第1004回 世界でいちばん美しい村


(撮影:石川梵)

 石川梵監督の「世界でいちばん美しい村」というドキュメント映画がある。日本全国で上映され、人々の心を捉えているが、6月17日から、大阪の第七藝術劇場でも公開される。
http://www.nanagei.com/
 6月19日には、13時55分からの上映の後、私と石川監督でトークをすることになった。
 映画の内容については、ここで私が述べるよりは、ホームページを見た方が写真付きで詳しい。https://himalaya-laprak.com/
 だから、ここでは、私の印象だけを述べることにする。
 この映画には、本当に驚かされた。
 チラシには、「大地震を乗り越えて強く生きる。貧しくても明るい家族。子供達の輝く眼差し。圧倒的な映像美」などと、ステレオタイプのフレーズが踊っている。ホームページにも、「感動のヒューマンドキュメンタリー映画」とキャッチコピーが付けられているので、被災地を舞台にした、よくあるようなドキュメンタリーと思ってしまう人がいるかもしれない。しかし、この映画は、それらの安っぽい言葉では括れない、深く鮮烈な体験を与えてくれる。
 この映画からは、人間の共同体の原点というべきものが、生々しく、力強く迫ってくる。人間は、この映画の中の人々のように、何百年、何千年と生き続けてきた。その間、なんども自然災害などに遭遇しながら、不死鳥のように人間の共同体を復帰させ、維持して、生きてきた。脆弱なように見えるけど、実際は、とても強固なもので、だから何百年、何千年と続けることができた。それに比べて、私たちが生きている現代社会は、安全性とかセーフティネットとか、自分の暮らしを守るために神経質なほど色々と気にしているが、本質的なことが抜け落ちているのではないか。映画を見ながら、そういうことを痛切に感じさせられた。
 そう感じずにはおられなかったのは、この映画には、村の人々の暮らしや信仰が、通り一遍のものではなく、あまりにも濃密にこめられているからだ。よくぞここまで記録化できたものだと感心せざるを得ない。
 あらかじめシナリオを作って、そのシナリオに適した場面を集めるという発想の取り組みでは、とても不可能だろう。偶然性に満ちた、だからこそリアルな、生々しい姿や声が、全編に溢れている。かといって、偶然性だけに頼ると、表層的なものになりがちだが、そうはなっていない。人々の営みの中への入り込み方や、人々との密着度が素晴らしいのだ。
 この映画を作った石川さんの動機の一つは、大地震の後の窮状を世界に知らせることであったかもしれないが、映画の内容は、そうした政治的、社会的なメッセージ性だけにとどまっていない。人類学という視点で見ても、非常に興味深いものなのではないかと思う。
 20世紀を代表する思想家で人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、近代合理主義の世界に生きる人間が発展途上国とされる地域を訪れる際に、西洋の知で見るなという警告を発していた。つまり、我々の社会の中で身につけてしまった世界観や人生観、道徳や倫理や自己否定も含めて、我々の尺度で対象を分析したり、価値付けたりするなということだが、教育などを通じて思考の方法なども西洋の知で組み立てられてしまっているので、そこから自由になることは簡単ではない。
 そういう軋轢の中で、レヴィ=ストロースが、神話世界を通して発見した思考の組み立て方法は「ブリコラージュ」だった。
 ブリコラージュは、もともとは「寄せ集め」いった意味だが、あらかじめ作り上げた全体の設計図にそって中身を作っていくのではなく、きっと何かの役に立つと思って集めておいた断片を、その後の進行の中で、適時、必要に応じて組みこんでいくことで、自ずから構造が立ち上がっていく。そして、それぞれの断片がしかるべきところに収まっていく。神話というものは、そのようにしてできあがっている。
 だとすれば、”きっと何かの役に立つ”と感じる感じ方が重要になる。その感じ方は、一体何に基づいているのか。お金儲けに興味がある人は、世の中に数多くある情報の中から、きっと後になって役に立つだろうと直感が働くものを集めてプリコラージュしていくだろう。
 石川さんの場合、”きっと何かの役に立つ”という直感は、そうした世俗的なことを超えた大いなる存在とつながっている。神という言葉を使ってしまうと陳腐になってしまうが、人々が意識できないけれど、確かに存在している力で、その力が、私たちを生かしている。そういう経験のある人ならわかるだろうが、不思議で、奇跡的だと感じられこと。縁とか、巡り合わせとか、昔から人々が実際に感じ取り、言葉にしてきたこと。
 石川さんは、この映画を作り始めた後に、その大いなる力を感じとったのではない。彼は、それ以前からずっと一貫して、その大いなる力を具体的な形にするために、仕事を続けてきたと言っていい。
 彼は、伊勢神宮を30年にわたり取材し続けていて、20年に1度だけ行われる式年遷宮を2回に渡り映像と言葉で記録しているという、一千年を超える日本史の中でも極めて限られた貴重な人物だ。おそらく次も記録し、日本の長い歴史の中で唯一の、式年遷宮を3度にわたって記録した人物となるだろう。
 伊勢神宮は、宗教や信仰といった言葉では簡単に括れない。厳粛な宗教的儀礼の背後にあるもの、自然と人間のあいだをつなぐ巨大な有機的システムが、そこにある。木を育て、米を作り、布を織り、様々な道具を用いて自然に働きかけ、自然からいただき、活用し、自然に還していく。それらのすべてが厳粛に執り行われることで、人間共同体と自然とのあいだ調和を維持していく。
 私は、風の旅人という雑誌のなかで、石川さんが長年取り組んできた作品のうち、インドネシアのラマレラ島の鯨漁と、タナトラジャの盛大な葬儀を特集した。
 そして、この二つもまた、伊勢神宮と同じく、自然と人間のあいだをつなぐ巨大な有機的システムであり、石川さんは、そのシステムを映像と言葉の力によって具体的に浮かび上がらせていた。単に物珍しい異国情緒溢れる昔ながらの風習を撮ったドキュメンタリー映像ではなかったのだ。
  鯨漁という危険な漁においては、鯨を必要以上にとりすぎないことや、鯨に対する感謝と敬虔さ、鯨に立ち向かう人間への敬意、そして、捕らえた鯨を村全体で分けること、老人は道具作りで貢献するなど全ての人間が大切な仕事のために協力し合うこと。また、タナトラジャにおいては、財産を残さずにすべて自分の葬儀のために費やすことが美徳とされ、そのことが村人たちを潤わせるという構造の社会。
 人間と人間、人間と自然のあいだの調和とバランスが編み込まれた暮らしが、長年にわたって続けられていて、石川さんは、実に見事に、その構造を浮かび上がらせていた。 
 石川さんは、若い頃、プロの写真家になることを目指し、戦火のアフガニスタンを取材した。荒廃する国土、至るところに地雷が仕掛けられ、いつ空から爆弾が落ちてきたり、至近距離から狙いを定めて射撃する戦闘ヘリの餌食になるかわからない状況の中で、アフガンの戦士達の信仰の力をまざまざと見せつけられ、彼は、信仰について深く考えずにはいられなくなった。いつか死ぬことを宿命付けられている人間が、いったい何を拠り所にするのか。
 そうした問いを積み重ねてきた石川さんは、2011年の東北大震災の時、ただ被災地の現状をニュースとして伝えるだけではなく、「我々は、いかに生きていくのか」という問いを、自分自身に発しながら、写真や文章の表現としてアウトプットしていったが、今回のネパールを舞台にした映画においても同じだった。
 人間として生きているかぎり、誰でも、無慈悲な運命によって、自らの無力を思い知らされることを避けることはできない。それでも、生きるに値する命、何ものかに生かされている命というものを感じる瞬間が私たちにはある。そうした命そのものの謎に深く向き合い続ける仕事、それが石川さんが目指してきた道であり、生き様そのものなのだろう。普遍であり、根元であり、2000年前も、おそらく2000年後も変わらない人間のテーマだ。
 彼の求めるものは、そのように大きくて底知れぬものだから、驚くべき時間と労力をかけなければならな。しかし、彼の仕事が予算に恵まれているわけではない。にもかかわらず、なぜ今回のような映画が作れるのかといえば、一人で全てをやりきってしまっているからだ。そのエネルギーには本当に驚かされる。
 今回の映画を見た多くの人は、大集団の撮影クルーが作ったものだと感じるだろう。しかし、実際には、テレビ番組のドキュメントよりもはるかに少ない人数であり、石川さんと助手一人だけでやりきっているのだ。当然、テレビ局の撮影現場などでよく見かけるマイクとか照明や、スタッフの弁当を手配するアシスタントなどを現場に連れていっていはいない。
 そして、偶然性に頼り、作為的な演出を行っていないドキュメントなのに、あまりにも多くの素晴らしいカットがありすぎて、いったいどういうタイミングでカメラをまわしているのか不思議でならない。写真家として長年培ってきた経験で、次の展開が読めてしまうのだろう。そして、常にいつでもカメラをまわせる態勢でいるのだろう。相手に警戒されたり、意識させたりすることのない絶妙な間合いを保ちながら。そのように蓄積した重要な細部を、レヴィ=ストロースが説くようにプリコラージュ(寄せ集め)していくことで、まさに神話のような世界ができあがった。
 神話は、世俗的な側面では役に立たないかもしれないが、無慈悲な運命によって自らの無力を思い知らされるような時にこそ力になるものがこめられている。
 神話に地域性も時代性もない。神話は、共同体の中でしか生きられない人間にとって古今東西変わらない普遍的な知恵なのだ。
 近代合理主義思想から生まれた個人主義が、共同体の知恵の歴史的蓄積ともいうべき神話を遠ざけてしまった。しかし、そんな時代においても、今、起こりつつあることをもとに、現代の神話をプリコラージュしていくことはできる。時を超えて語り伝えられていくものは、きっとそういうものだろう。
 「世界でいちばん美しい村」を見る人は、どこか遠くの出来事を記録したものとして見るのではなく、きっと自分に突きつけられる問題として見ることになる。そして、我々よりも遥かに大きな時間の中で生きている人たちの姿を見て、個人の暮らしの快適さばかりを追求する社会の卑小さを、思い知らされることだろう。人間には、まだそうした良心が残っていて、神話は、きっとその良心に働きかける。