都の下鴨神社、丹後の元伊勢豊受神社が、五芒星の対角線上に並ぶ。
 そして、丹後から戻ってから、なぜか冒頭の「かごめ かごめ」の唄が、気になってしかたがなくなった。
 この「かごめ」の唄は、籠目だから丹後の籠神社の唄であると、籠神社自身が主張しているらしいが、丹後にかぎらず、全国にこの唄は広がっている。そして、この歌詞の意味は、いろいろな説があって、どれが正しいか今のところ誰も言えない。
 なかにはダビデの星がどうのこうのとか、陰謀説もあるが、理屈をつけて謎解きをするほどのものかと思う。
 しかし、この短い唄は、とても謎めいていて、心の深いところに語りかけてくる何かがある。だから、様々な謎解きが行われているのだろう。
 とくに、「後ろの正面だあれ?」という言葉に、ドキリとさせられる。
 背中から何ものかに見られているような感覚。
 「かごめかごめ」の遊びでは、鬼は目隠しをして座り、それ以外の子供達が唄を歌いながら円になって鬼のまわりをまわり、「後ろの正面だあれ?」 と鬼に問うて座る。そして、鬼は、自分の後ろの子を当てなければならない。
 だとすると、歌詞は、「後ろにいるのはだあれ?」でもいいのだけど、「後ろの正面だあれ?」となる。
 でもそんなに深く意味を考えなくても、歌っている子供達が、鬼の背中側を意識してまわりをぐるぐるまわっているのだから、鬼に対して、あなたの”後ろの正面にいるのはだあれ?”と問うているだけなのだけれど、”自分の後ろが、相手の正面である”という感覚の意識化が、なんとも言えない気持ちさせるのだ。
 それはまるで、ご先祖様の守護霊に、背中からじっと見つめられているような感じ。
 さらに、「籠の中の鳥は、いついつでやる」という言葉も、輪の中で目隠しをしている自分と重なる。まさに、鬼になっている時の自分は、籠の中の鳥みたいな不自由な存在だと自覚させられる。
 「夜明けの晩に」という言葉は、「夜明け」という言葉がきて太陽の光が差し込んでくるイメージの後に、「晩に」という言葉がくると、今はまだ暗いというイメージが浮かぶ。
 鬼である自分は目隠しをしているので、実際にはまだ暗い状態であるが、でも、夜明けがやってきそうな予感は与えられる。
 「鶴と亀がすべった」。すべったという言葉は、「滑る」ではなく「統べる」だという説もある。統合とか統治するという意味。同時に、座を外すとか、位を退くという意味もあって、意味としては逆になる。鶴と亀は、鳥と亀で、それは陰陽を表すという人もいるが、鳥ではなく、鶴なのだから、鶴のイメージを自然に受け止めればいいような気もする。鶴と亀と言われると、私は、めでたさの象徴だという気がする。
 そして、真ん中で目を閉じて座っている鬼の感覚として唄を聞いていると、夜明けの晩という暗い時に、鶴と亀がすべると言われると、すってんころりんと滑ったのかという気になる。鶴と亀はめでたいものだが、もう当てにできないという気持ちだ。
 そして、「後ろの正面だあれ?」と問われて、うまく答えられないと、籠から出られない。
 何かの囚われの身になっている不自由な自分がいて、暗闇の中で座り込んでいる。籠から抜け出て飛び立つ夜明けは近いのだけど、鶴とか亀はもう当てにできないんだよ。おまえの後ろでおまえをじっと見ているものは何? 当ててみな。と問われている。「かごめかごめ」の唄は、私にはそう聞こえる。

 自分の後ろには、自分がたどってきた道もあるし、自分をここまで導いてくれた様々な人があるし、ご先祖様もそうだろう。自分が生まれ育った風土もそこに含まれる。自分の身体と精神を育ててくれた全てのものの延長に、自分がある。そのことに気づかないと、いつまでも自分の損得や都合しか考えられず、不平や不満に囚われて不自由であり続ける。籠の中の鳥というのは、様々なしがらみや分別や我欲に心が縛られている状態だろう。
 鳥が籠から出て自由になるためには、自分の後ろを意識しつつ、同時に、それらの前にある自分を意識しなくてはいけない。今の私の心理状況では、そうした解釈が、もっともピンとくる。  
 
 若狭湾天橋立の根元にある籠神社と真名井神社を訪れた後、酒呑童子の鬼伝説でも知られる大江山大江山の周辺に金属精錬に関する地名が多く、鬼とは金属精錬・冶金の職能集団だとする説がある)を抜けて、元伊勢皇大神社を訪れた。
 元伊勢がどこかという議論は、いろいろあるが、その特定は、どうでもいいと思う。元伊勢という言い方は、伊勢神宮を基準にしているわけだが、伊勢神宮じたいが、そんなに古いわけではない。20年に1度の式年遷宮が始まったのは、天武天皇14年(685年)に、式年遷宮の制が制定されてからで、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の時、天照大神に先勝祈願をして勝利をおさめ、これが契機となって天照大神は皇祖神への道を歩みだしたといわれている。
 しかし、それよりも古くから人々の信仰を集めていた場所は、縄文時代からたくさんある。
 丹後の元伊勢皇大神社も、そのうちの一つだろう。日本で一番美しいピラミッド形の山と言われる岩戸山さんが近くにそびえ、夏至の日、皇大神社の遥拝所から見ると、その山頂に太陽が沈む。また、近くには縄文時代のものと推測される祭祀跡が見つかっている。近くには、金属鉱山もある。
 また、初めてこの地を訪れて気づいたのだが、日本海に向かって車を走らせながら、道中、険しい山越えをしているという実感がなかった。
 日本列島は、背骨のように東西を貫く高い山々があって、裏日本と表日本を分けているというイメージを持っていたけれど、丹後の元伊勢皇大神社(内宮)、豊受大神社(外宮)の傍を流れて日本海若狭湾に注ぐ由良川と、逆方向の瀬戸内海の播磨灘に注ぐ加古川を結ぶラインは、わずか95.4mの標高という日本でもっとも低い分水界を越えて、南北に行き来することができるのだ。だから、由良川は、満潮の時は、かなり奥までその影響を受ける。
 そしてもしも海面の高さが100m上昇すれば、舞鶴から播磨のラインで日本列島が東西に別れることになる。
 私は、明石市の西の端で生まれ育ったが、そこは加古川下流に近いところで、播磨平野というだだっぴろく単調な平野のことと、北から吹き抜けてくる風の冷たさと強さは、経験上知っていたが、播磨から若狭湾まで自転車でも簡単に抜けられるほどの標高差だとは知らなかった。
 播磨は、自分ではずっとローカルな場所だと思っていたのに、陰陽師のふるさとと言われたり、日本で一番美しいと言われる姫路城があったり、宝殿とか高砂とかめでたい地名が多かったり、源氏物語で、なぜか”明石”がもっとも重要な意味と役割をもったり(光源氏の死後は、源氏と明石の君のあいだの子孫が、もっとも榮える)、そこで生まれ育ちながら、その土地の重要さは、考えたこともなかった。
 明石海峡が、瀬戸内海と太平洋の境界にあたるので、漁場として、また海上交通において重要で古代から海人と呼ばれる人たちが活躍したことは知っていたが、中国や韓国から若狭湾を経て、元伊勢皇大神社のあたりから播磨に抜けるルートもあったのではないかと考えると、歴史的な意味が、まったく違ってくる。
 おそらく、生まれ育った故郷を捨てて東京や大阪に出て生きている多くの人たちも、自分の出身地の近くに古くからの重要な場所がいくつもあるというケースは多いはずだ。
 物の流れ、人の流れは、現在と古代ではまったく違っている。

 それはともかく、由良川の近くにある丹後の元伊勢皇大神社は、今まで訪れた日本の神社の中で、もっともいい”気”を感じさせる神社の一つだった。ここは山全体がご神体で、それがそのまま神社になっているようなところで、自然が自然のままに置かれているが、その朽ちていく様も美しい。
 三重の伊勢神社が、徹底的に人為が関与することで、神々しいまでの清らかさが満ちているのに対して、丹後の元伊勢皇大神社は、自然本来の聖性が、活かされ、その結果として、自然のエネルギーが、山全体に、美しく循環しているように感じられた。自然のエネルギーをそのまま放置して人間を畏怖させるだけでなく、自然のエネルギーの流れ道を作ることによって、自然を管理するのではなく、かといってただ恐れるのでもなく、自然の大きな力を自分に取り込んで自らの活力とすることができる。自然信仰の本来の姿は、こういうものだったのではないかと思い、自分のこれからの活動に、大きなヒントになると直観した。
 大和朝廷がどこにあったかとか、卑弥呼は誰なのかとか、古代に関する議論は色々とあるが、それを突き止めたところで知的好奇心を満たすだけなら、あまり意味がない。
 それが自分の生き方にどう関係してくるかの方がはるかに大事だ。
 歴史の教科書や、それ以外の正当と認められていない無数の古代史の多くは、戦いと征服の話が基本になっている。
 しかし、そういう見方は、現代の世界観をそのまま当てはめすぎているのではないかという気がしてならない。
 古代から大切に守られてきたものを、後から来たものが、取り込み、融合し、未来へと引き継いでいくこともあっただろう。神仏習合で行われたようなことが、縄文の時代から何度も行われただろう。もちろん、時折、明治維新のような原理主義的な運動があって、一方の都合で一方が激しく破壊される出来事があったかもしれない。しかし、全体の調和を無視した運動は続かず、長い時間のなかで、また異なるもの同士が、うまく調和していく方法が探られたのではないか。
 砂漠のような過酷な環境で生か死かと二者択一を迫られる風土ではなく、森という全体の調和と循環こそが全ての存在するものにとって欠かせない風土で、日本の思想文化は生まれ育ってきた。
 籠の中に囚われている状態から出るためには、こうした我々のバックグラウンドをきちんと認識することが大事なんだろう。
 偶然かもしれないが、若狭湾播磨灘を結ぶ加古川は、古きを加えると書き、由良川は、良い由(来歴、由緒)と書く。
 新しさというのは、過去と断絶したところに現れるのではないのだ。
 安倍首相は、2017年の年頭会見で、「経済最優先、デフレ脱却に向けて、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けていく」と語った。経済最優先!といった掛け声は、何も考えずについていくだけで豊かになれそうな錯覚を与えるが、それは、鶴亀に対して幸運を委ねるようなもので、そうした安易な姿勢と思考で、複雑な籠の中の鳥が、外に出られるはずはない。

鶴と亀は、すべった。
後ろの正面だあれ?
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」を発売中です。
詳しくはこちらまで→