第1073回 日本の古層(19)  東国に秘められた謎

 古代の聖地を実際に訪れると、いつも驚くべき発見をすることになる。

 数日前、栃木足利市の名草厳島神社という巨石群を訪れた。その動機は、聖蹟桜ヶ丘にある武蔵国一宮、小野神社の、まったく同経度の真北にあること。そして、名草および厳島という名が気になったこと。さらに、社殿が巨大な岩の上にあり、周辺に巨大な奇岩が多く、おそらく縄文古代からの聖域だったろうと想像したからだった。

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空海が勧請したと伝承が残る名草厳島神社

 

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名草厳島神社 高さ11メートル、周囲30メートルある御供石。

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名草厳島神社 奥の院


 名草という地名は、和歌山の紀ノ川の下流域のことがよく知られており、古代史において極めて重要な神社である日前・国懸神宮のあるところだ。古事記において、日向からやってきた神武天皇がヤマト入りをしようとしたところ、紀ノ川下流を拠点にしていた名草戸畔(戸畔というのは女性の首長)が激しい抵抗を示した。

 また、名草彦命というのは、空海高野山神領として提供した丹生都比売神社の祭神、丹生都比売命の御子神。それは、高野山4明神のうち狩場明神と同じともされる。

 足利の名草厳島神社は、空海が勧請したとされるが、たしかに空海が開山した高野山の4明神、気比、丹生都比売、狩場、厳島のうち、名草(狩場)と厳島の二つが関わっている。

 「狩場」というのは、狩猟のことではなく、鉱山とくに銅山のことをいう言葉であった。

 そうすると、足利に名草(狩場明神)の名があることは、おそらく同じ栃木の足尾銅山と関係あるからとなる。足尾銅山は、名草厳島神社の真北の同経度にある。銅山の前に、渡良瀬川が流れており、この川は、足利市を通過して利根川に合流し、太平洋につながる。和歌山の紀ノ川流域の古代鉱山開発者が、黒潮に乗り、茨城の霞ヶ浦あたりに上陸し、利根川を遡って、足利までやってきたのだろうか。それとも、岐阜、諏訪を経て、東山道を通ってやってきたのだろうか。

 それとも、朝鮮半島の北部から船を出して対馬海流に乗ると、新潟から秋田にかけて上陸する(新羅からだと福井、百済からだと北九州に上陸しやすい)ので、日本海側から大陸の鉱山技術を持つ渡来人がやってきたのだろうか。

 いずれにしろ、古代から何か怪しいものがある足利の地に、中世、清和源氏が拠点を築き、後に足利氏の室町幕府へとつながった。

 足利市には1600もの古墳がある。その中でとくに古い時代のものは、名草厳島神社の同経度の真南にある藤本観音山古墳で、4世紀末に作られた巨大な前方後方墳だ。

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藤本観音山古墳

 前方後方墳としては、全国で5番目の大きさ(全長118m)。その西に4kmのところ(真西のラインからは1kmだけ南にずれている)にあるのが東日本最大の太田天神山古墳(5世紀中旬建造 全長210m))。こちらは群馬県太田市になるが、足利市太田市は、栃木と群馬の県境である。

 足利や群馬あたりの古墳で大きなものは、初期(紀元4世紀末くらいまで)が、前方後方墳で、5世紀からは前方後円墳になる。

 この事実は、とても興味深い。というのは、近畿においては、かなり古い段階、紀元3世紀中旬以降、前方後方墳としては向日山の元稲荷古墳などたくさんあるが、同じ頃から大型の前方後円墳もあり、両者は、同じ時期に近いところに共存している。そして、前方後円墳が超巨大化するのが、5世紀からだ。

 つまり、前方後方墳は、近畿も群馬や栃木も、わりと早い段階から普及しているのだけれど、前方後円墳は近畿の方が早く、群馬、栃木あたりは遅れて普及している。

 とすると、大和政権に特徴的なものが前方後円墳だとすると、大和政権が群馬や栃木まで勢力を広げたのは5世紀で、それ以前は、西も東も、前方後方墳を作る人たちが全国に広がっていたということになりそうだ。(もう少し丁寧に調べなければならないが。)

 足利で古い時代に作られた前方後方墳の藤本観音山古墳は、渡良瀬川利根川のあいだの平原地帯にあるが、その南に、水田開発に重要な役割を果たしたであろう水路の遺構が見つかっている。このあたりの平原は、藤本観音山古墳が作られた4世紀、広大な稲作地帯だったのだろう。

 それから50年ほど経った5世紀中旬、この古墳のすぐそば、西4kmのところに東日本最大の前方後円墳が作られた。

 5世紀というのは、第15代応神天皇以降であり、秦氏をはじめとする大陸からの帰化人がたくさんやってきたことが記録には残されている。

 中国においては、三国志の時代の後の五胡十六国の激しい戦乱の時代だった。442年に北魏華北を統一するまで中国国内の混乱は続いていたので、その期間、日本に逃げてきた人が大勢いたことは想像できる。

 その時点から日本の古墳が超巨大化しているのだが、そのことと何かしらの関係があるのかもしれない。

 5世紀、栃木の足利周辺に動きがあった。足利だけではなく、その西の群馬でも。

 足利の藤本観音山古墳に立つと、はるか西の方に特徴的な山並みが見えた。調べてみると、群馬の妙義山だった。妙義山の麓の妙義神社が、藤本観音山古墳の真西で同緯度だった(北緯36.30度)。

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妙義山 石門

 さらに興味深いのが、この東西のライン(36.30)が、群馬の高崎市も通っていた。

 高崎の古墳数は日本屈指で、2741基もある。群馬県全体で、古墳は12000基、埴輪も全国一の質量を誇る。古墳からの出土品としては、金銅製品、馬や鉄関連のものがたくさんある。

 その高崎市にある浅間山古墳が、足利の藤本観音山古墳と妙義山の東西ライン上に位置している。

 浅間山古墳は、172mもある東日本で3番目の大きな古墳で、4世紀末から5世紀初頭の建造だから、このあたりに進出した前方後円墳ではもっとも早い段階の巨大古墳である。

 さらに興味深いのが、この浅間山古墳の南500mのところに大鶴巻古墳、小鶴巻古墳があり、これらも4世紀末から5世紀初頭の建造だが、それぞれ、浅間山古墳の2/3、1/3サイズの相似形となっている。

 足利でもっとも古い段階の古墳である前方後方墳の藤本観音山古墳から妙義神社を結ぶ東西のラインにそって、東日本で1番と3番の大きさを誇る前方後円墳があることの不思議。これは、偶然だとはとても思えない。

 さらに面白いことに、妙義山の真南に富士山があり、富士山と聖蹟桜ヶ丘の小野神社は、冬至のライン上にあり、(聖蹟桜ヶ丘に立つと、冬至の日、富士山のところに太陽が沈む。古代、冬至復活の日を意味する。)、小野神社の真北が、足利の藤本観音古墳、名草厳島神社、さらに足尾銅山なのだ。

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上のライン、西から群馬の妙義山妙義神社高崎市の東国で3番目に大きな浅間山古墳、太田市の東国で一番大きな太田天神山古墳、足利市の藤本観音山古墳。縦のラインは、上から足尾銅山、名草厳島神社、藤本観音山古墳、武蔵国一宮の小野神社。小野神社の真西、富士山の真北のポイントは、甲斐一宮の浅間山神社、縄文遺跡の釈迦堂遺跡があるところ。

 古代の謎は、現在の私たちの常識、理性、つまり現代人の人智を超えたものを踏まえていないと、解けない何かがある。

 あまりにも正確な東西および南北、そして冬至のラインにそった聖域が意味するところは、いったい何なのだろう。知れば知るほど、新たな謎が出てくるばかり。

 

ピンホールカメラで撮った、群馬、栃木の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/hida-nagano