第1030回 脆弱な世界だからこそ感じられる生の本質

 台風と地震が連続して起こり、空港閉鎖とか、停電の長期化というニュースが伝えられるけれど、携帯が使えなくなるとスマホ決済ができなくて買い物ができないとか、ネットによる救援活動の輪の広がりとか、これまでの自然災害と違う状況が起きているなあと実感する。
 6月下旬、中国の四川省の東北部や南部で大雨が続き、大洪水が起こった時は、仮想通貨のマイニングファームが浸水の被害に遭い、稼働停止を余儀なくされたという。マイニングでは非常に複雑な演算を処理するため、莫大な電力を消費する。
 米Morgan Stanleyのアナリストはこの四川省での洪水が世界のマイニング活動の8〜10%に影響を与えたとし、「中国のマイナーは世界のビットコインやその他主要仮想通貨の50〜70%を生成していることを考えると、今回の件でマイニング業界の脆弱性が露呈しただろう」と、中国にマイニング産業が集中する危うさを指摘した。
 
 昨日の夜、テレビのスイッチをつけると、メディアアーティストの落合陽一さんが、デジタルネイチャーというコンセプトを述べていた。
 すべての社会現象の背後に、コンピューターによる計算と、それによって作り出される仕組みがあり、それがどういうものかを意識することなく人間が生きるようになると、人間の自我もまた希薄化し、物質と非物質、見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないもの、人間とそれ以外などの分別も消えていく自由な感覚世界になっていくと。
 つまりコンピューターが作り出すヴァーチャルな世界とそうでない世界との区別をつけることが無意味になってしまった世界が到来し、人間の意識も次のステージに入っていく。
 こうした変化は、かつて植物の光合成の力によって大気中に多くの酸素が供給され、そのことによって、生命体にとって毒素であった酸素を生きるために必要なものにする生物が生まれて増えていったが、現在、進行中のデジタルネイチャーもまた、同じような生態系の変化につながっているという。
 生態系全体まで広げて考えることはどうかとは思うが、現在、生態系の頂点に立っている人間の意識がどう変わるかによって人間以外の生態系への影響も大であることは確か。そうした人間社会に生まれた仮想通貨も、これまでの紙幣に変わるという程度の影響力ではなく、これまで国が管理していた通貨というものに対する根拠のない信頼が無意味化されてしまう、それはつまり、中央集権的な力による洗脳で、根拠のない信頼を作り上げていたにすぎないという事実が明らかになる事件ではあると思う。
 このたびの大停電によって、デジタル化社会の脆弱性が鮮明になった。
 しかし、デジタル化社会の方がそれ以前の仕組みより不安定かどうか、という議論は意味がなくて、どちらであれ確固たるものは存在しない、ということを、より明確に認識できるのはどっちかという風に考えた方がいいと思う。
  話はまったく変わるけれど、数日前、ブラジルの国立博物館が火災で焼け落ちて、2000万点に上る所蔵品のほとんどが焼失した。老朽化による漏電が火災の原因とされ、建物の予算をけちった政府の責任だという非難が高まっている。
 しかし、その非難は、大切なものを一箇所に集めるだけ集めて、一つの機関でそれを正しく管理しなければならないという発想の延長であり、この発想が変わらなければ、他の原因で、一箇所に集めた全てが失われる可能性は残り続ける。
 それと同じことで、中央集権的管理による従来の貨幣制度が安定、という幻想を捨てなければならない。(年金制度も同じ)。
 この地上の現象は、どんなものでも脆弱で、微妙なバランスの上に成り立っており、そのことを意識しながら敏感に生きていくか、そのことを考えないように洗脳されて、虚構の安心の中で鈍感に生きていくかの違いにすぎない。そして、虚構の安心の中の鈍感に慣らされてしまうと、何か起きた時に、パニックになる可能性が高くなる。
 しかし、中央集権的システムは、長年、既存の制度は安定して安全ですよと人々を洗脳してきて、洗脳された人々の盲信がシステムの安定に寄与するという構造でもあったので、今さら、安全ではないとは言えない。今の制度に対する信頼がなくなったら、社会不安になることは間違いない。だから人々は不安の中でも安心を切望し、政府は安心を力説する。その相互作用の中で、偏狭で排他的な安心イデオロギーができてしまう。自分の安心さえ確保できれば他は関係ないという。とくに日本社会は、お金を落とす海外旅行客には寛容でも、難民や移民の受け入れは先進国の中で際立って少ない。
 どうも現在の日本人は、「安心でなければ幸福ではない」というイデオロギーに染まっている。
 本当は、システムの脆弱さを意識せざるを得ない環境の中で生きる方が、気遣いや寛容など、人間の心の受容度が大きくなり、人間関係を軸にした社会全体の幸福観は増すかもしれないのに。
(もちろん、脆弱性への耐性が鍛えられていないと、自分の不安をコントロールできずに攻撃的になったり、排他的になったりするだろうが)
 それでも敢えて言うならば、多くの受け継がれてきた文化は、世界の脆弱さへの認識がベースになっているはずで、文化力によって、脆弱性への耐性が養われていた。 
 日本文化は、その典型で、例えば「もののあはれ」という美意識は、何一つ安定的に固定していない世界という認識と、そうした世界の受容が前提になっている。
 そうした文化本来の力は、堅牢たる組織構造に守られた学術研究の積み重ねだけでは、想像力が届かず、読み解くことができなくなる。
 森は雨の恵みを必要とするが、森の中に生息するキノコなどの微生物が、風に乗りやすい構造を持って空中高く舞い上がり、「バイオエアロゾル」となり、周りの水蒸気を集める雨の芯となって雨を降らすメカニズムに貢献している可能性があるらしい。
 自らに必要なものを得るための仕組みづくりに自らが深く関わるということを、生物のもっとも原初の形であるキノコなどが行っている。
 人間だけが、自分以外の何かによって生を管理され保護されて安心するというわけにはいかないだろう。