第999回 畏れという人間の良心


アルビノの木:監督 金子雅和」

 京都みなみ会館で、4月15日から21日まで上映される『アルビノの木』という映画がありますが、4月15日の14時15分からの上映後、監督の金子雅和さんと私のあいだで、30分ほどトークを行います。
 8ヶ月ほど前、「アルビノの木」という映画を見た時、途中までは、あまり上手でないなあという印象をもった。構成も演出も役者の演技も。
 そして、見続けながら、上手でないことが、なにかとても大事なことのようにしみじみと感じられてきた。
アルビノの木」という映画の作り手は、とても難しい課題に向きあっている。自然と人間の現実とのあいだの葛藤。人間の中にある基準では、どうにも手に負えず、自然と人間の両方を俯瞰する神様の目で見なければ、正しいことはわからないという課題。しかし、当然ながら、自分には神様の目は持ち得ない。だから、演出も演技も、おぼつかなくなる。
 「わかったつもり」になって、正しさを主張することなんか、とてもできない。
 表現に限らず、どんな活動も、自らの正しさの正当化のために傲慢になっていると感じられるものは信用できない。また、正しさの為に動いている自分に酔いしれているようなものは、行動も、表現も、薄気味悪い。
 だからといって、表現することが無意味であるということではない。
 正しいか正しくないかというのは、答えが正しいかそうでないかではなく、伝え方として正しいかどうかの方が、遙かに大事なのだ。
 ならば伝え方の正しさというのは、どういうことだろうか。
 色々あるだろうが、一つ大事なことは、伝えるための方法に対して、どれだけ心が尽くされているかではないだろうか。 
 その人が信じられるかどうかは、伝え方がうまいかどうかではなく、何かを伝えようとする方法において、十分に心が尽くされているかどうかだ。言葉で伝えているのに言葉の限界や矛盾を感じることもなく、映像で伝えているのに映像の作為性や誘導性が持つ問題を意識することなく、それらを使っている人は、あまりにも真実に対して傲慢だ。にもかかわらず、そういう人に限って、正しさを主張するために言葉や映像を用いている。
 何かを伝えようとする時、人の誠実さは、伝えようとする内容や主題よりも、そのスタイルに現れる。日本文化は、能であれ、茶道であれ、そのスタイルに、まことの心が凝縮している。ともすれば形式主義に陥りやすい欠点があるが、それは、伝えるべきものを持たず(まことの心を持たず)、前例をコピーしているにすぎないからだ。
 だから、形式主義者ほど、内容や主題を説明したがる。そのスタイルを通して、内側にある誠実さが十分に伝わってくるものは、説明などいらない。
 とはいえ、”説明などいらない”と大見得をきっている人のものが、そこまでのレベルに達していることも、あまりない。
 隅々まで心を行き渡らせていながら、伝える相手に、そのことを負担にさせないこと。日本人が昔から大切にしてきた真の意味での”おもてなしの心”は、表現にも通じる。表現もまた一期一会だからだ。その誠意は、どんな主張よりも、相手の心に深く残るし、そういうものが残るあいだは、人間性への信頼を諦めずにいられる。
アルビノの木」は、人間性への信頼や自分自身の良心を、自分の心にそっと問うことを、どこまでも控えめなスタイルで促している。
 この映画は、上手な映画ではないが、文明の利器が発達して誰もが上手に振る舞える時代、この映画の作り手は、上手さが空々しさにつながることを一番畏れているのだろう。
 その畏れこそが、人間の良心なのだ。
アルビノの木」は、上手に作られた映画ではなくて、畏れという人間にとって最も大事な良心の扉を、おぼつかない手で恐る恐るノックする誠実な映画だと思う。
 このおぼつかなさ、心許なさこそが、現代の誠実だろう。わかっているつもりになって自信満々に声高に正しさを主張するよりも、本当のところはわからないということを自覚したうえで、それでもやはりおかしいのではないかと考え続ける姿勢からしか、自分自身も、その延長線上にある世界も、変わっていかないと思う。

京都みなみ会館HP
http://kyoto-minamikaikan.jp/show
アルビノの木 公式ページ
http://www.albinonoki.com/


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鬼海弘雄さんの新作写真集「Tokyo View」を発売中です。
詳しくはこちらまで→