第1047回 日本の古層 〜相反するものを調和させる歴史文化〜(4)

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明石海峡

 私は、兵庫県明石市で生まれ育った。家の近くの古墳周辺を探検したり、明石原人の発掘場所で地面をさぐってみたり、子供ながらに秘められた歴史には興味があった。

 また、源氏物語の中で、明石が大事な舞台になっていることは知っていた。にもかかわらず、最近まで、明石が、それほど歴史的に重要な場所だとは思っていなかった。

 私は、明石市内で三回、小学校を転校したが、数日前、小学校3年の頃に通っていた小学校の近くに、たくさんの瓦工場があったことを思い出した。

 調べてみたら、明石の西北部は、古代から良質の粘土と燃料となる山林資源が豊富な地で、須恵器とともに瓦を焼く窯も多く作られていたことがわかった。

 高校時代に住んでいたところからさほど離れていない高丘古窯跡群の発掘では、6世紀後半から8世紀前半まで操業が続けられており、この地で生産された瓦が、大阪の四天王寺や、奈良の寺院のために運ばれていたらしい。

 須恵器というのは、歴史的に見ても特別な焼物だ。

 土師器の場合は、縄文土器のように紐状に粘土を積んで、野焼きで作る。野焼きは、800度から900度くらいで、できあがった土器の強度もない。

 それに対して須恵器は、轆轤技術を用いて型取り、穴窯や登り窯で、1100度以上の高温で作るため、土師器に比べて強度がある。

 高温でつくる土器の技術は、中国の江南(杭州あたり)で始まったようだが、日本書紀では、天日槍など渡来人とともに日本に入ってきたと記されている。

 大阪府堺市和泉市岡山県備前、福岡県太宰府市静岡県湖西市岐阜県岐阜市、愛知県尾張地方東部とともに、兵庫県明石市から三木市にかけての地域が、主な須恵器の生産地だったようだ。

 そして、須恵器は、製鉄とも関係してくる。

 私が、小学校4年から中学校3年にかけて、夏のあいだ、毎日のように泳いでいた藤江の海岸は、白い砂がどこまでも続いて海水浴に最適なところだったが、実は、この砂は、我が国有数の産鉄地である兵庫県内陸部を流れてくる加古川が運んできたもので、砂鉄が大量に含まれているらしかった。

 砂鉄の磁鉄鉱など鉄原料を溶かして鉄を取り出すためには十分な高温が必要で、そうした炉を作る技術は、須恵器を焼く技術と連動している。

 須恵器の産地であり、砂鉄が豊富となれば、自ずから製鉄が行われる。

 『住吉大社神代記』の「明石魚次浜」の項で、住吉神を木国(紀国)の菅川の藤代の嶺(丹生川上)に鎮め祀ったが、後に、住吉神が、針間国(播磨国)に渡り住まんと、大藤を切って海に浮かべ、流れついたところを「藤江」と名付け、神地としたとある。

 ”藤”というのは、砂鉄を選鉱するために、藤の蔓で作ったざるが使用されたからだという。

 大量の砂鉄を集めるために、砂鉄の混ざり込んだ砂や土砂を大量の水で洗い流し、水流の底に沈んだ重い砂鉄を藤の蔓で編んだざるで掬い取る。その方法を、「鉄穴流(かんなながし」と言った。

 私が住んでいた藤江の地には、青龍神社(かつては厳島神社)があるが、この神社が鎮座する丘は、縄文時代の土器や石器などが発見された藤江出ノ上遺跡であり、周辺にも、藤江別所遺跡や藤江川添遺跡など縄文時代旧石器時代の遺跡が点在しており、かなり古くからの要所だったらしい。
 そして、『住吉大社神代記』には、紀伊国から播磨の藤江住吉大神が移られる際に、船木氏が関わったことが伝えられている。船木氏は、現在の三重県多気郡が本貫だったらしいが、その地に佐那神社があり、天手力男命タヂカラオ主祭神を祀っている。

 天手力男命は、天岩戸にこもったアマテラスの腕を引いて外に出し、世界に再び光をもたらした神で、伊勢の皇大神宮において、アマテラスの左に弓を御神体として祀られている。(右に祀られているのが、剣を御神体とする栲幡千千姫命)。

 佐奈神社が鎮座する船木の地から宮川を遡ったところには、倭姫が伊勢神宮よりも先に天照大御神を祀った場所とされる瀧原宮があり、そのすぐそばにも船木という土地がある。船木から宮川を下れば伊勢神宮で、櫛田川をくだれば、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(斎宮跡)がある

 さらに、佐那神社の近くは丹生という土地で、丹生大師がある。この真言宗の寺は、高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれる。奈良県の宇陀にある室生寺と同じである。そして、どちらも水銀の産地だ。

 丹生神社は、継体天皇の時代、523年の創建とされるが、奈良時代聖武天皇東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したという伝承がある。

 丹生神社という名の神社は、水銀が産出する中央構造線上にたくさんあり、祭神は、丹生都比売や罔象女神ミヅハノメノカミ)や丹生都比売が多いが、伊勢の丹生神社は、土の神、埴安神ハニヤス)を祀っている。おそらく製鉄に必要な釜作りに向いた良質の土のことではないだろうか。また、丹生神社の境内の丹生中神社には、製鉄の神、金山毘古金山彦命・金山比女命が祀られている。ここは、縄文時代から採掘されている丹生鉱山という日本でも有数の水銀の産地なのだ。

 船木氏の祖先、大田田神は、「天の下に日神を出し奉る」と『住吉大社神代記』に記されているが、天の岩戸からアマテラスを引き出した天手力男命タヂカラオ)とイメージが重なる。

 船木氏というのは、多氏の一族であり、多氏というのは古事記の編者である太安万侶が有名だが、神武天皇の子の神八井耳命かんやいみみのみこと)の後裔とされる。

 神武天皇が実在の人物だったかどうかはわからないが、太安万侶は、自分たち多氏の役割を象徴的に示すためか、祖先の神八井耳命のことを、『古事記』の中で、神武天皇と大物主の娘のあいだに生まれた子として描いている。

 神武天皇には、日向の地の阿多(隼人系)の女性とのあいだにできた子、手研耳命(たぎしみみ の みこと)がいて、彼と一緒にヤマトまでやってきた。手研耳命は、自分が神武天皇の跡を継ぐため、神八井耳命と、その弟を殺そうとするが、それを事前に知った二人に殺される。

 そして、神八井耳命は、帝位の後継を弟に譲り、自分はさにわ(神託を受ける者)として弟を支えていくことを誓う。そのため、弟が、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)となり、そこから天皇家の歴史が続いていく。

 すなわち、多氏というのは、天孫降臨のニニギの曾孫である神武天皇天津神)と大物主の娘(国津神)の血を受け継ぎ、政治の表舞台には立たずに、この国を霊的に支えていく存在ということになる。

 そして、神八井耳命皇位を弟に譲り、神祇を祭り始めた場所とされる多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)=多神社が、奈良県田原本町にある。この神社の裏や境内そして周辺の集落から、古墳と考えられるものや、大量の祭祀遺物、そして多彩な初期須恵器や韓式土器も大量に出土している。それらは、縄文時代から古墳時代にかけての遺物で、祭祀的色彩が強い。この地は、三輪山二上山を結んだ同緯度の東西のラインの中間にあり、春分秋分の日には、三輪山から昇る朝日と二上山に沈む夕日を拝することができ、太陽と関わる祭祀が行われていたのだろう。

 しかも、この多神社の真北が平城京平安京、小浜の若狭神宮寺であり、真南が熊野本宮大社(大斎原、本州最南端の潮岬なのだ。多神社は、近畿地方の真中、臍の位置にあたる。

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北緯34.53度には、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、舟木の古代製鉄所などが並び、東経135.78には、若狭神宮寺、京都の下鴨神社、奈良平城京熊野本宮大社(大斎原)、潮岬が並ぶ。

 近畿のちょうど真中の位置で、天津神国津神の両方の血を受け継ぐ者が、太陽に関わる祭祀を行うという構造は、日本という不可思議な国の根本原理なのかもしれない。

 そして、多神社、三輪山二上山がある北緯34.53度は、東西に線を伸ばしていくと、古代の聖域がたくさんある。

 このラインのことは、1980年2月11日、NHK総合テレビの『知られざる古代』という番組で紹介されたようで、これに関する著書もある。その内容は、奈良県箸墓古墳を中心に、西の淡路島の船木の石上神社~伊勢の斎宮跡まで、三輪山、長谷時、室生寺二上山などが、北緯34度32分の線上に並んでいるというもので、それらは、太陽崇拝および山岳信仰とつながりがある古代祭祀(さいし)遺跡であり、日置氏が、その測量に関係しているということだ。

 それに対して、真弓常忠という学者が、このラインは、太陽祭祀ではなく製鉄と関係あるのだと主張されている。

 しかし、どちらか一方ではなく、両方と関係していることは間違いないと思う。

 1980年当時の発表では、このラインは、北緯34.32度ということだが、なぜか現在、グーグルマップで確認すると、34.53度となる。(GPSの発達した現在、測量の仕方が違うのか?)

 そして、1980年度から現在までのあいだに、このライン上で新たな場所の発見が幾つかなされている。

 その最大のものが、2017年1月、淡路島の舟木で発見された2世紀半ば~3世紀初めの鉄器工房跡で、4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。炉跡も発見された。調査はわずか130平方メートルだけだったが、その周辺にも広がっており、南北800メートル、東西500メートルに及ぶと推定され、国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まっている。

 1980年の時点で太陽のライン上にあると考えられていた舟木の石上神社は、僅かながら緯度がずれていた。しかし、その誤差は許容範囲とみなされていたが、新しく発見された巨大な鉄器工房跡は、北緯34.53度で、多神社、三輪山二上山とまったく同じ緯度上にある。

 専門家のあいだでは、淡路が、瀬戸内の西から河内や大和へと物資や情報を中継する『玄関口』だったゆえのことと説明されているが、近年では、明石市の西に広がる播磨平野を流れる大河が、日本海と瀬戸内海を結ぶルートだったという説も出ている。とくに加古川は、分水嶺が90mほどであり、若狭湾や出雲方面に上陸した人々が、河川をつかって比較的簡単に明石辺りまでやってきて、そこから大阪湾を東に行って難波に上陸するか、淡路島に上陸して、その東の端の洲本あたりから和歌山に渡り、紀ノ川を遡っていけば大和地方に入ることができる。明石や淡路島は、古代の海人にとっては、ごく普通の通り道だったのかもしれない。

 住吉神は、海上交通安全の神として海の近く祀られていることが多いが、海から離れた加古川中流域にも、住吉神社が多数存在しており、加古川の支流の東条川沿いに船木の地がある。『住吉大社神代記』によると、加古川河口に近い明石にも船木村があった。

 淡路島の北緯34.53度に、古代最大級の舟木製鉄所の跡があり、奈良の三輪山も、鉄との深い関連が考えられ、その山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。そして、室生寺も、伊勢斎宮跡の近く、多気の地も水銀の産地だ。

 東西に一直線の太陽のラインとされるこの線上には、鉄や水銀と関わりのある聖域が多いということがわかる。そして、船木氏を代表とする多氏とも関わりがある。

 太陽と製鉄の関係は、製鉄炉の中の眩い光と太陽光線のイメージが重なるからだという説もある。

 また、太陽は海人にとって大切な道しるべであり、海人には日神信仰がある。その海人は、船を作るために樹木を必要とし、川を遡って山の奥深くに入っていき、船の防水加工に有用な水銀を採掘したとも言われる。船木氏が、伊勢の多気という水銀の産地を本貫の地にしていたのは、そのためだろう。

 ところで、明石市には、船木氏と関係の深い住吉神社が数社あるが、そのなかで、魚住の海岸にある住吉神社が、住吉神社の発祥の地とされている。

 これは、神功皇后三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったからだという伝承もある。

 源氏物語のなかでも、似たようは描写がある。

 京の都から須磨へと流された光源氏。須磨の館で暴風と激しい雷雨にあい、光源氏は、救いを求めて、住吉の神に必死に祈る。

 その時、夢に現れた亡父、桐壺帝が、「住吉の神の導きたまふままに、舟出してこの浦を去りぬ」と告げる。

 そのお告げに符合するように、海上で、明石の入道の迎えがあり、光源氏は、鎮まった海を渡り、明石に移る。

 この時を境に、光源氏の運命が変わり、京都に戻ってから栄華の道を歩み始める。

 さらに、明石の入道は、自分の血筋から国母が出るという霊夢を信じて、明石の地で住吉神を信仰していた。 明石の入道が住吉の神に祈りはじめて十八年、住吉の神の導きによって須磨から明石にやってきた「光源氏」と、明石入道の娘が結ばれ、女の子を出産する。その女の子は、京都で光源氏と紫の上に育てられ、皇太子のもとに嫁ぎ、四男一女を産み、皇后となり、第一子が皇太子となる。

 住吉の神への信仰深い明石入道の悲願が叶う。

 神功皇后の物語と同様、源氏物語のなかでも、住吉神が、極めて重要な役割を果たしている。

  紫式部が、「源氏物語」を須磨と明石の帖から書き始め、明石の一族の繁栄で物語を終わらせ、さらに、光源氏を救い、栄華に導いていく神として住吉神が位置付けられているわけだから、紫式部がこの物語の構想を行う時、住吉神のことが念頭にあったと思わざるを得ない。

 これはいったいどういうことだろうか?

(つづく)