第1033回 古代と現代のシンクロニシティ

 

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(亀岡、御霊神社)

 最近、シンクロニシティが頻繁に起こる。シンクロが起きる時は、自分が行なっていることが正しい方向に向かっている証拠と、以前、誰かから聞いた記憶があるが、今、起こっているシンクロは、少し薄気味悪いくらいだ。

 ここ数年、日本の古代の聖地を訪れている。そして、それらの聖地が、どうやら太陽の軌跡と深く結びついているのではないかと感じるようになった。冬至夏至の日の太陽の日の出と日の入の方向を結んでいるライン。または、春分秋分の日の出と日の入の場所。古代人は間違いなく太陽観測を行なっていたと確信を持っているが、それだけでなく、縄文時代の聖地と、たとえば秦氏などの渡来人の聖地とのあいだで、ライン上の関係が感じられるようなところもあり、どういうことなんだろうと気にし始めると、ラインに取憑かれたようになってしまった。

 そして、こうした古代探索の旅に、最近、若い文化人類学の研究者の友人を同行させるようになった。その友人が、つい先日、ハワイの大学に戻った時、知り合いのアメリカ人教授を通じて宇宙物理学者を紹介された。その宇宙物理学者は、NASAスペースシャトルがいかに地球への帰還時に安全に海へと着水するのか、といったことを計算する研究班にいたそうだが、西洋知は古代知に比べて何周も遅れているのになんと傲慢なことだろうかと何らかの機会に感じたようで、退官後は天文考古学の分野に入り込み、古代ハワイ人の宇宙観や、日本の縄文時代の暦の研究をするようになったらしい。

 そして、東芝国際財団のJapan Insight部門の研究員として岐阜県金山の縄文遺跡の調査もしたらしい。

 岐阜県の金山は、私も昨年訪れたが、いくつもの巨石が配置された古代の天文台みたいなところで、春分秋分冬至夏至などの時に、巨石の隙間などに太陽光線が入り込むように設計されている。

 その宇宙物理学者は、古代人は間違いなく宇宙観測を行なっていたと確信をもっていて、近畿の大五芒星の地図(伊勢神宮熊野大社伊弉諾神宮、丹後の皇大神社伊吹山を結ぶラインが正五角形になる)を持ち歩いているそうだ。

 驚いたのは、私と、若い友人のあいだで、最近ずっと、この不思議なラインのことを語り合っていたのだけど、その彼が、初対面のアメリカの宇宙物理学者から、同じような内容の話を聞かされた。しかも、この直前にも、私と一緒に亀岡や近江など、古代のラインに関係する場所を訪れたばかりだった。奇遇といえば奇遇だけれど、日本とアメリカ、そして古代までつながるという時空を超えたスケールの奇遇も珍しい。

 実は、今週の月曜日、私が企画した対談に東京から来てもらった映画監督の小栗康平さんと写真家の鬼海弘雄さんを、亀岡に案内した。

 私は、亀岡を何度も訪れているが、最近、亀岡の佐伯地区で大規模な都市遺跡と寺院遺跡が発見されたと知り、その現場を見たくなったのだ。

 その場所は、『古事記』の編纂者の1人稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)の生誕の地とされる稗田野神社の近くで、佐伯郷と呼ばれるところだ。古代、このあたりは隼人の居住地で、近くを犬飼川が流れ、桂川へと接続し、その下流が京都の嵐山で、さらに石清水八幡宮のところで巨鯨池に至り、そこから宇治川経由で琵琶湖、木津川経由で大和、淀川経由で河内へとつながるという河川ネットワークの要の地だ。

 太陽のラインで言えば、春分秋分の太陽の日の出の日の入の東西のライン上で、嵐山の天龍寺太秦蚕の社平安神宮永観堂、近江の三井寺を結んでいる。平安神宮を除いて、隼人や秦氏が絡んでいる。

 稗田神社の本殿の背後の鎮守の杜は、3000年も前から食物の神、野山の神を祀った場所とされているが、稗田神社の位置は、このラインの少し上だった。そして、この佐伯の古代遺跡が、ちょうどライン上なのだ。

 しかし、私たちが訪れた時、残念なことに、遺跡は発掘調査の後に埋め戻されていて、また別のところで発掘調査が継続中ということだった。この遺跡は、かなり規模の大きなものらしい。

 派出所などで確認しながら訪れたところで遺跡を見られず、少し落胆したが、周りの地理的状況を確認して自分を納得させて車を走り出したところ、すぐそばにこんもりとした杜があったので停止したら、鳥居が見えた。確認すると、御霊神社だった。

 この御霊神社は、稗田野神社と並び「上ノ社」「下の社」と呼ばれており、奇祭「佐伯灯篭祭」(*中世、女性から男性に仕掛ける夜這いで知られていた。)を行う佐伯郷4社の1社。巨木が鬱蒼と茂り、聖域にふさわしい境内となっている。境内のムクノキは亀岡の名木の中で単木としては最大で、京都府下でも最大級の巨木とのこと。

 この御霊神社も、蚕の社を軸とした東西のライン上にあったのだ。

 ただ一つ分からないのが、京都の御霊神社の場合、早良親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に巻き込まれて陰謀によって非業の死を遂げた人の怨霊を鎮め、祀るものだが、亀岡の御霊神社は、吉備津彦を祀っていた。

 吉備津彦は、第10代崇神天皇の時の四道将軍の一人だ。四道将軍とは、ヤマト王権に従わない各地の豪族に対し、北陸、東海、西道、丹波に派遣された将軍のことで、吉備津彦は、吉備(兵庫西部、岡山)に派遣されたのであって、亀岡に派遣されたのは丹波道主だ。丹波道主の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が第11代垂仁天皇に嫁ぎ、景行天皇を産み、その息子がヤマトタケルとなる。

 なぜ、吉備津彦が亀岡の御霊神社に祀られているのか、今のところわからない。

 それはともかく、佐伯遺跡において出土した瓦は大量で、軒丸瓦や丸瓦など4種類だった。綾部市の綾中廃寺と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられ、寺院を区画する柱塀の痕跡もあった。

 約100メートル離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。これだけの規模の都市遺跡は、地域の拠点だったことは間違いない。

 そういえば、この日の朝、小栗さんと鬼海さんを朝の散歩に誘い、嵐山の渡月橋から嵯峨野を歩いた。 

 亀岡の佐伯遺跡と、東西のラインで結ばれる天龍寺で、小栗さんが、門番の人に色々と尋ねていた。今でも天龍寺は巨大な敷地を誇るが、かつては今の十倍の広さがあったらしい。天龍寺は、足利尊氏の時代に作られたが、もともとは、平安時代の初期、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子によって創建された日本最初の禅寺だった。

 橘氏は、もともとは県犬養氏で、壬申の乱の際に大海人皇子を支えて勝利に導き、その恩賞で橘という姓を賜った。県犬養氏は、隼人と考えられる。

 そして、亀岡の佐伯遺跡のそばを流れるのも犬飼川であり、ここも隼人の居住地だ。

 現在、この目で見ることのできる過去の足跡の何倍もの規模のものが、地面の下に眠っていて、ネットワークを結んでいる。

 そこにアクセスするためには、意識的な行動だけでは難しい。シンクロニシティという意識を超えた力が、偶然のように見えて実は必然の因果で、導いてくれるような気がする。