第1070回  日本の古層(17) 異なる世界の和合。聖武天皇の謎の遷都と、空海の時代(1)

 

 前回の記事で、空海の時代(平安時代初期)と、古事記から聖武天皇の時代(奈良時代初期から中期)における2人の県犬養氏橘氏)のことに言及した。

 そして、この二つの異なる時代に重なる不思議なことがあり、そのことについて書いてみたい。

 古代史には謎が多いけれど、その中でも、奈良時代聖武天皇が遷都を繰り返した理由が、未だにわかっていない。

 当時は、奈良の平城京(710〜)が都であったが、第45代聖武天皇は、740年に平城京の北、木津川のほとりの恭仁京に遷都する。その後、10年間に、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻るという、目まぐるしい遷都が繰り返されている。しかも、その間、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。

 この10年、聖武天皇は、まるで何ものかから逃れようとするかのように遷都を繰り返し、仏教への傾倒を深めているのだ。

 しかし、かつては、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例もあったようだし、聖武天皇に限らず、たとえば第26代継体天皇は、即位の後も大和の地に入らず、19年間にわたって、淀川沿いと木津川沿いで、三度、皇居の位置を変えている。

 なので、聖武天皇の遷都に限らず、それ以前の都もまた、なぜその場所を拠点としたのか、なぜそこに移されたのかということは、十分、考えるに値することである。

 たとえば、694年から日本の首都となった藤原京は、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れた日本が、壬申の乱という古代日本最大の内乱を経て、律令制という中央集権的な政治体制によって国を一つにまとめて外敵に備え、国力を安定させようとする意思のもとに築かれた都だといえる。

 その藤原京は、大和三山のど真ん中に位置していることはよく知られているが、それだけでなく、三輪山と和歌山の日前神宮・国懸神宮とのあいだを結ぶ冬至のライン上に位置している。

 南北や東西のラインのことはわかりやすいが、冬至のラインというのは、冬至の日に太陽が沈む、もしくは夏至の日に太陽が登る(その逆もある)方向に、ラインが引かれているケースである。

 古来、冬至は特別の日だった。現在、クリスマスで祝うキリストの誕生日というのも、もともとは冬至の日だったと考えられる。

 太陽の力が一番弱くなる日。そして、翌日から太陽が力を取り戻していく日。それは、生命の復活と結び付けられていた。

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一番上が平城京、その真南が弥生の大集落の唐子・鍵遺跡、その南の三角のポイントが、耳成山(上)、畝傍山(左下)、香具山(右下)で、この三つの山に囲まれている場所が藤原京。その東のポイントが三輪山。西のポイントが和歌山の日前宮三輪山日前宮のラインは、冬至の日に太陽が沈むライン。

 藤原京があった場所に立つと、大和三山の麗しい姿を望むことができるが、ここに都を築いたのは、おそらく、それだけの理由ではない。

 大和三山もそうだが、三輪山日前神宮・国懸神宮にしても、古代史において重要な役割を果たしている。

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和歌山市日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。

 日前宮は、神話の中で、岩戸に隠れたアマテラスミコトを外に誘い出すために作られた鏡で、最初に作られたのだけれど実際には使われなかったという謎めいたエピソードのある鏡が御神体であり、日本古代史においても特別な位置づけで皇室からも大切にされてきた。そして、三輪山は、祟り神、国譲りの大国主が祟り神となって現れた大物主を祀っている。どちらも、大和政権の中枢ではないけれど、無視できない存在として、一目を置かれている。

 そして、大和三山においては、

「香具山は 畝火おおしと 耳梨と 相あらそいき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそうらしき」という中大兄皇子の謎めいた歌がある。

 この歌を、額田王をめぐる中大兄皇子大海人皇子の恋争いと重ねて解釈する人もいるが、もっとシンプルに、香具山と耳成山が、畝傍山をめぐって争いを続けてきたと読み取ればいいのではないか。

 畝傍山の周辺には、初代の神武から、第2代綏靖(すいぜい)、第3代安寧(あんねい)、懿徳(いとく)など、初期の天皇の陵墓が存在する。古代、天皇は亡くなることで、より権威を増していたが、畝傍山は、そうした聖域であったのだろう。

 そして、耳成山は、もともと火山で、大和三山でもっとも姿が美しい山(ピラミッド説もある)である。この山の流紋岩は、古代からよく知られていた。

 耳成山の北方、奈良盆地中央に弥生時代の大環濠集落、唐古・鍵遺跡がある。大集落は、列島の西と東を結び、七〇〇年間繁栄をつづけた。この大集落が、ヤマト王権が誕生する礎となったと思われるが、この遺跡で使用されている様々な石器類に、耳成山の岩が多く使われていた。

 そして、香具山というのは、畝傍山耳成山と違って、火山ではなく、奈良盆地の東の龍門山系が侵食作用を受けて、その侵食に耐えて残った土地が山となっている。だから、大和三山のなかでは、あまり特徴のない姿をしている。

 しかし、古代から、天香久山の土は、霊力、呪力のあるものとして神聖視されてきた。国家の大事に際して、その土を使って、その吉凶禍を判断する聖地だったのだ。

 古事記』には、神武天皇が夢のお告げに従って、天香久山の赤埴(あかはに)、白埴(しろはに)を採集させて作った土器を神に供えたので、戦いに勝つことができたと記されている。

 そういう卜占(ぼくせん)に携わる者は、アメノコヤネ命の苗裔と称し、壱岐対馬、そして大和だけでなく伊豆とも深い関わりがある。

 香具山で祀られている国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、古事記においては、造化三神などの後、6番目に生まれる神様だが、『日本書紀』においては、初めて登場する神で、根源神である。それは、卜占を、国家秩序の中心にする発想と関係しているのではないかと思う。日本書紀の成立時(720年)に、アメノコヤネを祖神とする中臣氏が、朝廷内の神事・祭祀職として、大きな力を持っていたことも背景にあるかもしれない。

 こうして見ていくと、694年に都として定められた藤原京の位置は、日本が中央集権的な統一国家を築くために、異なるバックグラウンドを持つ氏族を和合させる象徴的な意味合いがあったように思える。

 この藤原京は、第43代元明天皇の710年、平城京へ遷都される。

 平城京は、藤原京の真北である(東経135.79)。

 平城京のあるところは、佐紀盾列古墳群のすぐ傍である。佐紀盾列古墳群は、4世紀末から5世紀前半にかけての古墳群で、200メートル超す巨大古墳が4基みられ、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高いと考えられている。

 三輪山の傍の箸墓古墳などヤマト政権の初期の纏向古墳群や大和・柳本古墳群が5世紀初頭に衰退し、その後、佐紀盾列古墳群での大規模古墳が作られるが、5世紀前半からすぐに、応神天皇綾など、大阪の藤井寺周辺の百舌鳥・古市古墳群が大古墳地帯となる。 

 平城京の傍の佐紀盾列古墳群周辺には、第11代垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛や、第12代垂仁天皇、第14代成務天皇の古墳などが見られる。

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日葉酢姫陵 日葉酢姫は、垂仁天皇の2番目の皇后。父は、和邇氏の流れをくむ彦座生の子、丹波道主王垂仁天皇との間に景行天皇、元伊勢行幸のヤマトヒメを産む。日葉酢姫綾のある佐紀陵山古墳群は、有数の大規模古墳群で、この地から、河内の応神天皇陵など古市古墳群へと大規模古墳群が移った。この古墳の墳丘長は、207メートル。兵庫県では最大級の明石の五色塚古墳と相似形で、大きさなどもほぼ同じである。

 日葉酢媛というのは、和邇氏と関わりの深い彦座生(第9代開化天皇の第三皇子)と、鍛治の神、天御影の娘とされる息長水依媛とのあいだの子で亀岡の方面を拠点にしていた丹波道主の娘で、平城京の傍の若草山付近も和邇氏の拠点だったので、平城京への遷都の背景に、そうした事情があったかもしれない。

 平城京への遷都は710年であるが、遷都後すぐに古事記が編纂される(712年)。

 古事記の中で、天皇以外の氏族で一番登場するのが和邇氏であり、その多くは天皇と結ばれる女性達である。

 藤原京から平城京にいたる時代というのは、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇として重祚する。)と、女帝ばかりが即位する極めて異例の時代だ。その背景にいったい何があるのか謎は深まる。

 

(つづく)

 

✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world