第1069回 日本の古層(16) もののあはれ源流 古事記と和邇氏、そして空海の時代(下)

(前回の続き)

 そして、人間行為が幻にすぎないことを知り尽くしながら、それでも人間的行為を永遠に化することを希求する日本人が創造したものは、”もののあはれ”だけではなかった。

 それは、人工と天の摂理を組み合わせることだ。大陸から学んだ陰陽道などを通して、天の摂理と人間的行為のあいだに矛盾が生じないようにする日本独自の方法が作り出され、修験道などで、天の摂理と人間存在を一体化するような修行も行われた。その中で空海は、傑出した人物であり、現在まで続く様々な痕跡を数多く残している。

 明治維新政府によって、仏教の地位が下げられ、天皇を唯一の神のように祀り上げるため、空海も、単なる歴史上の一僧侶として扱われた。そして、教育のなかでも最澄と同じ平安時代を代表する人物としてのみ教えられるようになった。

 しかし、日本史のなかで、空海最澄は、大きく異なる。最澄は偉大な僧侶かもしれないが、空海は、一僧侶ではなく神のように崇められてきた。現在でさえ、弘法大師のことを”信仰”する年配の人は多い。

 それは、高野山奥の院を訪れて、空海廟の前、はるか彼方まで連なる戦国大名の墓などを見れば、中世において、いかに空海の神力が崇敬されていたかわかる。

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高野山 奥の院

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高野山奥の院。参道には織田信長武田信玄豊臣秀吉伊達政宗など戦国時代の大名たちをはじめ、その数20万基と言われる石塔が並ぶ。高野山の信者にとって空海は今も生きて瞑想を続けていると信じられ、空海の入滅後1200年にわたって、空海廟に食事を運ぶ生身供(しょうじんぐ)が続けられている

 空海に関する伝説は数多くあるが、伝説ではなく具体的な形として、空海が残した不可思議な永遠を、現在の私たちでも確認できる。

 たとえば、空海の所縁のある聖域は、太陽や星の運行と極めて精緻に重ねられているところが非常に多い。

 この地図は、ほんの一例である。*このラインは、この外にも続くが、話が長くなるので、今回はこの範囲に限定。

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 上の地図で、高野山奥の院空海廟は、水平ラインの右から二つ目で北緯34.22度。そして、その水平ライン西の端のポイントが讃岐の善通寺で、空海が生まれ育った場所であるが、ここも34.22度。東のポイントも同緯度で、天河弁財天。厳島竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつで、宗像三神の市杵島姫を祀っている。

 空海は、「もし、厳島神社と気比神宮に何かのことがあれば、高野山の私財を投げうってでも、社殿の復興に尽くさねばならない」と遺言しているのだが、空海の出身は讃岐の佐伯氏で、安芸の宮島厳島神社の創建も同じく佐伯氏の佐伯鞍職で、歴代の神主も主に佐伯氏であったが、空海は、そんな親戚づきあいのことを言っているのではなく、おそらく、日本の歴史上、宗方の名が意味するものへの尊重が含まれている。

 そして、水平ラインのもう一つのポイントは、和歌山の日前神宮國懸神宮。アマテラスを岩戸から呼び出すために作られた鏡で、けっきょく使用されなかった鏡が御祭神という、日本の歴史上、重要であるけれど不可思議な立ち位置の聖域である。

 垂直のラインは、上から京都嵯峨野の天龍寺大山崎の天王山の自玉手祭来酒解神社(酒解神社)、空海の創建で空海と北斗七星の伝説がある星田妙見宮、そして、生駒山二上山金剛山という古代史で重要な聖山が続き、その一番下が、犬飼山転法輪寺である。

 この垂直ラインは、すべて東経135.67度。

 一番北の天龍寺は、今は観光客で賑わう庭園で有名な寺で、室町時代の創建だが、空海の時代、この場所は、第52代嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子が作った日本初の禅寺、檀林寺だった。そして、ラインのその下にある大山崎の自玉手祭来酒解神社(酒解神社)は、橘氏の祖先神を祀っている。

 空海は、嵯峨天皇橘嘉智子に信頼され政策上でも支持されていた。それはほとんど帰依という関係だった。

 地図上の垂直線の一番下にあたる犬飼山転法輪寺というのは、空海高野山に導いた狩場明神と出会った場所である。狩場明神が犬を二匹連れていた話はよく知られているが、狩場明神の別名は、犬飼明神という。

 そして、橘嘉智子の出身の橘氏は、県犬養氏で、同じ犬養だ。県犬養氏は、古代最大の内乱である壬申の乱(672)の時、天武天皇を支え、その功績により橘姓を賜った。

 そして、古事記が編纂された元明天皇(在位707-715)の時、元明天皇にもっとも信頼されていた人物が県犬養三千代で、彼女は藤原不比等と再婚し、彼女の力によって、当時、下級官僚だった藤原不比等は出世することができた。

 その後、第45代聖武天皇の皇后となった光明子は、藤原不比等県犬養橘三千代の娘である。

 『古事記』を文字にして残す作業の時、フミヒトと呼ばれる文章能力を備えた渡来人の集団が活躍したようだが、フミヒトが住んでいた場所は、大阪の古市郡(現在の羽曳野と富田林のあいだあたり)で、そこは、県犬養氏の拠点だった。

 古事記のことを藤原不比等の陰謀のように言う人がいるが、古事記を読んでも、藤原氏が特別に扱われているようには感じられず、藤原氏よりも和邇氏の存在の方が気になるくらいだ。

 もしかしたら、古事記への影響は、藤原不比等ではなく県犬養三千代の方が大きかったかもしれない。太安万侶は、古事記の序文のなかで、天武天皇ではなく県犬養三千代への信頼の厚かった元明天皇のことを讃えている。

 県犬養氏の祖は謎だが、海人の隼人であるという説もある。

 隼人といえば阿多隼人が知られているが、和邇氏の祖は、阿太賀田須命(あたかたすのみこと)であり、宗方氏の祖も同じ人物で、和邇氏と宗方氏は同族ということになる。そして、ともに”阿多”と関係がある。

 阿多に関して、神話のなかでもう1人重要人物がいる。それはコノハナサクヤヒメで、『古事記』では、本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)と言う。

 阿多のことは日本の古代史を考えるうえでもっとも重要なテーマの一つである。

  嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子は、県犬養三千代が創建した梅宮大社を、木津川のほとりから京都の桂川のほとりへと移した。

 梅宮大社の祭神に、天孫降臨のニニギに嫁いだコノナサクヤヒメがいる。

 そして、コノハナサクヤヒメは、富士山と結びつけられているが、天孫降臨のニニギと出会った場所は九州である(宮崎の延岡の愛宕山とされている)。

 鹿児島の桜島は、北岳と南岳からなる複合火山で、北岳(御岳)は筑紫富士と呼ばれているが、桜島という名となった理由の一つに、島内にコノハナサクヤヒメを祭る神社が鎮座していたので咲耶島と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となったという説がある。

 実際に、桜島の月読神社でコノハナサクヤヒメを祀っている。そして、この月読神社は、伊勢の豊受神を祀る外宮のそばの月夜見神社や富士山、そして、武蔵国一宮の小野神社(聖蹟桜ヶ丘)と冬至のラインで結ばれている。小野氏の祖は和邇氏であり、和邇氏の祖が阿多なのだから、桜島、伊勢、富士山、小野神社を結ぶこのラインは、おそらく阿多と関係するものである。

 いずれにしろ、天孫降臨したニニギと、すでに地上にいたコノハナサクヤヒメとのあいだに生まれた山幸彦が天皇家の後継となる。

 この構図は、初代天皇神武天皇の時も同じで、日向からヤマトに来た神武天皇は、日向の女性とのあいだにできた息子ではなく、ヤマトに来てから出会ったヒメタタライスズヒメを皇后とし、彼女とのあいだにできた子供を世継ぎとする。

 しかも、ヒメタタライスズヒメは、出雲系とされる事代主と、摂津の豪族、三島溝杭(下鴨神社の祭神、賀茂建角身命とされる)の娘のタマヨリヒメとのあいだにできた娘である。

 ニニギと同様、神武天皇でも、異なる氏族のグループが婚姻を通して和合していくプロセスが繰り返されており、これは、大国主の国譲りにおいても同じだ。国譲りを主導したタカミムスビが、大物主神大国主の和魂)に対し、国津神を妻とするなら心を許していない証拠、だから自分の娘の三穂津姫を妻とするように求めている。

 日本の古代は、氏族間の対立を解消するために、こうした和合のための婚姻が繰り返されているのだ。

 県犬養三千代藤原不比等のあいだに生まれた光明子が第45代聖武天皇に嫁いだことも、三島溝杭の娘と事代主のあいだに生まれた姫が、神武天皇に嫁いだことに等しい。

 そして橘嘉智子は、自分が生まれる50年前に世を去った県犬養三千代のことを強く意識していたことは間違いない。犬養三千代が、現在の京都府綴喜郡井手町に創建した梅宮大社を、わざわざ自分が拠点とする京都の嵯峨野の近く、桂川のほとりの松尾の地に移した。梅宮大社の祭神は、酒解神酒解子神大若子神小若子神で、橘氏の祖神ともされるが、梅宮大社では、大山祇神木花咲耶姫命・ニニギ、山幸彦としている。

 つまり天孫降臨の構図である。

 そして、橘嘉智子は、橘氏でありながら同族の橘逸勢よりも藤原氏の冬家との結びつきを優先し、嵯峨天皇とのあいだに仁明天皇を産む。絶世の美女だった橘嘉智子は、禅に深く帰依し、一切の執着をすて、自分の死に臨んでは、「自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、また「諸行無常」の真理を自らの身をもって示すために、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示し、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説があるのだが、自分の子供である仁明天皇への世継ぎに関してだけは執念を燃やし、同族の橘逸勢や、自分の娘の正子とさえ確執を産んだ。(842年 承和の変

 自分個人の肉体の滅びへの執着はないが、古代から連なる永遠の糸を、そして阿多の記憶を、息子へと託す思いだったのだろうか。

 古事記の中で、多くの和邇氏の女性が、天皇に嫁ぐことになる。しかし、それらの物語は政略結婚という類のものとは思えず、コノハナサクヤヒメとニニギのように、異なる背景を持つ人間の和合である。

 県犬養三千代の時代に形として残された古事記も、橘嘉智子の時代に活躍した空海が残した痕跡も、異なるものを和合する思いが込められているように感じられる。

 聖武天皇光明皇后は、仏教の力を借りて、なんとか国を平安に導こうと努力はした。特に光明皇后は、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である施薬院」を設置して慈善を行った。さらに、重症の癩病患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来(あしゅくにょらいであったという話はよく知られている。

 そして、空海が生きた橘嘉智子嵯峨天皇の時代には大規模な軍縮が行われて、それから平安末期まで、盗賊は増えたものの、戦争のない平和な時代が続いた。日本史のなかで最も長い平和の時代である。

 この二つの時代は、氏族間の血なまぐさい戦いが繰り広げられていたことも共通している。

 さらに、古事記の時代と空海の時代に共通していることは、県犬養氏橘氏)の二人の女性である。県犬養氏も、コノハナサクヤヒメを祀っているのを見ると、宗方や和邇氏と同じ阿多を祖とするのだろう。

 倭国大乱の後の卑弥呼やトヨの時代、男ではまとまらない世の中を女性が太陽となって和合させたが、県犬養氏の2人の女性は、古事記和邇氏の女性のように、陰の力となって和合させようとしたのかもしれない。

 

✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world