第1063回 時間の流れ

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 タルベーラ監督の『サタンタンゴ』について、さらに重要なポイントについて、考えてみたい。

 7時間を超えるこの映画を構成している僅か150カットの長回しのシーンの一つひとつ。5分を超える長回しの撮影のあいだ、カメラは固定されておらず、動き続けているのだが、この長回しの時間の心地よさにどっぷりと浸っていると、カットが切り替わる瞬間、突如、世界が寸断されたような違和感を感じる。

 カットチェンジが当たり前の映画を観ている時には得られない違和感だ。

 流れている時間が止められてしまうと、そこで息づいていたものが、世界から切り離されてしまうような感覚になる。

 この流れ続ける時間の中への没入は、映画の最初のシーンから始まる。

 ハンガリーの大地、牛たちがゾロゾロと小屋から出てきて、それをロングショットで観続ける。牛が相手だから、おそらく演出の手が入ってはいないだろう、牛たちは、めいめい草を食んだり、交尾をしたり、自由に振舞っている。そしてまた移動していく。カメラがそのまま横に横にズレていき、しばらく建物の壁だけを映し出しているが、壁が途切れたところで再び、牛がカメラの視点の中に入ってくる。観察していない時も、牛の時間は変わらず流れ続けていることが感じられる。その後、牛たちは、向こう側へゆったりと遠ざかっていく。

 カットチェンジでその存在が消されるのではなく、カメラの視点から消えても、牛たちの時間は、永遠にあり続けることが予感できる。

 こうした時間が、7時間を超える映画全体に流れ続けている。

 今から120年前、フランスのリュミエール兄弟が創造した世界初の映画は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したものだった。

 静止画では伝わらなかった時間の動きが、眼前の蒸気機関車を通して大迫力で捉えられた。それが初めての映画体験だった。

 静止画にはない映画の力は、そこにあった。映画のワンショットの中では、決して時間は逆戻りできない。

 しかし、映画のテクニックは多彩になり、編集技術も発達し、無数のカットが上手につなげられて、映画は、恣意的に時間を操作したものを楽しむものになっていった。

 静止画像を編集したスライドショーに、音楽とナレーションをかぶせて同様の効果を作り出すことも可能だ。

 映画は、20世紀が生み出した芸術表現であり、おそらく、20世紀の芸術家でもっとも尊敬され注目を集める表現者であったと言ってもいいだろう。画家や音楽家や小説家よりも、映画監督の方が世間ではよく知られている。

 映画は、20世紀文明の利点と欠点をもっとも併せ持った表現なのかもしれない。

 タルベーラ監督は、誠実なる映画表現者として、今日の映画の問題点も強く意識していたと思われる。

 タルベーラ監督は、インタビューの中で、最近、作られる映画は、アクションとカットの繰り返しで物語の構造が一直線で語られていることが多いように見受けられます。収益のため、市場のために作った作品でないのなら、人生というものは何かというものを見せたいのです。そのためには自然や空間や時間というものをしっかりと捉えなければならない。その結果、7時間以上の作品になったわけです。そもそも、映画は1時間半くらいの尺だと誰が言ったのでしょう?と答えている。

 映画館での興行のことを考えると、2時間くらいの長さがちょうどいい。その2時間を使って、あらかじめ準備した物語にそって、必要なカットを揃えていく。終わり方は決まっている。だから、時間は、最初から最後まで、一直線に積み重ねられていく。

 このような映画の作り方は、無意識のうちに私たちの時間観、世界観、人生観に影響を与えているかもしれない。

 人生もまた、70年とか80年とかの枠のなかで、ラストに向かって、最初に決められた計画にそって積み重ねられていく。途中、劇的で盛り上がるシーンも欲しいし、随所に楽しめる効果的な演出も必要。そのすべてが虚構とわかっていても、時間を楽しんで消費できればそれでいいという人生観。

 また、タルベーラ監督は、「サタンタンゴ」の映画のなか、人々が酒場で踊るシーンでは、「演者たちに実際に酒を飲んでもらい、みんな酔っ払いに近い状態で自由にやってもらった。自分で演出するより100%よかったと確信している」とも言っている。 このシーンは、とてつもない長回しであり、自由にやっていることで、次第に無秩序になっている状況が、自然に撮られている。

 短い時間のカットチェンジで同じことを演出しようとすると、わざとらしくなるに違いない。 サタンタンゴの中の牛や馬や豚などの動物たちのシーンも同じで、演出のない動きは、長回しの時間のなかでこそ、ある種の必然性に導かれていく。

 人間も含めた生物は、管理されなくても、ホメオスタシス(恒常性維持機能)によって、なるべくしてなるようにできており、それが自然界の姿なのだ。 こうした自然から人間を引き離していったのが20世紀文明であり、20世紀を代表する表現である映画は、感性面において、その推進役になってしまった。不自然であることを不自然であると感じさせないように、人間の感性を導いていく手助けをしてしまった。

  映画表現を心から愛し、映画表現の可能性を信じ、映画表現に対して常に誠実にあり続ける映画監督なら、今日の映画のこのような状況に胸を痛めない筈はない。 タルベーラ監督の凄さは、自分の作品において、その思いを見事に昇華させていることだ。映画という巨額のお金と大勢の人々の協力が必要な表現で、この世知辛い世の中、それを可能にしているのは奇跡のように感じられる。

  時間は、大きな川の流れのように蛇行しながら不可逆的に進むものであり、スタートからゴールまで一直線上に存在していて、その中身を好き勝手に編集できるといったものではない。 そして、その川の流れにそって様々な風景があり、空間がある。 「サタンタンゴ」は、その長さといい、長回しの撮影といい、この映画の体験者は、時間というものを意識せざるを得ないし、時間と向き合わざるを得ない。 

 そして、サタンタンゴは、西洋世界の根底に流れるキリスト教思想の世紀末の気配が濃厚な映画でもある。 人間は、行き詰まりにきている。その感覚は、実際にその状況を変えるために行動している人も、何もしようとしていない人も、共有しているものだろう。 そして、その行き詰まりの原因を、環境問題や政治問題という自分の外部に求める人も多い。 しかし、自分の外部における闘いは、政治の分野の仕事であり、芸術表現は、自分に引き寄せて深く感じ、深く考えるところに本分がある。

 人生の問題も、環境の問題も、そして自由の問題も、自分の世界認識の仕方と大きく関わっている。そして、その世界認識は、時間認識と切り離すことはできない。

  タルベーラ監督は、長回しのショットは、人生について何かを語ろうとするときに、より完璧なものに近づくことができる方法だと思っています」と語っている。

 リュミエール兄弟が、スクリーンに短時間ながらも時間の動きを出現させ、人々を驚かせてから120年が経つ。

 映画は、その始まりから、時間の問題を哲学的に意識せざるを得ない表現だった。それは、他の表現方法にはないものであり、だとすれば、映画表現が花開いた20世紀という時代も、時間認識の在り方が、問題の根っこに横たわっている可能性がある。

 三世代後の子孫のために樹木を植えることが、当たり前の感覚でなくなった20世紀の人類社会。ここにも時間の問題が関わっている。

 タルベーラ監督の「サタンタンゴ」は、人間によって操作されていない本来の時間の流れへと観る人を深く誘いながら、その時間の中で牛や馬と同じように生命を帯びる人間の息遣いを伝え、同時に、その生命の摂理を阻害する横暴な力の存在を、静かに、哀しく暗示している映画だ。