第1052回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(8)

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丹後、鬼伝説の大江山の近くに鎮座する皇大神社伊勢神宮の内宮と外宮に対応するように、豊受大神社が近くに鎮座している。

(日本の古層(6)の続き)

 亀岡の佐伯郷にある御霊神社には、吉備津彦命が祀られている。日本の古層(6)の記事で書いたように、吉備津彦命のもともとの名が、ヤマトから派遣された将軍、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこ)に討たれた渡来系の製鉄氏族の湯羅(うら)のことだとすると、亀岡の地にも、吉備と似たような鬼退治の歴史があったと考えられる。

 亀岡における製鉄氏族のことも、(6)の記事で述べたように、河阿(かわくま)神社に伝えられている。この周辺は鉱山であったが、約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた。そして、河阿神社の拝殿前には人身御供が入れられた長持(収納箱)が置かれた台石があり、 毎年麓の家々の中から藁屋根に白羽の矢がささった家の娘が人身御供として神前に献上されたと伝わる。

 南方系の九州からやってきた人たちということとなると、(6)の記事で書いたように、稗田野神社などで祀られている野椎神(のづちのかみ)=「鹿屋野比売(かやのひめ)」と重なる。

 さて、丹後・丹波の鬼伝説のうち、最も古いものが、古事記の中の、第10代崇神天皇の時の話である。

 『日本書紀』の中では、第10代崇神天皇の時、吉備津彦命山陽道丹波道主命山陰道の平定のために派遣されたとなっているが、古事記』の中では、山陰道に派遣されたのは、丹波道主命ではなく、その父の日子坐王(ひこいますのみこ)=崇神天皇の弟である。

 日子坐王が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とある。

 これについて、「丹後風土記残欠」では、もう少し詳しく、「青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ」と記されている。

 大江山は、金属鉱脈が豊富で、周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られる。

 玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、土蜘蛛とされているが、名前に御という尊称がある。さらに、谷川健一は、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と述べている。そして、福井県から鳥取県日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘している。

 だとすると、日本の古層(6)に述べたように、亀岡の河阿(かわくま)神社に伝えられている「約二千年程前に、九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族がやってきて、ここに住み着いた」という伝承と重なってくる。

 吉備の国の湯羅(うら)もまた、製鉄技術をもたらした渡来人であり、古事記では第7代孝霊天皇の時、日本書紀では第10代崇神天皇の時に討たれたことになっている。

 金属技術をもった人々が戦いに敗れるのだから、より強力な武器を持った人たちが、新しい支配者になったということだろうか。

 とすると、もともと丹波・丹後に住んでいた人たちは、いったいどういう人たちなのか。

 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代奈具岡遺跡がある。ここでは、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。

 また、京丹後の峰山に、弥生時代の日本最古の高地性集落、扇谷遺跡がある。一般的に弥生時代の集落は、コメの生産地となる水田に近い平野部に形成されていたが、そうではなく、ここは、山地の頂上・斜面・丘陵にある集落で、石の矢尻や槍など戦いとの関連が考えられる武器や遺体なども発見され、軍事的要素が強い。さらに、ここからは、陶塤、菅玉、鉄製品、ガラスの塊、紡錘車など、古代のハイテク技術が見つかっている。

 この峰山の地に、比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)が鎮座するが、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神は、ここから、京丹後の鬼伝説で有名な大江山の傍の豊受大神社を経て、伊勢の地に勧請された。伊勢神宮の外宮の神様は、もともとは丹波の神様なのである。

 そして、伊勢神宮の外宮の神職である度会氏が起こした伊勢神道では、豊受大神天之御中主神・国常立神と同神で、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上ということになっている。

 そして、豊受大神は、羽衣伝説と関わりがある。

 羽衣伝説は、全世界に類似のものがあり、なぜ世界中に似た神話があるのかは神話学の難問であるが、日本では、「丹後国風土記」と「近江国風土記」に記されているものが最古と考えられる。静岡の三保の松原の羽衣伝説が一番有名だが、その理由は、室町時代世阿弥によって作られた謡曲『羽衣』のためであり、あそこが羽衣伝説のルーツではなく、丹後と近江の物語が全国に広がったと考えらえる。

 丹後風土記の羽衣伝説は、峰山地方が舞台となっており、丹波郡比治里の真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女がトヨウケビメ豊受大神)であるという。

 羽衣伝説が何を象徴しているのか、様々な議論がある。その一つに白鳥処女伝説という異類婚姻譚(いるいこんいんたん)がある。人間が、人間と違った種類の存在と結婚する説話で、世界中で見られる。

 これは、古代の部族の者以外(生活習慣の違うもの)との婚姻を起源とする説がある。また、何かと引き替えに、女性が一種の人身御供として異類と結婚するということでもある。

 とくに日本には、他界(死後の世界、神の世界等)と関わると何事か幸を得るという感覚が古来からあったようだ。その代表が、「古事記」の中の山幸彦を助ける豊玉姫(海神の娘でワニの化身)だろう。この両者の子供がウガヤフキアエズであり、ウガヤフキアエズ豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれて神武天皇を産む。

 神武天皇じたいが、異類婚姻譚の結果なのだ。

 そして、羽衣伝説のあるところは、白鳥の飛来地でもある。京丹後において、天女が降りた地は、比治里の真名井だが、比治里という地名から、とりあえず峰山の比治山とされているが、真名井という場所ならば、元伊勢の籠神社の奥宮であり、籠神社が目の前の阿蘇海は、シベリア地方などから飛来してくる水鳥の絶好の餌場や休息地になっている。

 また、近江国の羽衣伝説の舞台である余呉湖のある長浜周辺も、全国でも有数の野鳥の宝庫であり、コハクチョウが飛来する。

 羽衣伝説のもとになっている白鳥伝説は、異類婚姻譚だけでなくもう一つの深い意味があると考えられる。それは、鉄だ。

 近年の研究でもわかってきたが、渡り鳥には、磁場が見えるらしい。”見える”というのは象徴的な意味ではなく、渡り鳥の目の中で、磁場が生化学的な反応を起こしており、それによって渡り鳥は、地球の磁場を知覚することができ、正確に場所を特定して飛んでいるという新しい説が唱えられている。

 鳥の目の中で起こっていることは人間には正確にわからないが、渡り鳥が、磁場を感知することで正確な方向を把握し、飛んでいることは確からしい。

 そして、鉄鉱石や砂鉄は磁性を帯びているため磁場に微妙な変化を起こしているらしく、その近くに絶好の餌場があると、白鳥は、毎年、規則正しくやってくる。

 近江の余呉湖の近く、長浜市木ノ本町古橋地区は、古代の製鉄遺跡が存在し、その背後の金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺にも鉱山跡や製鉄遺跡があり、金糞岳は、伊吹山と並ぶ鉄の山だった。

 また、丹後の比治山を源流とする諸河川では砂鉄がよく採れ、鉄穴流しのタタラ跡が数多く遺っているという。上に述べたハイテク技術の扇谷遺跡も比治山の近くにある。

 さらに弥栄町奈具岡遺跡には紀元前1世紀頃の鍛冶炉が発見されたが、その近くの遠所遺跡は、5世紀末あるいは6世紀前半のものと現状では考えられているが、製鉄から精錬、加工にいたるまで一貫した生産地帯で、古代の製鉄コンビナートというべき大製鉄跡であったことがわかっている。そこから、日本で最も古いものの一つと考えられる砂鉄を原料とした「たたら式」の製鉄炉跡も発見されている。

 しかしながら、天女の豊受大神は、一般的には食物・穀物を司る女神とされている。

 ならば、農耕のための農具をつくる産鉄と関わりがあった可能性がある。

 稲荷神も農業神とされるが、”いな”は、砂鉄という意味もあり、稲荷は、鉄の農具を保管する蔵だという説もある。だから、稲荷神社の狐がくわえている鍵は、農具を保管する蔵の鍵であると。古代、鉄器の威力は農業生産高をあげたが、鉄器そのものが貴重で、貸出制だったと言われ、蔵で管理されたと考えられている。

 そのためか、稲荷神社では、ふいご祭りやたたら祭りなど製鉄と関連する祭りが、よく行われている。

 いずれにしろ、豊受大神(トヨウケ)の“ウケ”および、同じ食物神で亀岡の稗田野神社の祭神である保食神ウケモチ)の”ウケ”と、稲荷神社の祭神である穀物神の“ウカノミタマ”の“ウカ”は、同一の語源なのだ。

 このように見てくると、丹波・丹後には、かなり高度な技術を持った人々が、弥生時代から住んでいた。それは、羽衣伝説に象徴されるように、渡来系の人たちがもたらした技術であり、鉄の技術を含んでいた。

 しかし、第10代崇神天皇の時、崇神天皇の異母弟の日子坐王(ヒコイマスノミコ)が、旦波国に遣はされて、「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」とあるように、二つの集団のあいだで戦闘が行われたということになる。

 そして、この地に攻め込んだ彦座王も、鉄と無縁ではなかった。

 彦坐王は、第9代開化天皇和邇氏の意祁都比売命(おけつひめのみこと)のあいだに生まれたが、古事記によると、息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)という 天之御影神(あまのみかげ)の娘を妃として、二人から丹波道主命が生まれている。

 天之御影神は、鍛冶の神として知られる天目一箇神と同一神とされている。そして、丹波道主命の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)と第11代垂仁天皇とのあいだに第12代景行天皇が生まれ、その子のヤマトタケルが生まれる。系譜で見ると、丹波道主命は、ヤマトタケルの曾祖父になる。

 さらに彦坐王は、母親の妹の袁祁都比売命(おけつひめのみこと)とも結ばれて子孫を残すが、曾孫として息長宿禰王(おきながすくねおう)が存在し、その娘が「神功皇后」である。

 古事記の中でもっとも知られる英雄伝は、ヤマトタケル神功皇后であるが、その二人が、彦坐王の末裔ということになり、さらに、ヤマトタケルの息子の仲哀天皇神功皇后のあいだの子どもが第15代応神天皇という位置付けなのだ。

 こうして見ていくと、彦座王という存在が、大和朝廷の勢力が全国に拡大していく起点になっていることがわかる。

 そうした大和朝廷にとって、丹波・丹後の豊受大神は、鬼として征伐される対象だった。

 しかし、吉備津彦命と同じく、討たれた鬼が、神として祀られることになる。第21代雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、豊受大神伊勢神宮の外宮に祀られるようになったとされる。

 菅原道眞が怨霊として世間を騒がせた後、天満神として信仰されるケースと同じく、怨みをもって亡くなったものが、後に神として祀られることになる。この転換があるから歴史は複雑になる。伏見稲荷なども、秦氏が祀ってきたので秦氏の神様のように言われることがあるが、もしかしたら、この転換かもしれない。

 こうした転換はなにも日本独自のものではない。

 古代ギリシャでも、神的な力のことを「Daimon」(ダイモン)と言い、このDaimonが、悪魔を意味する「Demon」(デーモン)の語源になっている。

 また、古代ペルシャの国教、ゾロアスター教最高神、アフラ・マズターは、「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神で、それが古代インド世界の聖典『リグヴェーダ』の中では生命生気の善神アスラ(阿修羅)となった。

 しかし、しだいに、その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調され、ヒンドゥー教世界では魔族となった。さらにその後、仏教に取り込まれた際には、仏法の守護者となった。

 日本においても、阿修羅は、仏法の守護者であるものの、その本質は、戦闘し続ける鬼である。

 また、古代インドにおける英雄神で最高神のインドラは、古代ペルシャゾロアスター教ではダエーワという悪神で、アフラ・マズダー(アスラ)と敵対する。

 そのインドラは、仏教世界では仏教の善なる守護神、帝釈天になる。

 インドラとアスラ、帝釈天と阿修羅は、ペルシャとインドという二つの大国のせめぎあいの中で、位置付けが変わっていったのだ。

  空海によって日本の宗教世界に大きな影響を及ぼしている密教における最高神大日如来は、その起源はアフラ・マズダーにあると言われる。それは大日如来が阿修羅の性質も帯びているということであり、だから、夜叉(鬼神)の姿の不動明王が、大日如来の化身ということになる。

 畏怖すべき力は、時代背景によって、神にも悪魔(鬼)にもなるということである。

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陰陽五行道の反映か、近畿の重要な聖地を結んで正確な五芒星が描ける。西北の丹後には、伊勢の内宮と外宮に対応するように、伊勢の対角線上に、皇大神社豊受大神社がある。東北は伊吹山で、東南が伊勢神宮、真南が熊野本宮大社、西南が伊奘諾神宮。そして、センターラインの真ん中に、神武天皇ゆかりの橿原、奈良、京都が正確に位置する。しかも京都は、伊勢と丹後、伊吹山と伊奘諾神宮のラインが交差するところで、とても偶然とは思えない。京都への遷都は、この設計図があったからなのか。しかし詳細に見てみると、ラインは、京都の平安京ではなく、もう少し東の下鴨神社のあたりを通っており、奈良も、平城京ではなく、その西にある第11代垂仁天皇の古墳や、佐紀陵山古墳(垂仁天皇の妃で景行天皇の母の日葉酢媛の古墳などがある)を通っている。どちらも、平安京平城京より古い。