第1008回 禍福と、かんながらの道(続) 〜小野氏や源氏物語と、古今東西変わらない”祓い”のこと〜


京都市北区 小野岩戸)

 平安京は、風水を配慮して都を守るように作られていることはよく知られている。しかし、守り方は、一つではない。平安の都の完成に至るまでに様々な陰謀や無数の死が積み重なっており、恨みを残して死んでいった人々の祟りからも、都を守る必要があった。
 日本人は、よく「水に流す」というが、”祓い”もまた罪や穢れを水に流して浄めることとつながっている。しかし、その真意は、この世界のあらゆる罪穢れを徹底的に祓い浄め、「明(あか)き浄(きよ)き正しき直き」境地を求める姿勢からきており、おそろしく深い。
 風の旅人の創刊号(2003年4月)で、今は亡き白川静さんが、”死を超える”という私が投げかけたテーマに対して、「真」という文字で返してこられた。真という字は、首を逆さまに懸けている形で、行き倒れの人の死のこと。それがなぜ真かというと、恐るべき威霊をもつからだ。その霊を鎮めるために、人々は慎んで、祠の中に置き、玉を加えて鎮めた。さらに、「道」という字も、首という文字を含んでいるが、それは、自分の領域を超えて邪霊のはびこる世界に入っていく時、「首」の呪力によって邪を払うためである。実際に、討ちとった敵の首をもって歩いたそうだ。
 また、柿本人麻呂は、宮廷歌人と言われるように尊貴な人のために歌を作ったが、水死者や変死者など、不遇の死を遂げた霊を弔う歌をたくさん作っている。恐るべき慰霊を鎮めるために。
 柿本人麻呂は、遊部という遊魂に関わる歌人だったということも、白川さんは「風の旅人」の創刊号に書かれた。
 遊部は、古墳や埴輪を作るなど、死を通じて永久の魂に至る儀礼を司っていた土師氏によって統括されていたと考えられているが、その柿本氏の起源は、小野氏と同じ和邇氏である。
 平安時代に、疫病など世に災いが頻発した時、今宮神社や八坂神社で御霊会が始まるが、その50年ほど前に、菅原道真の祟りを鎮めるために北野天満宮が作られた。さらにその100年以上前には、長岡京遷都における藤原種継暗殺の件で濡れ衣を着せられ、その抗議のために絶食して死んだ早良親王の祟りを鎮めるために崇道神社が作られた。
 早良親王の霊を鎮める崇道神社は、平安京の政治や祭祀の中心である内裏(今の千本丸太町から北あたり)からは北東の鬼門の位置にあり、高野川に沿ったその地域は小野郷と呼ばれ、小野毛人の古墳がある。そのラインをさらに伸ばしていくと、西近江の小野という土地になり、そこに、古代の古墳がたくさんあり、小野神社がある。高野川も西近江も小野氏の拠点だ。
 そして、菅原道真を鎮める北野天満宮は、内裏から西北の天門の位置にある。鬼門は鬼が入ってくる方位。天門は怨霊や魑魅魍魎が入ってくる方位だ。平安京の内裏と北野天満宮のラインをさらに伸ばしていくと、京都北区の小野の里になる。なぜかこちらも小野である。そしてこの地は、源氏物語において、光源氏と彼の息子の夕霧の栄光に影を落とす女三宮や女二宮の所縁の地である。
 ちなみに、早良親王は、兄の桓武天皇と同じく、土師氏の娘、高野新笠の子供であり、高野氏が拠点としていたのは、崇道神社のある小野郷だった。
 菅原道真は、なぜか、名前に、「道」という字と「真」という呪いと祓いの文字が使われているが、菅原氏というのは、土師氏のことである。桓武天皇が、土師氏出身なので、土師氏は、その名を隠すためか昇格なのかわからないが、菅原、大江、秋篠という姓に変えられた。
 そして、源氏物語を書いた紫式部の父親の藤原為時は、天皇の側に仕えて学問を教授する学者であったが、その師匠は、菅原文時で、彼から歴史(紀伝道)を学んだ。ちょうど、菅原道真の祟りが騒がれ、北野天満宮が作られる頃である。
 紫式部が仕えた藤原道長の娘、彰子は、道長源雅信の娘のあいだに生まれ、一条天皇の皇后になり、後一条天皇と、後朱雀天皇の生母となる。また、道長は、藤原氏の政敵で、安和の変で失脚した源高明の娘・源明子も妻としている。
 道長は、陰陽師をたくさん抱えていたと言われるが、藤原氏に恨みを持つであろう源氏一族から二人の妻を迎えて、その子を天皇にしたのだ。そして、その道長に仕えていたのが紫式部だから、源氏一族の魂の鎮魂と祓いのために、光源氏の栄華を描く「源氏物語」が書かれたとも考えられる。
 しかし、「源氏物語」を丁寧に読んだことがある人ならわかるが、「源氏物語」は、この本を読んでいない人がステレオタイプに思いこんでいる光源氏の恋愛遍歴や栄華を描いているのではない。恋愛や栄華の場面はあるが、その背後に常に影がつきまとい、罪に苦しめられ、悲哀が感じられ、光源氏当人が、つねに出家を望んでいる。そして、光源氏に一番愛された紫の上には子供ができず、紫の上が亡くなった後、光源氏の最期は書かれず、煙のように消えてしまう。
 ハッピーエンドとは、とても言えない。
 その光源氏の晩年の不吉を象徴する人物が、女三宮であり、光源氏の血をひく夕霧の不吉につながるのが女二宮である。
 光源氏は、最愛の妻、紫の上が側にいながら、朱雀天皇に請われて、その娘の女三宮を妻とする。その時から、紫の上の心の状態が不安定になり、運勢が悪化し、あっという間に亡くなってしまう。そして、その女三宮は、光源氏が将来を期待していた柏木と密通して子供を産む。誰もが光源氏の子だと思っている薫は、実は柏木の子である。そして、光源氏は、そのことに気づき、柏木に告げる。恩人でもある光源氏を恋のために裏切った柏木の苦悩は深まり、その挙句、死んでしまう。そして、ややこしいことに、女三宮に恋い焦がれた柏木の正妻は落葉の宮と呼ばれる女二宮である。柏木は、ずっと女三宮に恋い焦がれていたが、女三宮光源氏の妻となったために、柏木の父が憐れんで、朱雀天皇に頼み込んで、女二宮を柏木の妻にした。そして、柏木の死後、光源氏の血を受け継ぐ数少ない人物、夕霧は、それまで堅物な男だったのに急変して、狂ったように未亡人となった女二宮にプロポーズする。嫌われているのに、あまりにもしつこくて、滑稽である。小野の里に所縁を持つ女三宮と女二宮によって、光源氏と夕霧の運命は歪んでいくのだ。
 長い長い「源氏物語」が終わる時、唯一、ハッピーエンドなのは、住吉の神に守られた明石の一族である。
 光源氏の血を受け継ぐ明石の姫君は、皇后となり、さらに世継ぎを産む。
 明石一族の長である明石の入道は、光源氏が幼い頃に死んだ母、桐壺更衣のいとこ。かつては京の都の高官だったが、見切りを付けて播磨守となり、そのまま出家して明石の浦に住んでいた。ひたすら住吉明神に祈願し続け、霊夢によって、光源氏を明石に迎え、娘と結婚させた。

 私が18歳まで生まれ育った明石は、かつては明石の門といわれ、柿本人麻呂は、明石の歌を幾つか残している。
「あまざかる ひなのながちゆ 恋ひ来れば 明石の門とより 大和島見ゆ
 (遠く隔たった地方からの長い旅路を続けて、大和が早く見たいと恋しく思いながら帰って来たが、明石海峡から大和の山々が見えてきた。)
 明石の浦は、瀬戸内海に少し出っ張っていて、天気の良い時には、大阪平野の向こうの葛城の山々を望むことができる。
 また、古代、この海峡を通過する船の道標のために、海岸に沿って灯火がたかれていたため、河内(大和の圏内)から、赤い火が見えた。大和から見て、明石あたりが、視覚的に、こちらとあちらの境界と感じられていたのだ。
 光源氏は、京都で政争に巻き込まれ、明石まで落ちぶれる。そして、その”境”の世界から住吉明神の力を得て、京都に復活する。藤原氏に敗れ去った源氏が霊的に復活した。しかし、最期は、空しく煙のように消える。
 そして、住吉明神を大切にしてきた明石の一族の将来の繁栄が暗示されて終わる。住吉三神は、イザナギが黄泉の国から帰ってきた時に、汚れを取り除くために海の真ん中で禊をして身体を洗った時に生まれた神であり、源氏物語のなかには、複雑に、祓いの仕組みが織り込まれているように思われてならない。
 それはともかく、平安京の内裏の東北の鬼門の位置に、小野氏と関係の深い場所があり、西北の天門の位置にも、それがある。西北の小野の里には、岩戸落葉神社がある。かつて、この土地は、平安京に送る重要な材木の供給地で天領だった。今は寂れている岩戸落葉神社は、かつては朝廷とも深いつながりがあった。背後は巨大な岩盤(磐座)であり、瀬織津姫という祓いの神が祀られている。
 昨日、その周辺を探索した。小野岩戸というあたりに、ピラミッド型の美しい山があり、その近くに加茂神社があった。加茂神社にも、瀬織津姫が祀られていた。
 京都市内の下鴨神社も、正式名称は、加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)である。この中に、御手洗社がある。京都三大祭のひとつに数えられる「葵祭り」に先立って、斎王代が行なう「斎王御禊の儀」は、この御手洗池で行なわれる。十二単を着た女性たちが、御手洗池に入り手をつけて穢れを祓うのだ。由来を読むと、祭神は、やはり、祓いの神、瀬織津姫だ。
 下鴨神社は、平安京の内裏と西近江の小野の里や、崇道神社のある小野郷を結ぶ鬼門のライン上にあり、祓いの神の力で平安京を浄めている。
 また、葵祭は、源氏物語でも重要な鍵を握っている。この祭りでの諍いをきっかけに、六条御息所の怨霊が、光源氏の最初の正妻で夕霧の母親である葵の上を殺してしまうのだ。
 こう書いていくと複雑極まりないが、当時の人が、源氏物語に心惹かれていたのは、単なる恋愛ロマンスではなく、紫式部が織り込んでいる彼岸と此岸を結ぶ暗号のようなものを、我々よりも明確に読み解くことができたからだろう。
 柿本とか小野とか源氏とか加茂とか菅原とか、このように書くと、名前ばかりで何のことかわからないと思う人もいるし、何かしら気になる巡り合わせだと感じる人もいる。
 いずれにしろ、言葉の背景のことを少しでも知っていないと、意味はさっぱりつかめない。
 祓いという言葉にしても、その背景に流れている歴史や信仰が断ち切れた現在では、その真意を理解することは難しい。
 しかしながら、平和の時にはわからなくても、自然災害や病気など、自分の力ではどうしようもない事態に直面した時、ただ絶望するだけでなく、その窮地を脱するために、無意識に人は祈る。災いを避けるために、まじない(呪う)、幸いを祈る(祝う)。そうした祓いの心理作用は、古今東西変わらない。
 柿本人麻呂紫式部などがつとめた文学の起源は、そういう意味で、祓いのための言霊の呪術なのだろうと思う。