

即成院には、1094年に造られたという阿弥陀如来と二十五の菩薩像がある。それらの仏様を背後に語られた源氏物語の『朝顔』の帖は、とても素晴らしかった。ちょうど私の前に、宗教学者の山折哲雄さんが座っておられ、昨年、私が企画した源氏物語のイベントで講演をお願いしたことがあったのでご挨拶をしたところ、これぞ『源氏物語』の真髄、という印象を持たれたようだった。
「もののあはれ」とはなんぞということが、この『朝顔の帖には凝縮している。
そして、現代文や原文よりも山下智子が語る京ことばの方が、もののあはれと幽玄を伝えるうえで、より言霊の力をもっているということが実感された。
そして、源氏物語は、その言霊をより強く感応するため、耳で聴くために書かれたということもわかる。
老いてなお性に奔放な源典侍と、美しく高貴で教養も豊かだが男性には奥手の朝顔の姫君を対比させながら、これまで光源氏と関わった多くの女性達のことが源氏の口から語られ、それらの女性の素晴らしいところを描き出すほどに、今は亡き藤壺の素晴らしさが、よりいっそう鮮明になる。
しかし、その素晴らしさは、雪のつもる月夜の庭という現実離れした時空の中、藤壺の霊魂を登場させるという設定によって、夢の中の夢のように、よりいっそう現実の彼方の出来事のように感じられるが、それだからいっそう、切なく、胸に迫るものがある。
この物語の後、光源氏は、雪のつもる月夜の庭という幽玄の世界から、現実世界の栄華を極めた豪華絢爛な世界を築いていくことになるが、この朝顔の帖で、すでに魂は彼岸に向いてしまっているということが伝わってくる。
そして、その後、光源氏は、月明かりに照らされた雪の中に溶け消えていくようにフェードアウトして、彼を主人公とする『源氏物語』から下りてしまうのだ。
源氏物語は、単なるモテ男の女性遍歴などではない。女性遍歴を含め、宮廷生活の彩り豊かな華やいだ世界は、もののあはれや幽玄の世界を、より深く味わい尽くすための仕掛けのようなもの。永遠は、極楽浄土は、時を超える真理は、魂の陰影の深さの中にこそ潜んでいる。
源氏物語も、平安の時代に掘られた仏も、そのことを、魂の染み入るような深さで伝えてくる。
一千年も前の文化に比べて、最先端だと気取っている今日の文化は、魂の深さ、世界を洞察する力で計ると、あまりにも浅く、薄っぺらく、周回遅れのランナーのように思えてならない。