第1017回 核と鎮魂(1)

 京都に移住してから何かとお世話になっている信頼資本財団の熊野理事長と、風の旅人において、連載を続けてくれた作家の田口ランディさんが協働して、「核と鎮魂」というイベントを開いた。原発問題、とりわけ高レベル放射性廃棄物の最終処理の問題を軸に、これまでの生き方を問い直すために考えるきっかけとなるよう様々な角度からのプレゼンテーション。朝の10時半から夕方の5時過ぎまでの長時間であったが、進行に従って人が少なくなることもなく、最後まで熱いものが漂っていた。
 このたびは、こういうイベントには珍しく政府・電力会社関係者ら原発推進の考えの人と、その反対の学者や活動家や建築家や医師など各ジャンルの人が、それぞれプレゼンを行うという展開だった。
 それぞれの方々のプレゼンがメインで、ほとんど対話らしい対話、議論がなかったのは残念だったが、こういう取り組みは初めてなので、今回の反省材料をもとに、来年は、少し構成を変えてくるだろう。
 プレゼンの中では、それがいいか悪いかは別として、それぞれの立場からかなり緻密な内容の話が語られた。しかし、最後のところで、何か大切なものが台無しになってしまったような印象が残った。運営側を代表する形で、「みなさん、あの方々(高レベル放射線廃棄物の最終処分地のことをプレゼンした人たち)の話、納得できましたかあ!? 私は、全然です。謝罪もなく、おかしいと思いませんかあ?と、大きな声で叫ぶような展開になってしまったからだ。
 けっきょくそういう形で、相手から”謝罪”を引き出したが、そういう形での謝罪は、形式的なものでしかない。
 こういう場が設けられたのは、納得できないところは、何がどう納得できないのか、きちんと話し合うためであり、そういう展開が欲しかった。選挙演説の戦いではなく、対話の場を呼びかけているのだから。それぞれ異なる立場からの正論というものがある。その正論を感情的にぶつける場は他にもある。しかし、そういう追い詰め方では、相手も防御姿勢しかとらず、本当の言葉なんか出てこない。難しいかもしれないけれど、組織の鎧を外して、生身の人間としての言葉が少しでも出てくること。それこそが、こういう場の収穫なのだと思う。そのためには、こちらも組織(集団)の力を借りるような暴力的な態度をとるべきではないのだ。
 私も、納得できない話はあった。しかし、会場からの質問や意見を受け付けることもないまま進行していった。
 私は、高レベル放射線廃棄物の最終処分の話が、ガラス固体化した状態のものをどこにどのように埋めるか、それが安全か、危険かという話に絞られて、そのうえで、安全とか安心の意味とか抽象的な話になるのが腑に落ちなかった。
 カラス固体化した状態で40,000本分まで大丈夫だとか、すでにガラス固体化した高レベル放射性廃棄物が、整然とどこかに管理されていて、それを最終的にどこに持っていくかを議論しているような雰囲気になっているからだ。
 実際には、ガラス固体化するのは六ヶ所村の再処理工場であり、ずっとトラブルが続いていて、これまで思うようにいっていないし、これからも無事に何の問題も起こらず、ガラス固体化ができる保証はない。再処理の過程で、どういう汚染が発生するか、地下に埋める前の段階で、まだまだ未解決の問題はいっぱいあるはずなのだ。
 地下に埋めることが安全かどうかという話よりも、六ヶ所村で再処理をしてプルトニウムを取り出して、MOX燃料にして、高速増殖炉もんじゅの構想がなくなったので、仕方なくプルサーマル原子炉で燃やすために、震災後の原発再稼働はプルサーマルを中心に行われている。現段階では、六ヶ所村がうまくいかないので、イギリスやフランスに再処理をやってもらった高コストのMOX燃料を使っている。
 もし、再処理をやめると各原発に危険な状態で保管されている高レベル放射性廃棄物が、燃料になる可能性のある”資産扱い”ではなく、ただのゴミになり、そうなると、総括原価方式で算出されている電気代にも影響が出る(電気代を下げざるを得ない)。そういう複雑なことが背後にいっぱい隠れている高レベル放射性廃棄物の最終処分の問題。せっかくなので、それらの暗部を一つひとつ確認できるような場であってほしかった。大雑把に、「みんな納得いかないよねえ」で糾弾してしまうだけなら、この問題を自分ごととして考えることにおいては何も進まない。
 このイベントの最後の最後、もう1分も時間がないという状況のなかで、はじめて、「会場の中で何かいいたいことある人いない?」とか振られて、手をあげようと思ったけれど、あの最後の流れの中ではさすがに難しい。
 それはともかく、田口ランデイさんが、ほんのごく短い時間だったけれど、今回のイベントを「核と鎮魂」と名付けた理由について、非常に興味深く、私が日頃考えていることと近いことを発言していた。
 原爆を投下するなど人間の愚行を責めることよりも、それを実行させる力は何だったのかに自分は関心がある。
 それは、組織などに属する個人が、組織内において大きなプレッシャーを感じる時ではないのかと。それは一国の大統領に限らず、企業の不祥事でも、学校のイジメでも同じかもしれない。
 つまり個人が、自らの弱さを自分一人で引き受けざるを得ない状況に追い込まれる時、人間は、とんでもない愚行を引き起こしてしまう。
 それに対して、たとえばアウシュビッツなど人間の凄まじい愚行の現場を訪れる時、自分の個人意識は消えて、人類がこれまで展開してきた、もしくは積み上げてきた活動のその先端の部分に自分が立っているという感覚にとらわれる。
 つまり、自分は自分という個から始まって今の自分がいるのではなく、それ以前の人類すべての営みの先端の先っちょの点なのだ。
 点であるけれど人類の歴史は自分の中を流れている。先の戦争や原発事故に、そのような感覚で向き合うのは、鎮魂という感覚に等しい。そういう話だった。
 今回の別の人のプレゼンでもあったが、「自分も電気の恩恵を受けているから原発事故は人ごとではなく自分の責任でもある、だから自分の生活を変えよう。」というスタンス、これはこれで一つのわかりやすい考え方だし、その必要性もあるので私も少しずつ実践している。しかし、そうして生活を変えた瞬間、自分が正義の側に立ったという意識になってしまうようであれば、それは、人間の愚行を自分ごととして引き受けていることにはならないだろう。
 生活を変えた瞬間、意識を変えた瞬間、自分が正義の側に立ってしまったら、それは革命後の粛清者や、新興宗教の勧誘とあまり変わらない。これまでを否定するだけなら。
 自分が、人類が積み上げてきたものの先端の点であるならば、これまでを否定できず受容するところから次を考えるしかない。でもそれが、本当の意味で人類共同体の意識を持つことなのかもしれない。それは胸を張って唱える人類共同体ではなく、傷を共有する感覚であり、だからこそ鎮魂が必要なのではないかと思う。