第1077回 日本の古層(23) 元伊勢の鬼伝説の大江山(2)

(前回の続き)

 日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰垂仁天皇への助言によって、殉死の代わりに埴輪を埋めることが始まったと記紀に書かれている。

 野見宿禰は、古墳の造営に携わっていた土師氏の祖とされ、”野見”という名は、”野”と”見る”という言葉の組み合わせだが、古墳を作るにあたって、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定という意味があると考えられている。 

 その日葉酢媛の古墳とされているものは、奈良の平城京のすぐ北の丘陵地にある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)の中にある。この古墳群には、4世紀末から5世紀前半にかけての巨大前方後円墳があり、日葉酢媛以外には、日葉酢媛の孫にあたる第13代成務天皇の古墳がある。また、その南2.5kmのところに垂仁天皇陵もある。初期大和政権と関わりが深いと考えられているこの巨大な古墳群は、丹波道主と河上摩須良の血を受け継ぐ日葉酢媛と関係がある皇族たちのものだ。

f:id:kazetabi:20191111010046p:plain

奈良の平城京のすぐ北にある日葉酢媛の御陵。

 しかもこの場所は、三重の伊勢神宮大江山皇大神社から同距離(約90km)である。それだけでなく、伊吹山熊野本宮大社、淡路の伊奘諾神宮とのあいだも同距離であり、この佐紀盾列古墳群を中心軸にして綺麗な五芒星が描ける。

f:id:kazetabi:20200110120403p:plain

富士山と島根の出雲大社を結ぶラインは同緯度の東西であり、そのライン上に、近江の伊吹山ヤマトタケルが荒ぶる神に屈したところ)、京丹後の皇大神社(鬼伝説の大江山の場所)が位置する。センターラインは、北から、若狭彦、若狭媛神社、京都、奈良、藤原京の傍の畝傍山熊野本宮大社、本州最南端の潮岬。淡路伊奘諾神宮と伊吹山の結ぶラインの延長上が、信濃穂高神社(安曇氏の祖神を祀る)。伊勢神宮と丹後の皇大神社を結ぶラインの延長上が、久美浜の須田。この地の安曇氏と思われる豪族、河上氏と丹波道主が同盟関係を結んで日葉酢媛(垂仁天皇の皇后で、ヤマトタケル倭姫命につながる)が生まれる。日葉酢媛の御陵は、この五芒星の中心点にある。

  この五芒星の意味するところは何か? まるで飛翔する白鳥のようにも見える図形だが、日本各地に残る白鳥伝説と何か関わりがあるのではないか?

 大江山皇大神社は、鉱物資源と鬼退治で知られた場所だが、伊吹山もまた、鉄資源の豊かな鉱山である。そして、東征の後に荒ぶる神の退治のために立ち寄ったヤマトタケルを退け、死に至らしめた場所である。ヤマトタケルは、伊吹山から離れた後、伊勢に向かうが、その途中で亡くなる。

 淡路島の伊奘諾神宮は、信濃の安曇氏の拠点、安曇氏の祖神を祀る穂高神社伊吹山を結ぶラインの延長上にあり、伊勢神宮は、上にも述べたが、丹波道主命の妻で日葉酢媛の母となる河上氏の拠点の久美浜の須田の地と、大江山皇大神社を結ぶラインの延長上で、さらに、伊勢神宮と淡路の伊奘諾神宮は、同緯度の東西ライン上にある。

 大江山皇大神社伊吹山も、同緯度の東西ライン上であり、このライン上には、富士山と島根の出雲大社があり、それぞれ、伊吹山皇大神社からの距離が同じである(約210km)。

 そして、熊野だが、長野県安曇野市熊野神社で、毎年8月に御船祭りが斎行される。さらに、久美浜湾に面した聖山、甲山の山頂に熊野神社があるが、これは、河上麻須良によって築かれた古社とされる。この神社の名、熊野が、久美浜の地名ともなっている。

f:id:kazetabi:20200110114445j:plain

久見浜湾。右側の山がかぶと山で、山の斜面に大の文字が描かれる。この山頂に日葉酢媛の祖父にあたる河上磨須良が創建した熊野神社がある。夏至の日、久見浜湾の傍にある神谷神社(日葉酢媛の父の丹波道主命を祀る)に立つと、このかぶと山の山頂から朝日が昇る。

 このように熊野という呼び名には、海人との関係がうかがえるが、紀伊半島の熊野もまた、豊富な船材と良港に恵まれ、古代から海を舞台に活躍する人々の拠点だった。平安末期の源平の戦いにおいて、源平両方と関わっていた熊野水軍の活躍も知られている。

 そして、熊野本宮大社は、明治時代まで社殿が築かれていたのは熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」だが、この場所は、本州最南端の潮岬と、若狭の若狭媛、若狭彦神社を結ぶライン上にある(東経135.78)

  若狭媛神社、若狭彦神社の祭神は、海神に助けられた山幸彦と、山幸彦と結ばれた海神の娘、豊玉媛である。

  こうして見ていくと、この五芒星は、大和朝廷とされる勢力が、戦ったり、後に同盟を結んだ相手と関わりが深いことがわかる。

 そして、国を束ねる拠点が、この五芒星のセンターライン上に置かれていた。初代神武天皇の御陵のある畝傍山(飛鳥と藤原京のそば)、奈良、京都である。 

 平城京は五芒星の中心点の佐紀盾列古墳群のすぐ傍、京都は、伊吹山と淡路の伊奘諾神宮、丹後の皇大神社と三重の伊勢神宮を結ぶラインの交点にあたる。つまり、五芒星の構想の後に、正確に位置決めが行われている。

畝傍山は、センターライン上ではあるが、五芒星との位置関係はない。おそらく、五芒星が構想される前の時代の聖域だからだろう。)

 さらに、伊勢神宮と富士山、淡路の伊奘諾神宮と出雲大社の距離もほぼ200kmで同じだが、それぞれの方角は、伊勢神宮から富士山が夏至の日の太陽が登る方向である。(夫婦岩の二つの岩のあいだに富士山が位置し、夏至の日、富士山から太陽が昇ることは知られている。)。その逆に、伊奘諾神宮と出雲大社の位置関係は、夏至の日に太陽が沈む方向なのである。

 さて、ここからが肝心なところだが、アマテラス大神を皇祖神で神々の最高神として位置づけたのは、壬申の乱で勝利した天武天皇で、それ以前は、タカミムスヒが皇祖神だったとする研究者は多い。

 壬申の乱の後、天武天皇は、大改革を行い、中央集権的な国づくりを進めた。

 天武天皇が編纂を進め、死後、持統天皇によって引き継がれた飛鳥浄御原令が689年に施行されたが、その法令の上で、『日本という国号』、『天皇という地位・称号』が公式に設定されることとなった。

 天武天皇がアマテラス大神を日本の最高神とし、伊勢神宮を最高位とした理由は、壬申の乱の時にこの神に助けられたからとか、農業に恵みを与えるからとか、いろいろな角度から説明されているが、この謎の五芒星にもその真理が隠されている。

 この五芒星は、太陽の運行状況とも関係しているのだが、この世の秩序を表すのに、太陽がもっとも相応しいと考えられるのである。

 この謎の五芒星が意図的なものであるとすると、それができたのは、おそらく天武天皇の時代から、五芒星の中心に位置する平城京への遷都を行った元明天皇の時代の7世紀後半から8世紀前半である。なぜなら、この五芒星の中に位置する伊勢神宮が、この場所に定まったのは天武天皇の時であり、それ以前は、同じ伊勢でも、現在の伊勢神宮から冬至の日に太陽が沈む方向に30km離れた瀧原宮だったからだ。つまり天武天皇が、五芒星の位置関係に合わせて伊勢神宮の位置を適切な場所に動かしたということになる。

 天武天皇というのは、陰陽道に通じた天皇だった。陰陽道というと平安時代に活躍した安倍晴明が有名だが、『日本書紀天武天皇の巻には、「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が記されている。

 天武天皇が自ら式盤を以って占うほどの陰陽五行思想に造詣が深く、天文や「奇門遁甲(きもんとんこう)」という占術の達人であったと伝わる。

 そして、天武天皇は、史上初めての「占星台」を設置させている。 つまり、天文を観察し吉凶を占っていた。さらに、676年に「陰陽寮(おんみょうりょう)」という官僚組織を設け、陰陽五行思想を正式に政治に取り入れる。

 古墳時代の終わりから飛鳥時代に至る6世紀、中国大陸から「陰陽五行思想」が伝来していた。

 陰陽五行思想とは、宇宙のすべてを「陰」と「陽」の二元論で説く「陰陽思想」と、万物を「木」「火」「土」「金」「水」の5つ元素で説く「五行思想」の2つが合体した自然哲学である。

 そして、五芒星はあらゆる魔除けの呪符であり、近畿の五芒星は、かつての敵も味方も含めた呪符となっているのだ。

 元明天皇が遷都した平城京は、その呪符に守られるように中心点に位置付けられているのだ。

 しかし、ここからが謎めいてくる。なぜなら、平城京遷都の前に、この場所には佐紀盾列古墳があった。

 それは、陰陽五行道が日本に入ってくる前の時代である。ということは、もともと存在していた佐紀盾列古墳を軸にして、五芒星の位置関係が定められたということになる。

  丹後の久美浜の安曇氏や、丹波道主の息長水依媛の父にあたる鍛治の神、天之御蔭命(あめのみかげ)とつながる第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛を祀るこの場所が、天武天皇にとっても、元明天皇にとっても大事な場所だったということになる。

 それは、一体なぜだろうか?   (続く)

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world