第1062回 それぞれの世紀末 

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 タルベーラ監督の『サタンタンゴ」。7時間18分という驚くべき長さを誇る映画だが、カット数は、わずか150カット。

 ハリウッド映画を見習ったような俳優の動きで物語を作り出していくようなタイプの映画は、2時間たらずで、1000から3000カットになるが、それらとは比べものにならないタルベーラ監督の濃密な映像世界。

 撮影を途切れさせずにカメラを回し続ける長回しの撮影方法を主体にした映画は、偶然性がもたらす面白みを強調する狙いのものがあるが、タルベーラ監督の狙いは、そうした賢しらなものではない。

 タルベーラ監督の映画には、超越者の目で、人類世界を観察しているといっても過言ではない厳密さがある。

 ハンガリーのある村。降り続く雨と泥に覆われ、沈鬱な村の中で、男2人が村人たちの貯金を持ち逃げする計画を企てている。その話を、男の女房の不倫相手が盗み聞きし、自分もその話に乗ることを持ちかける。

 希望が失われた狭い村の中で、姦淫や酒宴などが繰り返され、その様相は、黙示録の中のソドムとゴモラを連想させる。

 そうした村人たちの有様を、身体を動かすだけでも大変な太っちょのドクターが家の窓から、酒を飲みながら観察し続けている。深刻な生活習慣病であるに違いないドクターを、村人たちは、先は長くない命と観ている。

 狭いところに閉じ込められた村人たちの酒池肉林の喧騒の渦のなか、涼しい目をした1人の少女が、世の中にやりきれないものを感じている。そして、天使の迎えを信じて、猫に飲ませた猫いらずを自分も飲んで自死する。

 その時、村に、死んだはずの男が帰ってくる。

 偽キリストのような風貌のその男の演説に、簡単に引き込まれる村人たち。

 他に何も劇的な転換が起こらないという閉塞感と絶望感のなかにいる村人たちは、おそらく、かつてその男に、うまい話を持ちかけられ、疚しい気持ちとともに、それなりに美味しい味をしめていたにちがいない。彼らは、その救世主のような若い指導者を恐れながらも、何かを期待している。

 そして、村人たちは、その男の流暢な言葉による罪と罰、改心、救済の話を聞き、催眠術にかけられたように、新しい夢物語のために、なけなしのお金を出し合って、新天地を目指して、凍えそうな大地を移動していく。あたかも聖書のなかのエクソダス出エジプト記)のように。

 しかし、廃墟のような洋館で雨と寒さに一晩耐えた後、焦らされたあげく、ようやく彼らの指導者がやってくる。そして、村人たちの期待を打ち砕く。エデンの園のような素晴らしい農園を築く夢の実現のために、少し我慢しなければならないんだと指導者に諭され、村人たちは、少し抵抗したものの素直に従い、再び、夢の中のエデンの園を離れ、街に出て、洗濯屋や肉屋など、あらかじめ決められ、指示された役割の仕事につく。彼らは、管理された仕事の中で、真面目に働かされるのだ。どうやら、偽救世主の背後には、今日の日本社会にも見られるように、正規であれ非正規であれ労働者として働くことがマトモで、それが国の発展につながるという思想の権力機構が関与している。

 夢というのは、彼らを操る餌でしかない。

 村人たちは、復活した偽キリストのような死んだはずの男に、夢物語で操られる。おそらく、以前にも同じようなことがあった。

 何度、騙されようとも、どん詰まりのなかで、夢物語だけが、支えなのだ。

 いったい地獄とは、どの局面のことをいうのか。

 日本社会においても、朝から晩まで奴隷のようにこき使われて働かされ、自分はロクなものを食べていなくても、マイホームや、子供達の出世を夢として思い描くことができるからこそ、頑張ることができる。それを、救いがない人生と捉えるかどうかは、その人次第だ。

 れいわ新撰組山本太郎代表は、自分はこの地獄のような世の中作った側」と言っているけれど、日本社会における地獄とは、タルベーラ監督の「サタンタンゴ」つまり、悪魔のタンゴのなかの、寂れた田舎での生活のことか、街に出て決められた役割の仕事を繰り返すことか。

 幸も不幸もその人の意識の持ち方次第なのだけれど、タルベーラ監督の映画は、美しい悲劇であり、人類の宿命としての悲劇を受け入れるために、壮大なまでに美しく描かれている。できるだけ恣意性を入れずに、ありのままを伝えようとして、ロングショットで、長回しをしても救いは幻想のようにしか感じられず、その悲しい現実から逃れるためには、世界を直視する観察の目を閉じるしかないのだろうか。

 キリスト教世界の思想を持たない日本人である私は、まずは、タルベーラ監督の世界認識の厳しさに圧倒される。そして、その世界認識に対する誠実さ、賢しらなごまかしなど一点もない真摯さに心打たれる。そして、だからこそ立ち上がってくる美に引き込まれる。

 数日前、たまたまテレビのチャンネルをつけたら日本の女性写真家が作った映画が放映されていて、5分ほど観たが、その絵作りのあざとさ、浅はかさ、汚さに唖然とした。色使いだけ派手に演出しているが、どの部分をとってもごまかしでしかない。役者の表情作りも、役者が演じているということが、あからさまに感じられる。

 タルベーラ監督の映画に没入すると、画面の中に存在する人が役者であるという認識が消える。顔面のクローズアップを、360度ぐるりと長回しのカメラで捕らえ続けているシーンがあるが、その時間に耐えられる役者は、もはや役者ではなく、実存そのものである。

 比較するのは気の毒だが、その日本の女性写真家が映画監督として持ち上げられる日本の映画産業は、もう表現においては、堕落の一方としか言いようがない。 

 日本人には、タルベーラ監督が描くような終末世界は描けない。描く必要はないが、だからといって、表現者自身が、ソドムとゴモラや、エクソダスの中で右往左往する人々の一部になっているという現象は悲しい。

 タルベーラ監督の描く黙示の世界は圧倒的にすごい。そして、このサタンタンゴは,

キリスト教世界を背後に持つ西洋人の究極的到達点の一つだと思う。

 この表現は、とてつもなく深く壮大ではあるけれど、それでも、西洋的世界観の限界があるとも思う。映画を観終わってからも、ずっとそのことを思っていた。

 どん詰まりの行き止まりのなかで、バタバタと救世主の到来を待つか、静かに救世主の到来を待つか、どちらしかないのか。

 同じような、混沌とした世界のなかで、生きることに翻弄されながら、そして何も劇的な転換が起こらなくても、そんなことは期待せず、達観したような静かな美しさの中で生きるという世界観があり、それを、優れた日本の表現者が行っている。

 写真でいえば、鬼海弘雄さんの「アナトリア」や「インド」や「ペルソナ」があるし、映画だと、小栗康平さんの「眠る男」がある。

 小栗さんの「眠る男」や、鬼海さんが撮った「アナトリア」や「インド」は、風景や人物の捉え方はタルベーラに近いものがあるけれど、終末観の気配すらなく、人間は、古代からずっとこうだったという普遍性の肯定感が漂う。

 タルベーラ監督は、ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスとともに、20世紀が生んだ至高の表現者であることは間違いなく、心から尊敬するが、彼らを賞賛しているだけでは、明治維新の頃から続く西洋コンプレックスと大して変わらない。

 キリスト教世界の縛りがない自由さのなかの世界表現というものがあるはずで、日本の表現者の中にも、歴史を辿ればその実践者はいるのだ。

 タルベーラの表現の凄さと程遠いところで安住し、私は私の道を行くというナイーブな自己顕示欲で、賢しらなことをやっているだけのことを”自由な表現”と言っている人も多いが、自由のインフレーション状態は、自由の価値を損なっていくだけ。自由をいくら積んでも、本当に欲しいものが手に入らないのだから。

 それと、最近、「こういうのもアートとして成り立つよね」みたいな、目先を変えたり、その瞬間だけ、固定観念に刺激を与えたり、愛知トリエンナーレみたいに、政治的なアイコンで問題喚起しようとしたり、その問題喚起で生じるであろう騒動を劇場型アートのように想定したり、なんでもありの状況を表現の自由と称しているけれど、その程度のことが表現の自由なのだろうか。

 天皇制というのは、もしかしたら西洋人のようなキリスト教世界を背景にもたない日本人の縛りの一つかもしれない。

 しかし、昭和天皇の肖像写真を燃やすという映像を、タルベーラが観たら何と思うだろう。それを、自由な表現と思うだろうか。

 キリスト教が、意識しようがしまいが西洋人の文化に深く根を張っているように、天皇制も、日本人の文化に深く根を張っている。

 その根の部分を配慮せずに、表面的な部分だけディスリスペクトする現象を、自由な表現だと開き直る表現界にすぎないのなら、表現に関わっていない人は、もはや表現行為を、無聊の慰めとして消費することがあっても、リスペクトすることはなくなるだろう。

 しかも、その決定において、芸術監督が、「1代前の天皇なら刺激が強すぎるが、2代前なら、歴史上の人物、昔の人というイメージだから、それほど問題にならないんじゃないか」と、つまり平成天皇ではなく、昭和天皇だからまあいいんじゃないの、という程度の認識でゴーサインを出したと知り、この国の現在のアート業界の底の浅さに愕然とした。

 西洋であれ日本であれ、それぞれの文化風土の最深部まで降りていって、現実世界と重ね合わせて、根底から人々の認識を揺さぶり、人々の意識を再生するという、魂の救済の表現が必要な黙示の時に我々は生きているのに、ソドムとゴモラの一部としか感じられない現象が、表現世界にも多く見られる。 

 日本にも、タルベーラ監督に匹敵する表現者はいる。しかし、西欧においてタルベーラ監督が、一般の人々ではなく表現者や批評家に敬意を持たれているのに対して、日本においては、一般の人々に受けのいい表現者を、表現に携わる人たちや批評家たちが、下駄を履かせて持ち上げることが多い。その結果、次の担い手が、誰を目標にすべきか見誤る。見誤っていない慧眼の持ち主は、孤立する。これが日本の世紀末なのかもしれない。

 世紀末の時代において、対立構造を煽るようなものは偽救世主でしかない。

 「相手との関係において反発原理ではなく、何らかの接点を取って崩す、この場合、<崩す>とは相手を打ち負かしたり、抑えつけたりすることとは違う。相手を自分との一種の融合に導くことです。」と、前田英樹さんが、『剣の法』という本の中で述べているが、この言葉のような表現が、きっと、剣の法を極めた日本の文化風土の中から生まれてくるに違いないと夢想している。