第1031回 人生の切り替えの時

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 10年以上、1000回以上書き続けてきたHatena Diaryのブログが、まもなく終了し、Hatena Blogという新方式になるという通達があった。そのため、こらまで書き続けてきたブログの文章を移行した。

 Hatena Diaryは、慣れてはいたものの、様々な SNSが登場し使い勝手がよくなっているのに比べ、扱いにくい感じはしていた。でも、長文を描く場合は、それなりの心構えが必要だからと気にしないようにはしていた。

 でも、おそらく、その扱いにくさゆえに、ブログにわざわざ文章を書くという人は減り続けているのだろう。そうして、ブログに書かれていることも、SNSに書かれていることも、差がなくなっていくのだろう。

 それも時代の流れ。意固地になって抗っていてもしかたがない。

 方法は変わりつつも、本質的に変わらないように、ということが大事なのだろう。

 人生は、こうした切り替えの連続で成り立っている。

 新しい環境を、どのように前向きに捉えていくか。ネガティブな感情に引きずられてしまうと、たちまち、負のスパイラルに陥ってしまう。

 自分に言い聞かせるわけではないが、たとえ悲しい出来事であってもその変化を受け止め、自分の置かれた状況を理解すること。

 そして、なんとかなる、なるようになると、どこかで開きなおって変化を受け止めること。

 昔からそういうスタンスでやってきて、そのため、ドロップアウトも繰り返してきた。以前の自分とまったく違うこと、違う状況の中にいて、久しぶりに会う人に、その切り替えの大きさに戸惑われることもある。一貫性がないと言われてしまえばそれまでだが、自分の中では本質的に変わらず、いくつかの人生のパターンを経験させてもらっている、という風に受け止めている。

 悲しすぎる出来事も、きっと運命が自分を耕してくれているのだと信じていたい。

 色々と複雑で心苦しいことが重なって、そのまま落ち込んでいくのではなく、発想を変えて、その状況だからできることを、とりあえずやっていると、そのとりあえずの中から、新しい種が生じて、それが今までと違う形で育っていくことがある。その成長の方向に、自分の人生を合わせていくために、シフトチェンジ。

 という流れからなのかどうかわからないが、京都の東山に暮らし始めて4年半、東山は気に入っていた場所だけれど、あることをきっかけに別の場所に住もうと決意して、新しい居場所を探し始めて一ヶ月も経たないうちに、京都の西、松尾大社と嵐山のあいだに新しい居場所を見つけた。

 桂川の流れと、北にそびえる愛宕山から比叡山にかけての山並みが印象的だ。

 これまで長く生きてきて、始めて認識したことだけれど、同じ市内の西と東で、朝の始まりが大きく違う。

 東山は、東に山がそびえているので、朝日を見ることができない。そして朝は暗い。整理感覚として、朝の始まりが遅くて、いつも8時に起きていた。

 6時とか5時に起きていると友人が話すのを聞いても、そんなに暗いうちから活動しているのだとしか思わなかった。

 しかし、京都の西は、朝がものすごく早い。そして、朝日と朝焼けが素晴らしい。だから自ずから早起きになる。荘厳なまでの朝日を見たいという感情の力の方が、ベッドでグズグズしていたいという気持ちを凌駕するからだ。そうすると、夜も早く床につくことになる。

 1時に寝て8時に起きるという生活を20年以上続けていたが、そういうライフサイクルも変わっていくだろう。

 そして、京都の西に居場所を見つけて、昔、話だけ聞いてわかったつもりになっていた白川静さんの桂川周辺の早朝散歩のことが、15年も経って初めて実感として少しわかるようになった。

 2003年の春先、京都の桂に住む白川さんを訪ねたことがあった。ちょうど「風の旅人」において白川さんの連載が始まった頃で、当時、白川さんは93歳だったが、とても元気だった。その秘訣は、毎朝、5時に起きて、桂離宮桂川周辺を1時間ほど散歩すること。その後、朝食をとって昼まで仕事に集中する。そして、1時間ほど昼寝。2時頃に起きて、人と会うのは、昼寝後、頭が少しボンヤリしている2時から2時半。その後、再び仕事に集中して、夕方、目が疲れたら終わり。夕飯を食べて、ニュースを主に1時間くらいテレビを見て、早めに床に就く。そういう生活を何十年も続けていた。
 たとえば大きな賞を受賞するなど、どうしても東京に行かなければいけない時も、東京に泊まらず、用事をすませたらすぐに京都に戻ってくると聞いた。私が連載をしていただいたのは、風の旅人の創刊号から15号まで、白川さんが93歳の時の4月号から95歳の8月号までだった。白川さんは、その翌年、亡くなられたが、96歳の最期まで生涯現役だった。
 白川さんは、学会では異端で、甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちに於いて、宗教的、呪術的なものが背景にあったと直感し、考察を深められたが、実証が難しいということで、実証主義者中心の学会からは批判され続けている。
 さらに、万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しての論考もされているが、同じく実証主義の専門家の支持を受けていない。
 私が聞いたところによると、白川さんは、最初、万葉集の研究をしたかった。しかし、万葉集を研究するということは漢字を研究せざるを得ず、そうして漢字の深遠へと探求を深めていった。そして、甲骨文字などに直に接しているうちに、古代文字の中に宿る言霊を感受せざるを得ず、そこから、甲骨文字や万葉集の中にも流れている呪術性に対して霊感が開かれていった。
 そういう探求の道を深めず、たとえば万葉集という文学枠の中で専門的研究を行っている実証主義者が、そこに呪術性を読み取れないからといって、白川さんの研究を評価しないというナンセンスな状況。それは、自分の理解力、想像力、洞察力を超えた人間を認めないという今日のアカデミズムの頑迷さと陳腐さとなっている。だから、とりわけ文系の学問では人々を魅了する力が完全に失われている。アカデミズムに限らず、各種表現分野においても、同じような傾向はある。客観的分析、海外などでの流行の先取りに一生懸命の評論家に、表現者が現場で感受している霊性は伝わらない。
 それはともかく、白川さんの霊性は、毎朝、朝日とともに起きて、桂川の周辺を朝日を浴びながら歩き続けるという生活を何十年と繰り返していたことによっても育まれていたのかもしれない。
 96歳で亡くなる直前まで現役で、それまで誰も成し遂げていなかった金文(青銅器文字)解読の大仕事を終えた瞬間、内臓疾患(多臓器不全)により逝去。
 近代化以前は、健康な人が死ぬというのは、そのように、ある日、突然、去っていくという風だったのだろう。