第1043回 日本の古層〜相対するものを調和させる歴史文化〜(1)

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梅宮大社

 天気の良い暖かな日が続くので、桂川の東岸にある梅宮大社に梅を見に行く。この神社は、同じ松尾エリアの松尾大社ほど有名ではないが、立派な名神大社だ。

 かつては桂川のすぐ近くまで広大な神域を誇り、川をはさんで西の松尾大社と並び立っていたのではないだろうか。

 この神社の創建は、橘嘉智子。私のなかで、”もののあはれ源流”の要に位置する重要な人物だ。

 彼女は、桓武天皇の次男である第52代嵯峨天皇の皇后で、日本最古とされる禅寺の檀林寺を創建した。その場所は、現在、嵯峨嵐山天龍寺があるところで、周辺の竹林は、外国人観光客に大人気の写真スポットになっている。(嵯峨野には、現在、檀林寺という同じ名がついたところがあるが、あれは、まったく別もの)。

 京都の松尾と嵐山の桂川のほとりに二つの社寺を創建した橘嘉智子は、絶世の美女だったが、諸行無常の真理を自らの身をもって示すため、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示し、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。

 彼女は、平安前期、真の意味で、禅の精神を唯一理解する日本人だったと言われ、禅を学び、日本に広めるため、中国から義空禅師を招いた。

 中世において上流階級に重んじられて発達した禅は、”わび”や”さび”という趣とつながり、茶道や俳諧などの日本特有の文化を育んでいったが、もともとは、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れることを目指す修行だった。

 橘嘉智子が、なぜ、桂川にそって松尾と嵐山に二つの社寺を築いたのか。

 もともと梅宮大社は、藤原不比等の妻、県犬養三千代が、現在の京田辺の井出町、木津川のそばに創建したものだった。そのすぐ西には甘南備山があり、その山頂が、月読神の降臨した場所とされ、甘南備山の南の大住(鹿児島の大隅半島おおすみ)にある月読神社が、隼人舞発祥の地である。すなわち、このあたりは、隼人の居住地域だった。

 県犬養氏は、壬申の乱において、天武天皇が吉野で挙兵した時から付き従い、その活躍によって橘という氏姓を賜った。すなわち、橘嘉智子は、県犬養氏の末裔だ。そして隼人は、悪霊を鎮める呪声の犬吠を発するなど、”犬”との関係が深く、さらに犬養三千代が梅宮大社を築いた京田辺は隼人の居住地であったので、県犬養氏は、隼人そのものか、隼人と関係が深い氏族ではないかと思われる。

 それゆえ、橘嘉智子が、桂川沿いに二つの社寺を作った理由も、隼人と関係あるのではないだろうか。なぜなら、隼人の畿内の居住地は、京田辺、亀岡、宇治田原町、奈良の五條、大津の石山寺など、木津川、吉野川宇治川桂川に沿ったところにあり、川によって奈良、京都、大阪、吉野を結び、瀬戸内海と琵琶湖(日本海に至る)や近畿の内陸部を自由に行き来できる海上交通の要所だったからだ。

 そして、檀林寺や梅宮大社下流桂川が木津川と宇治川に合流するところに、かつては巨椋池という大きな湖があった。現在、その地には石清水八幡宮が鎮座するが、もともとは、その対岸の大山崎にある離宮八幡宮石清水八幡宮の元社だった。さらに離宮八幡宮は、橘嘉智子の伴侶である嵯峨天皇離宮跡だった。

 離宮八幡の地は、それ以前は、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)があり、この神社は、現在、すぐそばの天王山の頂上近くに鎮座する。
 祭神は酒解神スサノオで、酒解神が、橘氏の先祖神であると言われている。
 「源氏物語」の登場人物や、源頼朝につながる源氏氏族は、嵯峨天皇が、奈良時代から続く血なまぐさい後継者争いで肉親が殺しあわないように、自分の皇子・皇女を臣籍降下させて源氏を名乗らせたことに始まる

 源氏と八幡は関係が深い。源氏が東国において勢力を拡大させたのは八幡太郎の通称で知られる源義家の活躍によるものだが、彼は、石清水八幡宮元服し、それ以来、八幡は源氏の氏神とされ、源頼朝が、鎌倉に鶴岡八幡宮を創建するなど、武士の時代となってからは、八幡神社は全国に広がり、神社の数では一番多いものとなった。

 八幡神が全国的なものになる起点は、859年、清和天皇が、神託により国家安泰のため、そして平安京の守護神とするため、九州の宇佐神宮から八幡神を分霊し大山崎嵯峨天皇離宮の跡地に勧請したことに始まる。

 八幡神社は、祭神として応神天皇神功皇后が祀られているが、この2人の神話は、戦いを通じて日本国家を統一していった立役者として描かれている。なので、勝利の神として、武士や商売人に支持されたことは理解できる。

 しかし、一つ、わからないことがある。

 離宮八幡宮のある大山崎は、今でもサントリー山崎の工場があるように、酒作りと関係が深く、離宮八幡宮には酒解神が祀られている。しかし、後からその対岸に作られた石清水八幡には、酒解神は祀られていない。

 そして、大山崎から桂川を遡っていくと京都の松尾で、その東岸の梅宮大社には酒解神が祀られているが、西岸の松尾大社には祀られていない。にもかかわらず、松尾大社は、全国の酒造家の聖地なのだ。松尾大社では、祭神のオオヤマクイが酒の神ということになっているが、同じ神を祀る比叡山の麓の日吉大社が、酒と関係あるわけではない。

 これはいったいどういうことだろうか?

 酒解神というのは、オオヤマツミという国津神のことで、天孫降臨のニニギに嫁いだコノハナサクヤヒメの父だ。

 そして、コノハナサクヤヒメは、隼人の祖先とされる海幸彦を産んだ。

 なぜ松尾大社が酒の聖地になったのかは謎だが、気になるのは、松尾大社の奥に、月読神社があることだ。

 上に述べたように、梅宮大社がもともとあった京田辺の井出は、隼人の居住地で、月読神が降臨した甘南備山がすぐそばにある。

 甘南備山の真北が、平安京の真中の朱雀通りで、平安京を建設する時、この山が一つの軸になったとされる。

 そして、隼人のルーツ、鹿児島の桜島にある月読神社は、和銅年間(708〜715年)に創設されたと伝わる由緒ある神社だが、ここに、コノハナサクヤヒメ解子神(サケトケノコカミ)」が祀られている。どうやら、月読神と、酒の神と、隼人が結びついているのだ。

 そして、京都の松尾大社の創建は701年だが、その奥の月読神社は、日本書紀によれば487年で、こちらの方が古い。

 なので、松尾から嵐山にかけての一帯は、もともと月読神と関わりが深く、隼人にとっても大切な場所だった可能性がある。(嵐山から保津川渓谷を抜けた亀岡で、桂川の支流の犬飼川のほとりの佐伯郷が隼人の居住地だった記録は残っているし、亀岡には、名神大社の小川月神社など月読神を祀る神社が多い)。

 橘嘉智子橘氏は、奈良時代は、犬養三千代の子供である橘諸兄などの活躍で天皇の側近として実権を握っていたが、その後、藤原氏との政争に敗れて、存在感を失っていった。

 さらに橘嘉智子の時代は、血みどろの権力争いが続き、そのため、嘉智子の伴侶の嵯峨天皇が、自分の子供達が権力争いに利用されないように臣籍降下させる措置を行うほどだった。

 橘嘉智子は、そういう時代を生き、さらに橘氏の栄枯盛衰を身にしみて感じ、そのうえ、九州に残っている隼人が、奈良や京都の政権が中央集権化を急激に進めることに反発し、その鎮圧のための戦いが繰りかえされる状況でもあった。 

 橘氏は犬養氏であり、犬養氏が隼人だったとすると、橘嘉智子が、諸行無常を悟り、禅に傾倒し、桂川沿いの松尾に梅宮大社、嵐山に檀林寺を築いたのは、十分に理解できる。

 ここで考えなければならないのは、権力を獲得する側と、権力を譲る側の関係だ。

 国津神酒解神であるオオヤマツミは、自分の娘のコノハナサクヤヒメを天孫降臨のニニギに嫁がせた。この2人の子供が、山幸彦と海幸彦で、山幸彦は、神武天皇から続く天皇家につながる祖先であり、海幸彦は隼人の祖先で、隼人は、朝廷の守り人となる。

 日本の歴史は、勝者が全てを奪い取って、敗者を全滅させる歴史ではない。

 この二つは重なり合っており、それが日本特有の権威システムを作り上げた。中国は、権威ではなく権力で国を修めたので、権力者が変われば全てが入れ替わる。しかし、日本特有の権威システム(天皇制)は、権力の実権が誰にあるかに関係なく、システムとして連綿と連なる。

 そのシステムは、敗者とされる側が、陰の力としてシステムに組み込まれていることに特徴があり、だから、日本の歴史や文化は、征服と被征服、勝者と敗者の二元論で捉えようとすると、理解できないことが多くなる。

 相対する二つのものの調和こそが、日本の歴史と文化を解く鍵なのだ。

 隼人というのは、蝦夷とともに、朝廷に対して、たびたび反乱をした人たちと教科書では教えられているが、隼人の歴史的な位置づけは、それほど単純ではない。

 隼人舞は日本の伝統芸能のルーツの一つであり、隼人舞は、やがて猿楽となり、さらに能楽へと発展したとも言われる。

 たとえ政治的に表舞台から姿を消したとしても、隼人舞や、橘嘉智子が身をもって実践した諸行無常の精神が、”もののあはれ”という日本文化の底流となっている。

 日本は海に囲まれた島国であり、その狭い国土は、毛細血管のように河川ネットワークが張り巡らされている。隼人のように海や川を自由に行き来できた人々だからこそ、日本の風土を知り尽くし、それに見合った人生観や世界観を生み出し、そこから固有の文化が育っていった。

 歴史的には敗者かもしれないが、もしかしたら、その敗者の美学が、この国の文化の主流になっているのかもしれない。

 ”もののあはれ”とは、勝者の驕りから生まれる美意識ではないのだから。

  ちなみに、鹿児島の桜島にある月読神社は、コノハナサクヤヒメを祀っていると上に記したが、この神社を起点に、夏至の時に太陽が昇る場所の線を引いていくと、日向の吾平山上陵=ウガヤフキアエズ神武天皇の父)の陵と、伊勢の月夜見宮、さらには、富士山と結ばれる。

 コノハナサクヤヒメは、富士山を御神体としている富士山本宮浅間大社と、配下の日本国内約1,300社の浅間神社に祀られており、富士山とコノハナサクヤヒメの関係を説明するものは多々あるが、どれも、説得力が弱い。

 ウガツフキアエズは、山幸彦と、海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫の子であり、育ての母が、豊玉姫の妹の玉依姫だから、あきらかに、海人との関係が考えられる。そして、富士山と桜島のあいだの伊勢には、月夜見宮と月讀神社があり、月読神が祀られている。

 桜島から富士山を結ぶ夏至の時の日の出のラインは、松尾大社下鴨神社比叡山、九州の阿蘇神社や、長野の諏訪大社を結ぶラインと平行である。

 この二つのラインは、相対する二つのものの調和が関係しているように思われてならないのだが、その真相は、私にはまだわからない。

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上のラインは左から阿蘇神社、松尾大社(月読神社)、下鴨神社比叡山諏訪大社。下のラインは、左から桜島の月読神社(コノハナサクヤヒメも祭神)、伊勢の月夜見神社、富士山(富士山本宮浅間大社の祭神が、コノハナサクヤヒメ)。