第981回 「伝統文化」と、3.11以降の生き方をつなぐために

 
2017年1月28日(土)を第1回として、源氏物語と日本文化の秘めた力 定期公演・研究会を行います。 
https://www.kazetabi.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/

 この研究会は、同志社大学創造経済研究センター主催です。文学部ではなく、経済学部の主催で、伝統的文化の現代的創造研究会をやるということです。
 経済学部の主催ですから、伝統文化を使って、現代社会でどういう経済活動をするのかという風にもとれます。源氏物語をテーマにした香水やファッションを作って、いかに商売をうまくやるかとか、日本経済の活性化に少しは役に立つかとか。
 しかし、このテーマで企画するようにと話をいただいた時、私はそのように考えませんでした。そういう考えって、現代社会に媚びた形で伝統文化を消費するだけで、伝統文化を広めるどころか、衰退に手を貸すようなものだと思うからです。
 それはともかく、芸術にしろ、学問にしろ、現実の問題に向き合って、そこから何かを創造するということが難しくなっていると感じます。とりわけ伝統文化の関係者は、自らが関わる分野の保護を主張する言葉として、「伝統を守らなければいけない」というだけでは輿論に訴える力は乏しくなっており、現実の様々な問題と自らの活動の関係をどう伝えていくかという大きな課題があります。
 そうした状況を反映しているのか、社会全体としても、社会問題の解決の手段として人文社会論的ではなく、技術論的なアプローチばかりが優先され、大学も、文科系はいらないんじゃないかという風潮になってきています。
 私は、専門の学者ではなく、編集者にすぎません。その分、アカデミズムのルールに従う必要もない。専門家からすれば中途半端な知識しかないけれど、編集者というのは、異なるものを組み合わることで、認識に広がりを持たせることが可能な技法です。
 今回、伝統文化をテーマにした研究会で、つなげたい大切なものが、私の中にあります。
 それは、伝統文化と、3.11以降の生き方です。
 3.11は、津波による自然災害でしたが、原子力発電所の事故によって、経済やエネルギーの問題になり、よって、私たちの生き方の問題になっています。
 単純な言い方をすれば、今までのような生き方を続けるのであれば、安全性を確保したうえで原発を利用するしかないという論理で、一つひとつ原発再稼動が決定されているわけです。
 そうした議論の陰に隠れて、大事なことがあまり話題になりません。それは、原発再稼働をするしないに関わらず、日本は既に17000トンもの膨大な使用済み核燃料と、原爆4000個に該当する48トンものプルトニウムも作り出していることです。これらの処分の問題は、財政赤字の問題とともに、将来へと先送りされています。
 そのことについて、多くの日本人は、あまり深刻に考えていないようです。
 かつて、孫の代のことを考えて仕事をしていた日本人が、なぜこんなに安易に問題を先送りするようになってしまったのでしょうか。
 一つは、歴史認識の問題があると思います。
 進化論の影響で、人間の技術や能力は後の時代の方が優れていると、ほとんど全ての人が信じています。だから、今、山積みになっている問題も、将来の人間が解決してくれるだろうと心のどこかで思っているのではないでしょうか。
 だから情報知識に関しても、新しいものにはアンテナをはりますが、過去の教訓に目を向けることはあまりありません。
 そしてもう一つ。原発問題は近代社会の問題ですが、日本人の多くは、近代は明治維新から始まっていると考えています。そして教科書的に言えば、中世は鎌倉時代源氏物語が書かれた平安時代は、なんと古代に区分されています。
 だから、近代の問題を考える時に、政治も思想も、明治維新以後のことにしか目を向けないのです。源氏物語は、今とは関係のない遠い昔のことであり、趣味としてそれを嗜む程度の位置付けです。だから、自分の趣味に合わなければ自分と関係ないものになってしまうのです。
 歴史家が悪いのですが、我々が教科書で教えられている時代分けは、世界の基準からずれています。
 たとえば、日本の律令制は、随や唐を模倣しましたが、中国史において随や唐は中世です(京大と東大で説が分かれていて、東大は唐の中旬までが古代らしい)。だとすれば、奈良時代は中世ということになります。
 そして、平安時代中期に書かれた源氏物語は、古代の物語でしょうか。
 源氏物語をきちんと読みばわかりますが、源氏物語の登場人物の心のあり方は、私たち現代人と非常に近いところがあります。
 欧米における近代意識は、一般的には、17世紀、デカルトが、「我考える、ゆえに我あり」と唱えた時と認識されています。
 デカルトは最後の宗教戦争と言われるドイツ30年戦争に志願し、そこで矛盾をいっぱいに感じ、自分に起っている現実に対して、宗教に依存するのではなく、自分の頭でしっかりと考えなければいけないと思うわけです。
 それぞれの固有の体験に対して、なぜそうなったか、どうすればいいかを考える。その悩みは固有のものであり、その固有の悩みが、その人が存在している証となる。近代意識と個人主義はそこから始まっています。
 それ以前、それぞれの個人の悩みは、宗教的に処理されていたわけです。
 源氏物語には実に多彩な人物が登場し、実に多彩な、個人的な悩みが綴られています。源氏物語は、一面では華麗で美しい物語かもしれませんが、70%は、個人の悩みの描写で占められています。それぞれの登場人物が、それぞれの体験の中で固有の悩みを持ち、深く考えている。そして、何も考えなければ悩む必要がないのに、考えることで悩みは深まる。それはまさに実存的な悩みであり、我々と同じ近代の悩みです。
 そして、源氏物語の主人公たちは、ただ悩むだけでなく、それぞれの方法で、自分の悩みと折り合いをつけていきます。最終的には出家という形をとるものが多いのですが、現実とどう向き合い、どう乗り越えていくのかという自問自答に、多くのページが割かれています。
 その中に、もののあはれ、侘び寂び、粋といった、鎌倉時代から江戸時代にかけて日本人が洗練させてきた精神文化の萌芽が感じられます。
 その共通項は、自分のことも大切だけれど、それ以上に、相手や周りの人間のことを隅々まで思いやること。
 世は無常。だからといって、安易に自然の道を外れたことはやりたくないという美意識を、多くの日本人は持っています。そして、矛盾の中を生きながらも、だれかのせいにするのではなく、一歩引いて、自分に非をもつ。源氏物語の中には、そういう粋な女性が多く描かれていますが、現在の様々な問題に対して誰かを責めるばかりで自分を顧みない野暮になっている私たちは、もう一度、1000年前から精神を組み立て直す必要があるのかもしれません。
 日本人は、源氏物語以降、個人の実存的悩みを乗り越えるための方法を、近代ヨーロッパよりも長い1000もの年月をかけて洗練させてきました。だから現代でも、外国人を含め、西欧的近代合理主義の問題を深く感じる人が、関心を寄せ、そこから何かを学び取ろうとしているのです。
 源氏物語に限りませんが、過去のものを丁寧に見つめ直していく時、時間が先に進めば人間は優秀になるとか、より良いものができるという思い込みが錯覚であることに気づくでしょう。
 本居宣長川端康成も言いきりました。源氏物語を超える文学は、その後、出ていないと。空海ほどの行動的思想家、天武天皇源頼朝徳川家康ほどの政治家、若冲ほどの画家が明治維新以降に出ているのでしょうか。
 歴史認識が少しでも変われば、現代の問題を解く鍵が未来にあるとは限らず、過去の教訓の中に埋もれているかもしれないと、アンテナが広がるかもしれません。
 後の時代の方が人間が優秀になるとはかぎらず、だから深刻な問題を先送りしてしまうことは、解決どころか問題をより複雑にするだけだと、悟るかもしれません。