京都市の西部、梅宮大社や松尾大社から真南に7kmほど行ったところに、向日市がある。日本で三番目に面積の小さな市だが、この地の向日山を軸にして、その左右に長岡京の左京と右京が広がっていた。
この地への遷都を提唱し、遷都の最高責任者だった藤原種継は、母親が秦氏で、子供の頃は、母の実家のある大原野で過ごしていた。
大原野というのは、向日山の西、4キロ弱のところで、紫式部の氏神である大原野神社が鎮座している。
しかし、長岡京建設途中で藤原種継は暗殺され、暗殺の首謀者として、大伴氏、佐伯氏、多治比氏(後に、菅原道眞の怨霊を最初に説いた多治比文子の氏族)、そして、桓武天皇の同父同母の弟である早良親王が捕らえられ、処罰された。
この事件は、藤原氏による大伴氏など政敵追い落としの陰謀だと言われることがある。
一方、藤原四家のうち、藤原式家と藤原北家の勢力争いが背後にあったと考えることもできる。
というのは、藤原種継は、藤原四家のうち藤原式家だった。藤原式家は、藤原百川が、女帝の第48代称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、天智系の白壁王(のちの第49代光仁天皇)擁立に尽力し、光仁天皇の息子である桓武天皇即位への道を作り、藤原百川の兄である藤原良継の娘、藤原乙牟漏が桓武天皇の妃となり、第51代平城天皇を産む。
(藤原乙牟漏の墓とされる古墳も向日市にあるが、考古学的に、この古墳は四世紀のものとされ、実情と異なっている。)。
この平城天皇を支えたのが、藤原種継の子供たちである藤原薬子と藤原仲成の兄妹だが、この2人は、第52代嵯峨天皇の妃となった橘嘉智子の姉と婚姻によって嵯峨天皇と関係を深めた藤原北家によって滅ぼされた。(810年 薬子の変)
この後、藤原式家に変わって藤原北家が、政界の中枢を担い続けることとなる。
それにしても、なぜ、藤原種継は、向日山の地に都を築こうとしたのか。
自分の母親の実家(秦氏)が大原であり、そこに近いということや、この周辺には物集という土地があり、物集氏は秦氏と同族であったことも理由だろうか。実際に、藤原種継と関わりの深い秦氏一族の者は、長岡京の造営に功があったとして叙爵されている。
秦氏が日本にやってきたのは第15代応神天皇の治世、5世紀の前半と考えられる。
しかし、藤原種継が長岡都を築こうとした向日山一帯は、秦氏が日本にやってくる前から特別の場所であった。
京都の桂川西岸から、向日市、長岡京市、大山崎町にかけて、100基を超す古墳があり、乙訓古墳群と呼ばれる。この古墳群の特長は、首長クラスの古墳が37基確認されており、古墳時代を通じて継続的に築造されている点で、他に例を見ない特殊な大型古墳群である。しかも、古墳前期の頃から、大和政権中枢の大型古墳と同じ要素を備えているため、大和政権と強い関係があったと考えられている。
そのなかでも長岡宮を見下ろす位置にある向日山周辺には、古墳時代前期の古い大型古墳が幾つか存在している。
向日山の南端には、弥生時代の向地性集落、北山遺跡があるが、その北側には、元稲荷古墳という3世紀末頃に作られた大型の前方後方墳がある。
さらに 元稲荷古墳の少し北には、五塚原古墳、妙見山古墳、寺戸大塚古墳という古墳時代前期(三世紀中から四世紀前半)に建造された大型の前方後円墳がある。
五塚原古墳は、国内でも最古級の大型前方後円墳であり、卑弥呼の古墳と騒がれている奈良の箸墓古墳と共通するところが多い。
また、妙見山古墳と寺戸大塚古墳からは、卑弥呼の鏡と一部の人のあいだで騒がれている三角縁神獣鏡が出土しているが、木津川の曲がりのところにある椿井大塚古墳から出土した36面以上の三角縁神獣鏡と同じ型から制作されたものであるため、椿井大塚古墳の被葬者と、向日山の妙見山古墳と寺戸大塚古墳の被葬者が支配関係にあったという説もある。
興味深いことに、向日山から冬至の日に太陽が上る方向に、宇治川にかかる宇治橋がある。そして、宇治上神社の背後にそびえる朝日山がある。向日山は、冬至の日に、宇治の朝日山から上る太陽の遥拝所なのだ。
さらに、この向日山と宇治橋をつなぐ冬至のラインを伸ばしていくと、伊勢神宮の宇治橋である。
宇治の宇治上神社の祭神は、応神天皇と和珥氏祖の日触使主(ひふれのおみ)の娘、矢河枝比売(やかわえひめ)もとのあいだに生まれた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=<仁徳天皇に皇位を譲るために自殺した>であり、宇治は、和邇氏と関わりが深い。
また、向日山から逆方向にラインを伸ばすと、『古事記』の編纂者の1人、稗田阿礼が生まれ育った場所とされる亀岡佐伯郷の稗田野神社となる。
稗田阿礼は言霊を担う猿女氏の人物であり、小野氏(和邇氏の末裔)が、猿女氏を管理し、小野氏のなかから猿女を出していたという記録も残されている。
そのためか、『古事記』のなかで、天皇以外では、和邇氏に関わる記述がもっとも多い。なので、亀岡の佐伯郷も、小野氏と深い関係があった可能性がある。
和邇氏(小野氏)というのは、古代において、言霊と関わりが深い。
『古事記』というのは、まさに言霊である。そして、和邇氏の末裔の一つが柿本氏であり、柿本人麿という日本古代における代表的な言霊の使い手が出ている。また、小野氏においては、小野小町や小野篁など、和歌や漢詩に優れた者が多く出ている。
さらに、小野氏と関わりの深い神社は、大祓の祝詞の中でもっとも重要な神、瀬織津姫を祀っていることが多い。祝詞は、神前で奏上する霊力のある言霊であり、その中でも大祓の祝詞は、日本人が古来から大切にしてきた、「穢れ」「罪」「過ち」を祓う重要な言霊である。
東京(武蔵国)の一宮である小野神社も瀬織津姫が祭神だし、京都市で唯一、瀬織津姫を祀っているのは、京都の北部の小野郷の岩戸落葉神社と大森加茂神社である。どちらも清滝川のそばだが、小野氏(和邇氏)は、宇治川や、小野小町が住んでいた山科の小野郷の山科川、比叡山麓の小野郷の高野川など、河川との関わりも深い。
その瀬織津姫は、向日山から冬至の日の太陽のライン上にある宇治の宇治橋と、伊勢神宮の宇治橋にも祀られている。
それぞれの橋には、橋姫神社、饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)があり、橋姫が祀られているが、橋姫というのは、646年、宇治橋を架けられた際に、宇治川の上流に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりなのだ。、伊勢神宮の宇治橋の方は、後に、宇治の宇治橋に倣って、疫病神や悪霊などの悪しきものが入るのを防ぐために、祓いの神が祀られたそうだ。
宇治の橋姫は、『源氏物語』において、光源氏が姿を消した後から始まる宇治十帖の中の最初に描かれる重要なテーマである。
日本史の中でもっとも優れた文学「源氏物語」の作者である紫式部は、小野氏と関わりが深い。
京都の西陣の地に紫式部の墓があるが、なぜか、小野篁と隣り合わせになっている。
そして、紫式部の曽祖父、藤原定方の母は、山科の小野郷の豪族、宮道氏の娘である。
紫式部の氏神である大原野神社と、紫式部の曽祖父、藤原定方の母の実家の山科の小野郷は、同緯度の東西のライン上(北緯34.96度)にあるが、向日山の元稲荷古墳の北の乙訓古墳群(寺戸大塚古墳、妙見山古墳、五塚原古墳)も、ほぼこのラインと近いところにある。
さて、話を長岡京のことに戻す。
秦氏を母親にもつ藤原種継が暗殺された後、大伴氏、佐伯氏らとともに早良親王も処罰され、親王は無実を訴えながら悶死する。
その後、長岡京には、不吉なことが次々と起こり、桓武天皇は、早良親王の祟りと恐れ、長岡京から平安京への遷都を決断する。
だとすれば、平安京は、まさに祟りへの対応策として建設された都だということになる。
平安京の要である大極殿から丑寅の方向、すなわち鬼門に位置するのが比叡山の麓の八瀬であり、ここは古くからの小野郷である。
早良親王が祀られているのは、この小野郷の崇道神社であり、崇道神社の境内から小野毛人(遣隋使で有名な小野妹子の息子)の墓が発見された。
さらに、この鬼門のラインをのばしていくと、琵琶湖に面した和邇の地、小野郷であり、ここには和邇氏の有力者の墓と考えれている春日山古墳群、小野妹子の墓、小野神社などがある。
さらに、平安京の大極殿から東南(風門)の方向にあるのが、小野小町や小野篁が生まれ育った小野郷である。そして、西南(人門)は、大原野神社であり、ここは、紫式部の氏神であり、藤原種継の母の実家(秦氏)があった場所となる。
大原野神社一帯は春日という地名だが、春日氏というのも、小野氏や柿本氏と同様、和邇氏の末裔である。
この三つの門は、正確に、大極殿から東北、東南、西南に位置している。もう一つの門が、魑魅魍魎が入ってくる天門(北西)であるが、大極殿の天門を鎮めるために造られたのが上京区の大将軍八神社なのだが、平安京遷都に当たって、桓武天皇は、下鴨神社で造営祈願を行なった。下鴨神社は、大極殿の東北の鬼門にあたるが、その下鴨神社から北西、天門の位置にあるのが、清滝川上流の小野郷なのだ。
このように、平安京を守る四方位に和邇(小野)が関係している。
そうすると、秦氏を母に持つ藤原種継が遷都を提言した長岡京で天災や疫病など不吉なことが続いた後に移った京都は、小野(和邇)の霊性に守られた場所だということになる。
向日市の乙訓古墳群の妙見山古墳や寺戸大塚古墳との関わりがあるとみられる椿井大塚山古墳がある木津川の曲がりは、和邇氏の拠点だった。系譜の上での神功皇后の祖先は、和邇氏の母から生まれた彦座王(第10代崇神天皇の腹違いの弟。崇神天皇の母は物部氏)と和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)のあいだに生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)であり、この王の名は、王の名は地名に由来しており、山城国綴喜郡、木津川に沿った井手町あたりと考えられる。
そして、不思議なことに、この椿井大塚山古墳と、和邇氏と関わりの深い宇治の地の朝日山、山科の小野郷、比叡山麓の小野郷は、東経135.816度という精密な経度の南北ライン上に位置しているのだ。
亀岡の佐伯郷は、犬飼川を通じて桂川に至り、桂川は向日山のそばを流れる。そして、桂川は、大山崎で宇治川と合流する。京都西南の小野郷を流れる山科川も伏見桃山で宇治川に合流する。京都東北の小野郷の高野川は鴨川と合流し、さらに桂川と合流する。
椿井大塚山古墳のそばを流れる木津川も、宇治川や桂川と合流する。
すべての地は川でつながっているが、宇治川、木津川、桂川の大河の合流点が大山崎であるが、そこにあるのが、乙訓古墳群で最大の恵解山古墳(いげのやまこふん)で、この古墳は、五世紀の前半に造られた全長120mの前方後円墳である。
恵解山古墳の位置は、向日山の真南、東経135.697度である。
この古墳の最大の特徴は、副葬品の鉄製の武器だ。この古墳からは、大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見され、古墳からこのように多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しい。
こうして順々に見ていくと、向日山周辺には、弥生時代から人々が住み着き、3世紀末には元稲荷古墳という大型の前方後方墳が築くほどの勢力を持つ豪族がいた。古墳時代前期、この地域の豪族は、妙見山古墳や寺戸大塚古墳の被葬者のように、木津川流域の椿井大塚山古墳の被葬者と関わりがあり、奈良のヤマト政権ともつながりがあった。
しかし、五世紀の前半、応神天皇の頃、秦氏など多くの渡来人が日本にやってきたが、彼らは、鉄製の武器制作の技術なども所有し、日本の権力構造を変えた。
超大型の古墳が、次々と河内の地に造られるようになり、木津川、宇治川、桂川の合流付近でも、鉄製の武器によって支配力を強めた豪族が現れた。
そして、その頃より、向日山周辺には物集女氏(秦氏と同族)が住み、秦氏は、桂川流域の開発を積極的に行い、平安京遷都の前に、長岡京から平安京にかけての地域に、勢力を広げていた。
秦氏とつながりの深い藤原種継が、長岡京への遷都を提言した背景には、そのあたりの歴史的実情があったと思われる。
しかし、長岡京の後、平安京の造営においては、和邇(小野)氏の霊性が関わっており、秦氏と和邇氏の関係がどういうものであったか、謎は残る。(つづく)