第1045回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(3)

 

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京都の南、宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台で、平安時代、貴族の別荘が営まれていた。宇治平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる源融の別荘だったものが宇多天皇に渡り、その後、紫式部が仕えた藤原道長の別荘「宇治殿」となった後、道長の子の藤原頼通が、宇治殿を寺院に改めた。開山は小野道風の孫、明尊である。

 第一回目の記事で、橘嘉智子や隼人と梅宮大社のことに触れながら、”もののあはれ源流”についての私の洞察を書いたけれど、その続きとして、『源氏物語』の著者である紫式部にくわえ、”小野氏”との関係についても考えたみたい。

 紫式部は、大津の石山寺において、『源氏物語』の執筆を、「須磨」と「明石」の帖から書き始めたと、長い間、伝えられてきた。近年になって、そうではなかったのではないかと異論を唱える研究者も出てきたようだが、その真偽の証拠探しはともかく、長いあいだ、そう伝えられきたことに意味があると思う。

 石山寺は、琵琶湖から大阪湾へと流れる、瀬田川宇治川、淀川(場所によって名が異なる)の出入り口に位置し、巨大な磐座の上に寺院が建造されており、仏教伝来以前からの聖地だった。そして、このあたりは、かつて海人(隼人)の居住地だった。

 そして、源氏物語の中でも描かれている須磨や明石も、海人の活躍する場所だった。

 源氏物語の主人公、光源氏は、住吉の神に救われるが、住吉三神は、現在も、航海安全の神として信仰を集めている。

 源氏物語と、海人の関係を、無視することはできない。

  話は少し脇にそれるが、紫式部の墓が、京都の西陣堀川通沿いに小野篁の墓と並んでいる。

 この2人は、生きた時代が150年ほどずれているのに、なぜ墓が並んでいるのか、明確な理由はわかっていない。男女の秘め事を書いた紫式部が死んで地獄に落ちないように、閻魔大王に仕えていた伝説のある小野篁に守ってもらうためという俗説があるが、彼女が生きたのは恋愛にオープンな時代であり、そんな陳腐な理由でないことは明らかだ。

 小野氏というのは、ルーツが和邇氏であり、海人の末裔だ。そして、古墳時代から、生と死のあいだの祭祀を司ってきた。

 古代、大王が亡くなった時、土師氏(菅原道眞の氏族)が古墳を作り、多治比氏(菅原道眞の祟りを言い出し北野天満宮に祀られている多治比文子の氏族)が石棺を作り、祭礼を取り仕切ったのが小野氏だとされる。さらに平安時代の文献から、小野氏は、その領地内に猿女氏を取り込んでおり、小野氏から猿女を出していたという記録もある。

 猿女というのは、 アメノウズメを始祖とし、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。古事記の作者、稗田阿礼もその一族だ。

 さらに、天皇に関する歌や、挽歌で知られる飛鳥時代歌人柿本人麻呂も、和邇氏の末裔で小野氏と同族である。

 古事記』を読めばすぐにわかるが、天皇以外で登場するのは、圧倒的に和邇氏が多い。天皇と恋愛する女性の情感溢れる物語は、ほとんどが和邇氏の娘である。しかも、河川の近くが舞台になっていることが多い。

 和邇氏の娘が天皇に嫁ぐということは、和邇氏が、次に生まれる天皇の実家ということになる。天皇の系譜として表には出ていなくても、天皇のなかには、和邇氏の血が流れ込んでいる。

 話を『源氏物語』に戻すと、源氏物語の主人公は、もちろん光源氏であるが、54帖もある長編の源氏物語の読破した人は、日本人でも少なく、光源氏が、第41帖の『雲隠』で、物語から姿を消してしまうということを知らない人は多い。

 光源氏が姿を消してからの主人公こそ、明石一族であり、光源氏の栄華は、明石一族の栄華を描くための布石となっている。

 住吉神を崇敬する明石入道は、神の導きによって光源氏と出会い、娘を光源氏に嫁がせる。そして、光源氏とのあいだにできた明石の姫が皇后となり、大勢の子供達を産む。その後の天皇に明石一族の血がつながっていくことになるが、この展開は、和邇氏(小野氏)の史実と重なってくる。

 さらにいくつか、紫式部と小野氏がつながる事実がある。

 京都は風水で守られた都だが、その四つの門、鬼門(東北)、風門(東南)、人門(西南)、天門(北西)において、鬼門、天門、風門のところが、小野氏の拠点の小野郷となっている。

 北東は比叡山の麓の八瀬の小野郷。ここは天皇が亡くなった時に棺を運んでいた八瀬童子で有名だが、八瀬の崇道神社に小野妹子の息子の小野蝦夷の墓がある。南東が、醍醐寺のそば、随心院のある小野郷で、小野町子や小野篁が生まれ育った場所。そして、西北が、京北と神護寺のあいだの小野郷で、源氏物語の中で、光源氏の息子である夕霧にしつこく婚姻を迫られる落葉の姫が隠棲するところだ。

 そして残りの一つ、西南の人門は、紫式部氏神である大原野神社がある。ここは、小野郷ではなく、春日という地。春日というのは、奈良の若草山のあたりの地名で、和邇氏の拠点がこのあたりだった。また春日氏というのは、小野氏や柿本氏と同じ和邇氏の末裔である。

 このように見ていくと、京都の四隅の門を、和邇氏の血が守っているということになり、その一角が、紫式部が大切にしていた大原野なのだ。

 さらに、紫式部と小野氏の関係を示すもう一つの事実。それは、紫式部のルーツが、京都の風門(東南)の”小野郷”にあること。

 紫式部の父親である藤原為時の母親は、藤原定方の娘である。藤原定方の墓は、京都東南の小野郷、山科川の近くにある。

 藤原定方は、この地の豪族、宮道弥益(みやじいやます)の娘、宮道列子藤原高藤のあいだに生まれた。つまり、紫式部のルーツは、山科の”小野郷”の豪族、宮道氏である。

 現在、宮道氏の館跡に宮道神社があるが、小野町子が住んでいたとされる随心院と、山科川をはさんで存在している。宮道氏が、小野氏と、どういう関係だったかはわからない。宮道氏はヤマトタケルの末裔と称しているが、ヤマトタケルゆかりの地は製鉄と関係が深い。もしかしたら、小野氏のもとで活躍していた製鉄関係者だったかもしれない。

 宮道氏の館の敷地の大半は、現在、勧修寺になっている。観修寺の創建者は第60代醍醐天皇であり、醍醐天皇の墓は、山科川対岸の小野郷にある。醍醐天皇の墓の東に、小野寺という小野氏氏寺の遺蹟が見つかっており、醍醐天皇と小野氏の関係が気になる。

 さらに、なぜ醍醐天皇が宮道氏の館を観修寺にしたかというと、醍醐天皇もまた、宮道氏の血縁者だからだ。紫式部のルーツにあたる藤原定方を産んだ宮道列子は、藤原高藤とのあいだに藤原 胤子(たねこ)という娘も産んだ。この 胤子が、その当時、臣籍降下して源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて産まれたのが醍醐天皇だった。醍醐天皇は、源氏の身分で産まれて天皇になった唯一の天皇である。

 つまり、紫式部と第60代醍醐天皇は、宮道列子宮道弥益という共通の祖先を持つ。

 宮道氏の館のすぐそばの山科川は、宇治川と合流しているので、琵琶湖、大阪湾への海上交通の要所でもあった。

 紫式部は、光源氏の父親、桐壺帝を、理想的帝王として描写しているが、それは、聖代とされる醍醐天皇の時代がモデルとされる。

 紫式部は、子供の頃から行動をともにしていた父親の祖父の甥が醍醐天皇であることは、当然、知っていただろう。しかも、醍醐天皇が、源氏の身分で産まれながら天皇になり、天皇親政を実現し、後の時代に理想とされる治世を築いたことを。

 理想の天皇の子として産まれながら源氏の身分に臣籍降下した光源氏を華やかに描き、光源氏と、明石入道という海人と関わりがありそうな氏族の娘とのあいだに明石の姫が生まれ、その血を受け継ぐ天皇の時代の到来を示して、『源氏物語』は終わる。

 その展開は、日本という国の権威構造の作られ方が、暗示されているように思える。

実力者の権力で国を統一し、管理するのではなく、権力者が入れ替わろうとも、永久に人々に崇め続けられる権威的な仕組み。その仕組みは、一つの氏族によって伝えられるのではなく、異なる氏族が複雑に組み合わさって形成される。

 醍醐天皇の時代が理想とされたのは、その前後に時代は、藤原氏によって政治が牛耳られ、それに不満を持つ貴族が多かったからだ。たしかに、醍醐天皇の時代は、菅原道眞のように実力で出世する人物もいたが、9世紀後半から10世紀というのは、遣唐使の廃止や律令制の行き詰まりなど、大きな変化があり、大きな改革が必要があった時代でもあった。

 この変化は、当然ながら、醍醐天皇の時代に急激に起こったわけではない。

 醍醐天皇の祖父にあたる第58代光孝天皇は、第54代仁明天皇の第三子であったために、天皇になることを想定せずに、官職をつとめながら学問と和歌・和琴諸芸に励んでいたが、884年、55歳になって、急遽、天皇に即位させられた。

 そういう展開のなかで、自分の子孫に皇位を伝えない意向を表明し、息子の宇多天皇を含む全員を、源氏の身分に臣籍降下させたのだ。

 しかし、即位して3年で病に臥せり、次代の天皇が候補者が確定していなかったために、宇多天皇が、急遽、源氏の身分から親王に復し、立太子し、その日に光孝天皇崩御して宇多天皇が第59代天皇として即位(在位887〜897)するという、慌ただしい3年間があった。

 この3年に何があったのか?

 実は、光孝天皇が幼少の頃から寵愛を受けていたのが、(1)の記事で書いた橘嘉智子だった。橘氏というのは、県犬養氏のことで、もともとは、木津川や吉野川を拠点にしていた海人(隼人)だと思われる。

 そして、光孝天皇の息子、宇多天皇とのあいだに醍醐天皇を産み、皇太后となる藤原胤子は、宮道氏という山科川沿いの豪族の血をひく。

 さらに、宇多天皇を猶子(ゆうし)=養子のようなもの、として、天皇即位の強力な後ろ盾となったのが藤原淑子で、彼女の母は、難波氏だった。難波氏は、現在は大阪の地名であるが、もともとは、鉄の産地、備前に拠点をもっていた氏族(おそらく渡来系)だった。

 さらに宇多天皇の母親の班子女王(はんしじょおう)の母方は当宗氏であり、渡来系の東漢坂上の一族である。

 そして、宇多天皇は、即位してすぐ阿衡事件(あこうじけん)で、自分の参謀であった橘氏県犬養氏)の橘広相が、藤原基経によって失脚させられ、それを嘆き悲しみ、この事件の最中、光孝天皇の遺志を継ぐ形で、888年、仁和寺を創建した。

 仁和寺は、蚕ノ社と双ヶ岡という秦氏と関係のある聖域の真北に位置し、さらに北に位置する鴨川源流の雲ヶ畑(ここも秦氏の姓が多い)と一本のラインでつながっている。

 第58代光孝天皇から第60代醍醐天皇に至る時代、850年頃から950年頃の変化と改革の時代に背後に、難波氏、宮道氏、橘氏秦氏、当宗氏、小野氏といった海人や渡来系の人々の影響が見え隠れする。

 紫式部のルーツにあたる山科の小野郷、宮道氏の館があった場所の目の前に吉利倶八幡宮がある。

 伏見城の鬼門にあたることから豊臣秀吉に大切にされたらしいが、創建は、853年とされる。

 853年は、ちょうど、この地に生まれ育った小野篁が死んだ時だ。宮道弥益の生まれ年はわからないが、882年に従五位上となった記録があるので、彼もまた、ほぼ同じ時期を生きていた。

 先日、吉利倶八幡宮を訪れたが、八幡山(亀甲山)の中腹にあり、境内に、金山彦神という製鉄の神が、過去に祀られていた形跡があることに気づいた。

 この紫式部のルーツとなる宮道氏の拠点は、紫式部源氏物語を書き始めたとされる大津の石山寺と、紫式部氏神である大原野神社と、東西につながる一本のライン上にある。さらに、宮道氏の館の真南が、源氏物語「宇治10帖」の舞台で、真北が、平安京の鬼門(東北)の小野郷の八瀬。

 平安京大極殿、その鬼門の八瀬と、人門の大原野神社のラインと、石山寺と宇治は平行だから、宇治にとって石山寺は鬼門の位置である。

 そして、平安京大極殿の鬼門のラインをさらにのばすと、琵琶湖の西岸にある和邇の地であり、そこに小野篁など小野氏を祀る小野神社がある。

 宇治と、石山寺のラインの延長上(鬼門のライン)にあるのは、琵琶湖の東岸の近江富士と言われる三上山であり、この山に降臨した天御影神の末裔の息長水依存比売(おきながみずよりひめ)が、和邇氏(小野氏)の血を受け継ぐ彦座王(ひこいますおう)と結ばれ、その末裔が、第12代景行天皇ヤマトタケルである。

 琵琶湖の東と西の和邇氏ゆかりの地が、平安京大極殿と、石山寺や宇治の鬼門になっているのだ。

 ラインの謎はさらにあり、紫式部のルーツ、京都西南の小野郷と、かつて巨椋池のあった石清水八幡(宇治川、木津川、桂川の合流点)も、鬼門のライン上にあり、そのライン上に、豊臣秀吉伏見城を築いた。だから、紫式部のルーツの小野郷にある八幡神社を、秀吉は大事にした。そして、石清水八幡の真北が、(1)で言及した梅宮大社で、石清水の対岸にある離宮八幡(橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇離宮跡)の真北が、嵯峨野の天龍寺橘嘉智子が築いた檀林寺)となる。

 もともとの石清水八幡とされる離宮八幡と宇治平等院という、隼人(海人)や小野氏と関係があるところも、東西のライン上にある。

 偶然とはとても思えない歴史上の刻印は、あまりにもミステリアスだ。

 

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