第982回  物づくりと、永遠に通じる道。


「草木は人間と同じく自然により創り出された生き物である。染料になる草木は自分の生命を人間のために捧げ、色彩となって人間を悪霊より守ってくれるのであるから、愛をもって取扱うのは勿論のこと、感謝と木霊(こだま)への祈りをもって、染の業に専心すること。」(前田雨城
 

 源氏物語の女房語りや、誉田屋源兵衛さんの織物などを通じて、日本の歴史文化の底力を見つめ直す試みの第一回が終了。誉田屋源兵衛さんが、売るためではなく後世に残すために作っている染色織物は、こういう機会でないと見られない。直に見たり聞いたりすることは、やはり心に迫るものがある。
 こうしたものは美術館のガラスケースに入れてしまうと、オーラが伝わってこない。物には命が宿り、オーラが発せられているという感覚すら現代人はわからなくなっているが(そういう物に触れる機会がないから)、物から命の気配が漂うのは、物を作っている人が命を吹き込んでいるからだという当たり前のことすら、私たちはわからなくなっている。
 日本の古代染色の探求者、故前田雨城氏の全く妥協を許さない仕事を目のあたりにしてきた源兵衛さんは、氏からの教えを語る。
 桜も桃も、花ではなく枝から染め上げる。枝の中に色が準備されている。枝から染めるためには木を伐らなければいけない。だから、木の中でも、見た目がさえない木に語りかけて、このまま生きていたいか、色となって永遠に生きてみたくないかと語りかけるそうだ。そして、伐られるのは嫌だという木には手を出せない。手を出すと、本当に暴れるのだそうだ。愛(なさけ)をもって取扱い、感謝と木霊こだまへの祈りをもって染の業に専念すること。現代の風俗に染まっている人間からすれば、まるで神話だが、神話ではなく本当の話なのだ。だから、現代に伝えられている神話も、作り話ではなく、すべて本当の話。人間は、樹や花や動物と対話ができるのに、現代人が、そのことを忘れてしまっているだけ。非科学的だなどと自分の鈍感さを棚にあげて。
 蚕の話も面白かった。奈良時代から飼育されている在来種の小石丸は、1つの繭から取れる糸は普通のカイコの繭の半分以下、産卵数が少なく病気に弱いなど、飼育が難しい。そのため、品種改良で、より大きく飼育も難しくない家蚕がつくられ、その糸を、私たちは絹だと言っているが、今日、源兵衛さんが、家蚕と小石丸の糸の違いを、目で見て手で触れて感じさせてくれた。実際にその二つを目の前にすると、光沢も、手触りもまったく違う。
 小石丸は、自分が繭から抜け出して飛びだす意思を持っているから、一部分を薄くして、外に出やすいように繭を作っている。しかし、家蚕は、全体的に均等に糸を張り巡らしている。つまり、自分は繭の中で生命を終えることを知ってしまっている。その生命意思の差が、糸の質の差になっているのかどうかわからない。
 美智子皇后が約20年間育てた小石丸の絹糸を使って、正倉院に保存されていた絹織物の修復が行われたことはよく知られているが、昔の物はすごい。刀なども鎌倉時代のものが最高で、その後は、質が下がる。私たちは、時代が先に進むほど良い物が出てくると信じているが、それはデジタル製品の世界の話で、音楽なども、100年前の蓄音機で聞くと、圧倒される。小説なども、数十年前のものに比べて、どんどん世界が狭く、表層的なものになってきている。評価の基準が面白いかそうでないか好きか嫌いかのレベルにしかならず、圧倒されたり、度肝を抜かれたり、放心したりと、理性分別の境界を超えたところに連れていってもらえるものと、ほとんど出会うことができない。
 どうでもいいものを数多くこなすよりも、ただ一つでも、本物に出会った方が、はるかに多くのことが得られる。物や情報だけでなく人間もまた同じだろう。本物は、自分のために作っていないし、だからといって、世の中の価値観や傾向といった移り気なものに合わせることもしない。今ではほとんど死語になってしまっている”永遠”のために、自分の生命を賭している。
 日本の歴史文化を見つめ直す意義の一つは、現代社会では、ほとんど見かけることがなくなってしまった”永遠性”に触れること。目先のことで慌ただしくすることが人生の充実であり豊かさだと錯覚させる現代社会の欺瞞性に少しは気付けること。
 私たち人間は、物を媒介にすることで、永遠に通じる道を知る。
 古代、人間が死を意識し始めた時、死の恐怖、不安、無念を乗り越えることを、真剣に考えたのではないかと思う。
 その真剣さと畏れが、物づくりに反映されている。それが、”命懸け”の仕事につながっていくのではないか。
 故前田雨城さんの心を伝える源兵衛さんの話から、”命懸け”というのがどういうことなのか改めて教えさせられた。命懸けの人は、自然に対する姿勢と同じく、人の仕事に対しても、隅々まで心が行き届き、敬意と配慮と感謝がある。それは人間にとって最も崇高な資質。それがある人とない人で、作りだされる物がまったく違うことは、物を見ればはっきりとわかる。自分を誇示するために物や人や自然を利用することしか頭にない人は、物や言葉や態度に、いくら取り繕っても、了見の狭さが出てしまう。
 テクノロジーを上手につかいこなし、様々な情報を要領よくさばいても、一時的に命の本質から目をそらしているだけ。だから、時の流れのなかで、泡のように消えていく。
 命懸けの仕事だけが、時代を超えて、人々の心に刻まれ、伝えられていく。
 しかし、ここに書いていることも含め、言葉では何とでも言えるが、物それ自体の説得力からは、遠く隔たっている。
 だから、命懸けの仕事には、言葉を超えたところで伝えられていく秘伝というものがある。しかし、長い年月を経て伝えられていく秘伝は、主に技術的なことで、秘伝ですら、本当に重要なことは取り除かれていたという。自分で感得するしかない、という領域。それを感得することなく、その人の色は出ない。
 永遠に通じる道は、目眩がするほど深い世界。


(以下、前田雨城氏著『日本古代の色彩と染』より)

 よい染色(そめいろ)は五行の内に有り。 本来の染色を得んとする者は、五行の訓(おしえ)に従って、その業をすること。
  五行の訓とは、 木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)、を言う。

木の章。
 草木は人間と同じく自然により創り出された生き物である。
 染料になる草木は自分の生命を人間のために捧げ、色彩となって人間を悪霊より守ってくれるのであるから、
 愛をもって取扱うのは勿論のこと、
 感謝と木霊(こだま)への祈りをもって、染の業に専心すること。

火の章。
 火には誠せよ。誠なく火に接すれば、必ず害をうける。
 火の霊(たま)は良き霊であるが、それに接する人の心によっては、悪霊にもなる事を知れ。
 常に心して火の霊を祭ること。

土の章。
 土より凡て生れる。土悪ければ、その地の草木悪し、草木悪ければ染色悪し。
 大地に念じ良き土を選ぶべし。
 総じて清気溢れたる土に生える草木をよしとする。

金の章。
 金気(鉄気・かなけ)は美しい色の大敵也。
 金気(鉱物質ならん)なければ色彩固まらずと言えども、金気にも善悪あるを知るべし。
 霊(たま)に良き霊と悪しき霊のある如し。
 一見して善しと見るは注意せよ。

水の章。
 一に水、二に水、三に根気、と言う。
 一の水は量を表し、二の水は質を表す。まず大量の水を必要とし、
 染色(そめいろ)に適するは、治まった水にして素直なる水であること。
 素直なる水とは草木に生命を与え得る水の事也。
 三の根気とは、仕事を与えられた喜び、その喜びに祈りの心を添えて、
 与えられた仕事に自己の力の凡てを、捧げることを言う。