第1049回  虚飾の時代の、覚醒の本。 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』

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 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』(筑摩書房)。

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/

 

  こんなにもおかしくて、こんなにも美しい本が、ほかにあるだろうか。

 この本は、美しさがおかしさの旨味を引き出すソースで、おかしみが美しさの香味を引き立てるスパイスであることを、生の体験として教えてくれる。

 計算づくめのしたり顔で料理のレシピの工夫を説明するシェフが多い世の中だが、押し付けがましい見かけだおしばかりで、肝心の味が臓腑に染み込んで満足感を与えてくれるものは極めて限られている。

 この本の料理人、鬼海弘海は、今までの作品集ではあまり見られなかったサービス精神を少し発揮してはいるものの、それは、ベテランの域に達した者だけが持つ懐の広さから生じる遊び心であり、程合いを弁えている。そのうえで、手間暇かけて作り込んだ料理を、品のいい器に丁寧に盛り付けて、気の利いたアドバイスを一言だけ添えて出してくれる。

 「わかる人にはわかる。わからない人に、敢えてわかってもらおうとは思わない。」

 それでいいのだろう。化学物質におかされて鈍った舌の力は、当人の心がけがなければどうにもならない。

 味のわかる人が、食べ終わった後にもずっとその至福の余韻を保ち続け、後々まで記憶してもらえれば、料理人として、それ以上の喜びはない。

 鬼海さんは、そういう風に仕事をしてきた。世の中に媚びて流行りの店を賑わせたり、目新しいメニューで話題性を狙うなんて、気性として向いていなかった。だから、何十年も同じことを続けてきた。見返りのない私的な仕事だと割り切って。ただ一つのこだわり、写真行為の誠意と矜持として、人を正面から見つめるということからは、決して脇に逸れることなく。

 この最新写真集『PERSONA 最終章』は、鬼海さんのただ一つのこだわり、人を正面から見つめるということを、何十年も積み重ねてくるとどうなるかという、一つの極致の形である。

 1960年代から70年代の初頭、ダイアン・アーバスという高名なアメリカの女性写真家が、人を正面から見つめることを苛烈に行い続け、自らの精神のバランスを崩し、48歳で自殺した。

 彼女が行ったことも写真表現の一つの極致であり、尊い仕事として写真史に刻まれているが、鬼海さんは、同じように人間と正面から向き合い続けても、ダイアン・アーバスのような悲壮にはならなかった。鬼海さんには、不可思議な軽妙さと野太さがあり、ダイアン・アーバスがもがき続けた壁を、ふわりと超えてしまっている。

 おそらくであるが、ダイアン・アーバスが、ニューヨークで生まれ育ち、若い頃、華麗なファッション写真においても成功した都会人であるのに対し、鬼海さんが、山形の農村出身で、若い頃、トラックの運転手や職工、マグロ漁船など、自然にもまれ、肉体労働者として生きていたことが表現のベースになっていることが大きいだろう。肉体は思うようにならないことが多いし、自然は、人間に容赦なく、長い目で見るしかないと、たびたび思い知らされるものだから。

  さらに鬼海さんは、大学時代、哲学者の福田定良さんと師弟関係だった。

 政治運動が盛んな頃、福田さんは、社会に関心を寄せながらも哲学という根気のいる試みを淡々と続けていた。哲学者は、外にばかり答えを求めるのではなく、自分の内に答えがあることを知っている。

 肉体労働と哲学、この二つの軸によって、鬼海さんは、どんなに物事がうまくいかない時でも、軸をぶらすことがなかった。その表現世界は地にしっかりと足がつき、それでいて軽やかで、タッチは柔らかいのに、ずっしりと重い人間の尊厳に迫るものとなっている。

 人間の尊厳とは、大きな声で叫ぶスローガンではなく、私たち一人ひとりの”体温をおびた想像力”を通して、愛しさや慈しみと深くつながっているものである。

 想像力を麻痺させてしまう恫喝的な正義や尊厳の主張は、正しそうな言葉とは裏腹に、人間の体温の伴う感覚からの容赦のない遮断ではないか。

 鬼海さんが撮る肖像写真は、なまめかしいまでの体温が伝わってくるものである。その体温それじたいが人間の命を愛おしく感じさせる力であり、尊厳を大切にするというのは、そうした愛すべき存在を、そのまま愛することである。

 鬼海さんは、「表現は独創性なしでは成り立たない。」と述べているが、肖像写真という、写真表現の中では差別化しずらい方法を選んでいながら、その表現個性が際立っているのが、鬼海さんの写真である。

 しかし、それだけ印象の強い鬼海さんの写真であるがゆえに、同じことを長期間に渡って続けていると、ともすればワンパターンの仕事だと、思慮の浅い裁断をする人もいるだろうが、事実はまったくそうはならない。

 鬼海さんは、浅草の浅草寺の朱色に塗られた壁の前で、通りゆく人を撮影するということを、1973年から続けていて、2004年に、草思社から「PERSONA」を発表し、日本だけでなく世界中で話題になった。

 浅草の一箇所で出会った人の肖像写真に、世界中の人々が、特別な親近感と驚きと普遍性を感じ取ったのである。

 そして、このたび筑摩書房から発行された『PERSONA 最終章』は、2004年の写真集の発行の後、2005年から2018年にかけて撮影されたものが収められている。

 なんと、最初の「PERSONA」と今回の「最終章」のあいだで、45年もの月日の隔たりがある肖像写真が存在している。

 にもかかわらず、何も変わらないと感じさせるところと、何かが違うと感じさせるものがある。

 テレビ番組などにおいて、10年前、30年前の流行などを取り上げて明らかな違いを強調して懐かしさを押し付けて消化させる類のものとは一線を画した、得も言われぬ差異と普遍性。

 人間には、現実にさらされて変わらざるを得ないところもあるが、生き物として、変わらなくていいものもある。そして、人間として、生き物として、変わらなくていいものがあると気づかせてくれるものが、これほどまで愛おしいということを、消費社会の廃棄物だらけの中で、鬼海さんの写真は、にんまりと教えてくれる。

 鬼海さんが撮った写真を通じて、鑑賞者もまた、「人に思いを馳せること。」の追体験をする。その時、他人にも、自分にさえも少し愛おしさを感じることになる。

 『PERSONA 最終章』を見終わった後の幸福感は、人に愛されることで満たされる自己愛によるものではなく、人を愛せることに喜びを感じる他者愛によるものだ。

 人に思いを馳せることは、人を深く愛し、人に深く配慮し、どんな人生にも敬意を払うこと。

 人類が、幸福になるためには欠かせないその大切な軸が、種々雑多な薄っぺらい虚飾によって崩され、人生の足元がおぼつかなくなる。

『PERSONA 最終章』は、そんな虚飾の時代に、ひたすら誠実に人間の正面に立ち続けた驚くべき持続の軌跡であり、生の感覚を鈍らせた頭と身体を覚醒させる本なのだ。

 写真表現は、生まれてから200年にもならず、絵画や彫刻などに比べてもっとも歴史が浅い表現であるが、『PERSONA 最終章』は、写真表現にとって一つの極北を示しており、同時に、人生のリアリティを、他の表現方法では成し得ないスタイルで描ききることに成功している。

 さらには、一つひとつの写真に添えられた短いキャプションの豊かさにも感嘆させられるが、巻末の鬼海さんの文章が、また味わい深い。写真の奥行きは、写真家の人生の奥行きの投影だということが、これ以上に明確に伝わってくる言葉を、私は他に知らない。

 

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/