第1050回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(6)

 

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居

  京都の太秦に鎮座する蚕ノ社には、謎の三本の鳥居がある。蚕ノ社秦氏と関係が深いので、この三本の鳥居は、秦氏の聖域を指していると考えられている。真北が、秦氏関係の古墳のある双ヶ丘と、鴨川源流の雲ヶ畑、南西の方向が桂川沿いの松尾大社で、その真逆にあるのが鴨川沿いの下鴨神社、そして東南が伏見稲荷であると。

 しかし、地図上で実際に確認してみると、松尾大社下鴨神社、双ヶ丘、雲ヶ畑は合っていたが、伏見稲荷は違っていて、蚕の社の東南の方向は、大津の石山寺となる。

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居が指す方向。北は、秦氏関係の古墳があるとされる双ヶ岡、仁和寺と通り、鴨川源流の雲ヶ畑秦氏の姓が多い)となる。西南が、松尾大社の磐座の位置。その反対方向が下鴨神社比叡山。東南が石山寺で、その反対方向に亀岡の千歳車塚古墳。蚕の社の真西が、北緯35.01度に並ぶのが、嵯峨野の天龍寺、亀岡の桑田神社、佐伯郷の御霊神社となる。

 

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紫式部が「源氏物語」の執筆を始めたとされる石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸にある。石山寺は、その名の通り、巨大の石(岩)の上に築かれている。花崗岩マグマと石灰岩接触すると、石灰岩が熱変成し、珪灰石とか大理石ができるそうだが、石山寺が建っているのは、珪灰石の上で、珪灰石の下に大理石の岩盤がある。石山寺の珪灰石は、層状で強く褶曲していて、平地のところに褶曲したものが見られるのは珍しいらしい。

 石山寺秦氏の関係は謎だが、石山寺周辺は、古代、隼人の居住地だったことがわかっている。石山寺の地は、琵琶湖から流れ出る瀬田川宇治川、淀川と名を変えて大阪湾に至る)の流域で、水上交通の要である。

 そして、蚕の社の場所(北緯35.1度)から真西にラインを伸ばしていくと、京都の嵐山の天龍寺を通り、亀岡盆地の入り口で保津川渓谷を抜けたところに鎮座する桑田神社(松尾大社と同じく祭神は大山咋神)を通り、亀岡市の稗田野町に至る。ここは佐伯郷で、古代、隼人の居住地であった。亀岡の隼人の居住地は、田野町から、曽我部町穴太(あのう)、犬養あたりまでで、桂川の支流の犬飼川や、さらにその支流の山内川の流域となり、ここも、水上交通の要である。また、古代山陰道は、この佐伯郷を抜けて丹波、但馬、因幡、出雲へと通じていた。

 2017年1月、亀岡の佐伯郷で、農地の再整備に伴う区画整理を行っている最中に遺物が発見され、本格的な発掘調査が行われることとなり、その後の継続的な調査で、古墳時代から奈良時代平安時代にかけての大規模な都市遺跡、寺院遺跡が発見された。

 この地に鎮座する稗田野神社、御霊神社と、河阿(かわくま)神社、若宮神社は、非常に謎めいた神社だ。

 この四つの神社が合同で行う佐伯灯篭祭りは、五穀豊穣と男女の和合を祈願する祭りで、中世の時代、「男寝て待て女が通う 丹波佐伯郷の燈籠まつり」と呼ばれた女の夜這いの祭りとして知られていた。

 今でもこの地域でもっとも崇敬されている稗田野神社は、神社の裏に鎮守の森があり、約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が、その森の中の土盛りのところで、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたと伝えられ、古事記の作者、稗田阿礼の生誕の地であるという伝承もある。

 この神社の祭神は、保食神(うけもち)に、イザナギイザナミが産んだ大山祇神(おおやまつみ)と野椎神〔 のづちのかみ)の夫婦神。

 保食神は、『日本書紀』のなかで、以下のように記される。

 月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

 月読神は、アマテラスやスサノオと同じ三貴神であるが、この神について記した物語は少なく、月読神を祀る神社も、アマテラスやスサノオに比べて、かなり少ない。しかし、亀岡には、名神大社の小川月神社と月読神社がある。亀岡から保津川渓谷を抜けた京都の松尾山に鎮座する月読神社と関係があると言われる。

 この月読神と、保食神は、対立的な存在であるが、月読神によって殺された保食神の身体から、様々な食べ物や、養蚕が生まれる。

 頭頂からは牛と馬、額からは粟(あわ)、眉の上には蚕(かいこ)、眼の中には稗(ひえ)、腹の中には稲、陰部からは麦と大豆や小豆。

 このことについては、金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究によると、身体の部分と食べ物の関係は、朝鮮語で対応しているらしい。

 頭(mara) が馬(mar)、顱(cha)が粟(cho)、眼(nun)が稗(nui)、)腹(pai)と稲(pyo)、女陰(poti) と小豆(pat)。

 そして、稗田神社のもう一つの祭神、野椎命は、この神のパートナーの大山祇神が色々な所に登場し、祀られる神社も多いのに比べ、あまり知られておらず、祀る神社も少ない。

 しかし、亀岡には、稗田野神社の他に、藤越神社や篠葉神社(ささばじんじゃ)で祀られていて、全国的にも珍しい集中だ。

 イザナギイザナミが産んだ野椎神と大山祇神は、それぞれ、野と山を分担して司ることになるが、藤越神社に伝えられるところによると、「野椎命は、またの名は鹿屋野比売(かやのひめ)という女神で、今の薩摩の阿多の郡に住んでおられた。夫神に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。」とある。

 淡海国の日枝の山というのは、琵琶湖に面した比叡山のこと。夫神というのは大山祇神のこと。

 これによると、野椎神(のづちのかみ)は、南九州の隼人の地にいたということになる。

  『古事記』でも、野椎神は「鹿屋野比売(かやのひめ)」という女神の別名であると記されるが、”かや”という言葉について、大林太良氏が、熊襲の首長名として繰り返し出てくると指摘している。さらに、マレー、フィリピン、インドネシア方面の言葉で、”カヤ”という言葉が、呪力とか資産の意味を持つことも合わせて述べている。(『隼人』社会思想社)。

 熊襲も隼人も、大和朝廷側からの呼び方にすぎず、南九州に、どうやらインドネシア系と関連の深い独自の言語と文化を持った人たちがいて、その共同体の中で呪術力を持つ首長だった鹿屋野比売(かやのひめ)(野椎命)が、亀岡にやってきたということになるのだろうか。

 ちなみに、近畿圏の隼人の居住地は、室町初期に中原康富という人が記した『康富記』(やすとみき)によると、琵琶湖に面した竜門(大津の石山寺)、宇治川沿いの田原(宇治田原町)、木津川近くの大住(京田辺)、旧大和川近くの萱振(大阪の八尾)、吉野川沿いの阿陀(五條市)、そして、亀岡の佐伯郷ということになる。いずれも、水上交通の要であるが、このうち、亀岡と大阪の八尾、そして大津に”穴太”(あのう)という地名がある。近畿では、もう一つ、隼人と同じく水上交通と関わりの深い船木氏ゆかりの三重県四日市の員弁川(いなべがわ)沿いにも穴太がある。

 大津の穴太衆は、戦国時代の城壁などの石垣積みで有名だが、もともと、穴太というのは、第20代安康天皇のために設けられた名代部(なしろべ=天皇,皇后,皇子の名をつけた皇室の私有民の土地)の一つで、安康天皇は、わが国で最初に鉄の矢を用いた天皇であるとされ、その矢を穴穂矢といったと「日本書紀」にある。

 なので、穴太は、鉄の武器と関係している。大阪の八尾は、大和朝廷の軍事を司っていた物部氏の土地で、弓矢を作る職人たちがいた。奈良時代の僧侶で、称徳天皇の寵愛を受けて天皇になろうとした道鏡は、物部氏の一つ弓削氏で、出身地は、八尾である。

 また、大津の穴太は、周辺に製鉄の史跡が多く残り、四日市の員弁川沿いも、淡路の船木遺跡のように鉄と関わりの深い船木氏ゆかりの地で、丹生という地名がある。

 ならば、亀岡の隼人の居住地、佐伯郷の穴太も、製鉄と関係あるのだろうか。

 佐伯郷で、佐伯灯篭祭りを合同で行っていた四つの神社、稗田野神社以外の三つの神社も詳しく見てみる。

   若宮神社は、奈良時代の769年の創建と伝わる。創建当時は多気神社として祀られ、2013年、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえる。多気という名は、伊勢の水銀の産地の地名でもあり、海人の船木氏の本貫でもある。

 そして、次に、河阿(かわくま)神社だが、ここは、約二千年程前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのではないかと言われている。河阿神社一帯は、温泉が湧き、近代においては日本最大のタングステン鉱山であった大谷鉱山(昭和58年まで操業)があり、古代、錫の鉱床でもあった。

 この神社の祭神は、豊玉姫命と鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず)という、南九州ゆかりの海人関係の親子。豊玉姫命は、海神豊玉姫の父)の宮にやってきた山幸彦と結婚して、鵜葺草葺不合尊を産んだ。鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫命の妹の玉依姫と結ばれて初代天皇神武天皇を産み、神武天皇は、45歳の時に兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国安芸国吉備国、難波国、河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え、大和国に入って、橿原の地に都を開いたことになっている。

 日本のルーツには、南九州の海人が深く関係しているのだ。

 そして、4つの神社のもう一つが、御霊神社であり、近年発見された佐伯郷の古代都市、寺院遺跡は、御霊神社の目の前に広がっていた。

 この神社の祭神が吉備津彦命であることが、この地の謎を深める。

 

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亀岡の御霊神社。祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。

 吉備津彦命というのは、『日本書紀』によれば第10代崇神天皇の時に四道に派遣された4人の将軍の一人で、播磨から吉備にかけて山陽道を平定したとされる。

 しかし、『古事記』においては、吉備津彦命が西方に派遣されたのは、10代崇神天皇の時ではなく、第7代孝霊天皇の時となっている。

 また、『日本書紀』によれば、亀岡に四道将軍の一人として派遣されたのは、丹波道主命だが、『古事記』では、丹波道主の父親の彦座王(ひこいます)が亀岡に派遣されたことになっている。

 丹波道主命は、第11代垂仁天皇の皇后で、第12代景行天皇を産んだ日葉酢姫(ひばすひめ)の父親だ。

 この丹波道主命が、父親の彦座王と祖父の第9代開化天皇を祀るために創建したのが、御霊神社からさほど離れていない亀岡の穴太、犬飼川沿いの小幡神社で、この地は、大本教の二代教祖の一人、出口王仁三郎の生誕の地だ。

 王仁三郎は、幼少の頃より小幡神社に参拝し続け、ここで神示を受けた。この神社の裏山は古墳になっている。

 山陰道沿いの亀岡の地は、四将軍のうち、丹波道主命もしくは彦座王の関係の深い土地なのに、なぜ、ここの御霊神社に、山陽道を平定した吉備津彦命が祀られているのか。

 実は、亀岡にかぎらず、京都をはじめ、各地の御霊神社でも、吉備大臣とか吉備精霊が祀られている。

 御霊神社は、早良親王井上内親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に

巻き込まれて憤死した人たちが祀られている。その人たちの恨みが怨霊となって災いを起こすことを恐れたからだ。

 一般的に、御霊神社に祀られている吉備大臣、吉備精霊を、吉備真備と解釈する人が多いが、奈良時代遣唐使として派遣され、帰朝後、聖武天皇光明皇后の寵愛を得た吉備真備は憤死した人ではない。なので、御霊神社に祀られている吉備大臣は、吉備真備ではない。京都の下鴨神社ではそう解釈している。

 吉備大臣というのは、四道将軍吉備津彦命であり、いつのまにか吉備真備にすり替わってしまったのだろう

 ここで注意しなくてならないことは、吉備津彦命というのは、吉備に派遣された将軍の名ではないということ。吉備に派遣された人物の名は、第7代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)であり、彼によって征伐されたのは温羅(うら)という百済の王子だが、温羅こそが、吉備津彦命だったのだ。

 吉備の伝承では、温羅は、吉備に製鉄の技術を伝えたが、鬼として大和朝廷に征伐され、この時の話が、桃太郎の鬼退治の説話になっている。

 湯羅には、吉備冠者の異称があるが、吉備に派遣された彦五十狭芹彦命は、湯羅を討ち取った後、その名を自分が名乗るようになったのだ。

 ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯婆婆に名前を奪われるという状況が描かれているが、名前を奪われることは、支配されることである。

 古来より、名前は、ものの本質を表すものと考えられており、日本の古い言い伝えでも、『妖怪に名前を知られるとその人間は呪われてしまうが、反対に妖怪の名前を知ったときは、その妖怪を支配したり使役したりできる』という話がある。

 すなわち、吉備津彦命という名は、吉備を支配していた湯羅が、ヤマトから派遣された彦五十狭芹彦命に討たれ、奪われた名前なのだ。

 吉備津神社に伝えられる話によると、討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたため、犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという。

 死んだ後も鎮まらなかった温羅の魂が、神事を経て、吉凶を占う存在となったわけで、平安時代以降、怨霊を鎮めるために行った御霊会に通じるところがある。

 日本の歴史の初期段階において製鉄をめぐる戦いがあり、その多くが鬼伝説となっているが、鬼を鎮魂することで鬼を守護神に転じさせるという発想が、古代からあったのだろう。

 太宰府に流されて憤死した菅原道眞を神として祀ることなど、平安期において、災いを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」として祀ることにより祟りを免れ、そのご加護で平穏と繁栄を実現しようとする御霊信仰が広まるが、その根元が、吉備津彦命の物語なのではないだろうか。

 そして、吉備の鬼退治伝説に通じるものが、亀岡の地にもあるのだ。

(つづく)