第1100回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(4)

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伊賀の鍛冶屋にある山神遺跡の磐座。巨石の前面から古墳時代の土師器片と推定される遺物が見つかっている。この遺跡の東3kmのところに木津川が流れており、すぐ近くに元伊勢とされる猪田神社が鎮座する。このあたり、伊賀の鍛治拠点の一つと考えられる。

 今から2500年ほど前、大陸から米作りや、それにともなう技術、道具を日本にもたらした人々がいた。

 中国の江南、揚子江の流域の呉や越から、中国の大乱、春秋戦国時代の時の亡国の危機の最中に日本へと逃れてきた人たちがいたと考えられている。

 日本にとっても大きな変革期となるこの時、日本列島と中国大陸のあいだで活躍していた海人が、その仲介役を担っていた。

 揚子江流域は、稲作地帯であるとともに日本の中央構造線の延長線上で鉱脈が多く、古代から水銀の産地としても知られていた。水銀は金属を鉱石から重要鉱物を分離する冶金に用いられたり、赤い硫化水銀は染色に用いられる。

 弥生時代の始まりにおいて、日本に稲だけがもたらされたはずがなく、米作りに必要な道具も一緒に入ってきただろう。

 しかし、これまでの歴史の教科書では、弥生時代、日本の至るところから鉄製品が発見されていても、日本にはそれらを作る技術はなく輸入に頼っていたとされていた。日本国内で鉱山が奈良時代のものまで発見されていなかったからだ。

 しかし、2019年3月、徳島の阿南市にある古代の水銀鉱山から、弥生時代後期(1~3世紀)とみられる土器片がみつかり、歴史を大きく書き換える必要が出てきた。なぜなら、この発見まで歴史学者のあいだでは、卑弥呼の時代(紀元3世紀)も、大和朝廷の拡大期においても、日本には鉱山技術はないとされていたからだ。

 もちろん、異端説として、そうした歴史学の権威の説を疑う人たちもいた。

 たとえば、真弓常忠氏(1923年ー 2019年4月)はその一人だが、真弓氏は、専門が考古学ではなく祭祀を通して日本文化の形成過程を明らかにしようとする人だったので、考古学中心の歴史学の権威からは、その説は無視されていた。

 真弓氏は、奇しくも、2019年、徳島の若杉山鉱山が弥生後期のものだと明らかになった1ヶ月後に亡くなられたので、鉱山技術と鉄など金属の関係を説いていたのではなかった。

 真弓氏が説いていたのは、鉄は鉱山から得られるものとは限らないということ。中央構造線近くなど地下活動が盛んで鉄の含有量の多い地域にある湖沼などの水に鉄成分が溶け込み、その鉄分が、湖沼に生い茂る葦などの植物が出す酸素と化合し、バクテリアの作用などによって鉄塊となり植物の根のまわりに付着して大きくなっていく。これが褐鉄鉱(水酸化鉄)だ。褐鉄鉱は、400度くらいの温度で溶融するので型に流し込めば道具ができる。縄文土器の野焼きは700度くらいからなので、もしかしたら縄文時代から褐鉄鉱を使った道具づくりを行っていたのではないかと真弓氏は考えた。残念ながら鉄は酸化しやすい金属で、水分に触れると腐食して崩壊して後に残らない。そのため証拠を見つけるのが難しい。

 証拠がないと歴史学の権威は認めない。不幸なことに、そのように学問は遅滞し、形骸化する。

 敢えて”形骸化”という言葉を使うのは、証拠探しが学問になってしまっているからだ。証拠探しの学問における正しさは、次の証拠が見つかるまでの猶予期間でしかない。つまり後になって間違いだったとわかることを、正しいこととして受け入れるしかないのだ。

 正しさというのは一体なんだろう?

 たとえば神話に描かれている人物が、実在したかそうでなかったの論争は、真の意味での正しさにつながるのか?

 神話を疑う学者は、神話上の人物が存在しないという証拠になりそうなものを集めて存在しなかったと結論づける。それで終わりである。ではなぜ神話のなかにそうした話があるのかという問いに対しては、「作り話である」と答えてやり過ごすことになる。

 神話の中で名付けられている存在が、実際に生きていたかどうかは大きな問題ではなく、それがたとえ何かの象徴であっても、そのことを書き留める必要性がどこにあったのかを解いていかなければ歴史の理解は深まっていかない。

 鬼退治という伝承があれば、実際に鬼がいたかどうかが問題なのではなく、その伝承が後世に何を伝えようとしているのか、その背景にどういうことがあったのか、その本質を想像し、考えなければ、今につながる生きた歴史にならない。

 菅原道眞の祟りにしても同様である。

 弥生時代の黎明期、中国から日本に新しい文化が伝えられる時、その仲介的な役割を果たしていた海人は、後に安曇氏と呼ばれるが、数十年、数百年のあいだ、様々な婚姻を繰り返しているうちに、その経験と情報を受け継ぐ形で様々な氏族が派生していったものと考えられる。古代から京丹後の籠神社の神官をつとめてきた海部氏や、その同族とされる尾張氏なども、そうだろう。

 いずれにしろ、最初に中国からの技術者や知恵者とともに、稲の耕作に適した地と鉱物資源を求めて時間をかけて日本を西から東へと進んでいった人たちがいなければ、日本の隅々まで米作りを軸とした新しい文化が広がることはなかった。

 そして、道具づくりのための鉱物資源に関しては、揚子江流域の湖南省の地脈の延長である日本の中央構造線にそって進んだと思われる。中国での経験を持つ人たちが、土地の特徴から有力な鉱床を見極めることができるからだ。もしかしたら縄文時代に、すでにそうした場所は発見されていたかもしれず、神話上の猿田彦のように後からやってきた人たちの案内役になった人たちもいるかもしれない。

 中央構造線は、九州の高千穂から、四国の剣山、和歌山の紀ノ川河口域にある日前神宮高野山伊勢神宮、愛知県の豊川稲荷豊橋、そこから少し北上して諏訪大社秩父、茨城の鹿島神宮へと至る。いずれも鉱脈のあるところで、そのラインにそって聖域が並んでいる。

 たとえば和歌山の日前神宮から高野山伊勢神宮に至るラインは、水銀の鉱床で知られ、鹿島神宮のある茨城の海岸は砂鉄の宝庫である。

 また、愛知県豊橋の高師という場所は、上に述べた褐鉄鉱が発見されたところとして有名で、その近くから銅鐸も発見されている。この褐鉄鉱は、豊橋の高師原という場所で、土が雨で流された後に露出しており、その様子が幼児や動物に似ていることから高師小僧と名付けられた。

 真弓常忠氏が、鉱山開発の前の鉄製品製造の材料として指摘した褐鉄鉱は、日本の他の場所でも発見されている。しかし、有望な資源であるならば取り尽くされてしまった可能性もある。

 たとえば、近江の日野の別所では、天然記念物に指定された巨大な褐鉄鉱が発見され、伊賀の服部川流域の真泥でも発見されているが、この二つの場所には共通点があり、いずれも原初の琵琶湖があったところだ。琵琶湖は世界で3番目に古い淡水湖だが、ずっと今の場所にあったわけではなく、約500万年ほど前から地殻変動のたびに移動を続けてきた。その最初の場所が、伊賀の服部川流域で、その後、甲賀や日野の地を通って北上していった。

 伊賀と甲賀は忍者で有名だが、伊賀焼きと信楽焼という古くから陶芸の産地としても知られている。その理由は、原初琵琶湖の湖底の泥が良質な陶芸づくりのために適しているからだ。

 伊賀から甲賀花崗岩の山々に囲まれた盆地であり、風化した花崗岩が川に流されて古代の琵琶湖の底に蓄積していた。花崗岩には鉄分や石英や長石が多く含まれているが、これらの物質を含んだ粘土は高温の熱に耐えることができる。すると釉薬を使わなくても、赤みのある鉄の色、炎と薪の灰の効果、粘土に含まれる石英や長石の溶融などで素晴らしい窯変が起こる。人間の計算を超えた奥深い美が、千利休など中世の茶人に愛された理由だった。

 また、伊賀や甲賀に褐鉄鉱(水酸化鉄)が存在していた理由は、周辺の花崗岩の山々から豊富な鉄分が水に溶け込んで原初の琵琶湖に流れ込み、湖に生い茂っていた葦などの水中植物が光合成によって生み出す酸素や鉄バクテリアの作用で水酸化鉄となって固体化していたからだと思われる。

 原初の琵琶湖には象やワニなどの動物も数多くいた。なぜわかるかと言うと、それらの生物の足跡が、伊賀の服部川甲賀野洲川の流域など琵琶湖が移動していった場所の至るところで発見されているからだ。

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伊賀の服部川流域、真泥の地に残る象やワニの足跡。

 なぜ生物の足跡が発見されるかというと、湖の沼地を象やワニが歩き回っていた後、足跡が消える前に火山の爆発があったからだろう。足跡の上に火山灰が厚く降り積もって覆い尽くしてしまい、その後の数百万年のあいだに足跡のあった部分の上は灰が降り積もった凝灰岩の地層になった。そして、足跡の部分は、花崗岩の成分が混じった硬い地層になった。その数百万年後、服部川などの侵食作用によって柔らかい凝灰岩の部分が流されることで、足跡のある硬い部分の地表が現れた。今でも伊賀の服部川流域では、原初琵琶湖の湖底地層が確認できる。

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服部川の川底に、原初の琵琶湖の固定の地層が確認できる。

 また生物の足跡の地層には火山灰で埋め尽くされた褐鉄鉱(水酸化鉄)も大量に存在していたのではないかと思われる。服部川の侵食によって、生物の足跡とともに褐鉄鉱も地面に現れていた。その褐鉄鉱を鉄製品の材料に使えることを知った人々によって、その大半が取り尽くされた。私たちの時代に発見されたものは、その時代にはまだ凝灰岩の下に埋まっていて、その後、川の流れが変わるなどの侵食作用によって隠れていたものが外に出てきただけかもしれない。

 古代から伊賀や甲賀の地は、この褐鉄鉱(水酸化鉄)の鉄資源と、高温に耐えうる窯づくりに適した土があったことで、鉄の生産地になったのだろうと想像できる。

 褐鉄鉱ならば低い温度でも溶けるが、そのままでは不純物が多く混ざっており、脆くて壊れやすいので加工もしずらい。
 粘り強くて壊れにくい鉄製品を作るためには褐鉄鉱や鉄鉱石から炭素を取り除いていくのだが、そのためには1300度くらいの温度が必要になる。1300度くらいになると、硬いもので叩けば変形する粘りのある状態となり、これを錬鉄と呼ぶが、この錬鉄をさらに叩いて伸ばしたり鍛造して刀剣などを作ることになる。
 すなわち原始的な脆い鉄製品から高品質で丈夫な鉄製品へと進化させるためには、高温に耐えうる土の窯が必要で、伊賀の土は、それを可能にした。

 神話の中で、天孫降臨のニニギの子供を身ごもったオオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメが、ニニギに自分の子供ではないのではないかと疑われた時、天津神の子供ならば無事に生まれるはずと産屋に火を放ち、火照命(海幸彦)・火須勢理命火遠理命(山幸彦)の三柱の子を産むのは、高温に耐えうる土で窯を作る技術革命を暗示しているのではないか。

 その土の窯によって、強力な刀剣ができ、それが天津神の力となった。 
 伊賀には高倉神社があり、高倉下命ゆかりの地である。
 高倉下命は、神武天皇が熊野山中で危機に陥った時、布都御魂の剣を献上した。その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、神武天皇は大和を征服する。
 その布都御魂の剣は、神話のなかで、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に使った剣でもあった。
 今までにない新しい強力な剣の力によって、神武天皇も、タケミカヅチも、旧い勢力を支配下に置く優位な立場になったということ(クニを一つにまとめた)で、その歴史的な鍵となったのが、伊賀の地の原初の琵琶湖の湖底に堆積した土だったのだ。
 伊賀一宮の敢国神社は、正面の南宮山を遥拝する形で鎮座しているが、もともとはこの山頂に祀られていた。南宮というのは、伊吹山の東麓の南宮大社もそうだが鍛治を象徴している。そして、敢国神社の祭神の一つが鍛治の神、金山比咩命である。

 そして甲賀の地から野洲川にそって琵琶湖に向かうと近江富士と呼ばれる三上山がそびえるが、この山の山頂に降臨したとされるのが鍛治の神、天御影神であり、この山の周辺は日本でも有数の銅鐸発見地で日本最大の銅鐸もここから見つかっている。

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三上山山頂の磐座。ここに鍛治の神、天御影神が降臨したとされる。

  真弓常忠氏は、著書「古代の鉄と神々」のなかで、銅鐸は褐鉄鉱の産出と関係の深い祭祀道具だったと指摘している。

 中世の頃より、伊賀忍者甲賀忍者の対立がよく知られているが、甲賀の地は、琵琶湖に流れ込む河川のなかで最大の野洲川を遡ったところで、野洲川の支流の杣川の源流が油日岳で、その里宮の油日神社が甲賀忍者の集会所だった。

 油日神社は、名前のとおり油の火の神として全国の油関係の人たちから信仰されているが、その元宮である油日岳の山頂には、罔象女神(ミズハノメ)が祀られている。

 興味深いのは、罔象女神(ミズハノメ)というのは今日では水神として知られているが、油日の名は、油日岳の山頂に油の火のような光とともに油日神が降臨したことが起源とされていることだ。

 また、伊賀の地は、淀川に合流する木津川を遡り、その支流の服部川や柘植川の流れにそって広がる。服部川沿いは、伊勢街道として伊勢方面へと至り、柘植川沿いは、大和街道として三重県鈴鹿から亀山へと至る。この街道は、後に東海道となるが、その歴史は古く、 大海人皇子壬申の乱の折に、あるいは源義経木曽義仲を討つ折に通った道であるとされる。

 そして、この柘植川沿いの地に、都美恵神社が鎮座する。この神社は、古代の穴石神社で、この地は、倭姫命の元伊勢巡幸の地であるとされる。

 この場所は、古代史においてとても重要な位置づけにあり、『伊勢風土記』の逸文に、出雲の神の子、出雲建子命、又の名を伊勢津彦がこの地で勢力を誇っていたが、神武天皇の東征の時、天日別命から国土を明け渡すように要求され、最初は渋ったものの最終的には譲歩し、「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」ことを誓い、信濃の地へと逃げていったとされる。

 本居宣長は、この伊勢津彦を、「古事記」における国譲りでタケミカヅチに負けて諏訪の地へと逃れたタケミナカタの別名であるとしている。

 この伊勢津彦の別名、出雲建子命というのは、出雲という名がついているが、天穂日命アメノホヒ)の孫であり、アメノホヒはアマテラスの息子であるが、大国主オオクニヌシ)に国を譲るように使者として派遣されながら、オオクニヌシに心酔して高天原に戻って来なかった神である。出雲大社の神官の祖神とされ、菅原道眞の土師氏の祖神でもある。

 出雲建子命が、ニニギが天孫降臨する前に地に降り立っていた神の孫であることや、出雲建子命は別名が櫛玉命(くしたまのみこと)であることから、櫛玉命という同じ別名を持つニギハヤヒ神武天皇の東征の時に抵抗したナガスネヒコと一緒にいた)も、ニニギよりも早く天孫降臨していた神であるゆえに、二つの神を同一とする説もある。

 そのためか、ニギハヤヒを祖神とする物部氏の総氏神である奈良の石上神社の祭神である布都御魂剣が、都美恵神社の祭神でもある。

 しかし、布都御魂剣は、タケミカヅチが国譲りを迫る時に使った剣であり、さらには神武天皇の大和制服の力ともなった剣でもあるので、国譲りの結果、この地を支配した側の神として祀られている可能性もある。

 さらには、出雲建子命は、古事記の中でヤマトタケルによって征伐された出雲建の子であるという説もある。

 出雲建子命が初代神武天皇の時代で、出雲建を征伐したヤマトタケルは第12代景行天皇の息子であるという設定なので、後の時代の出雲建が出雲建子命の親であるというのは、時代として矛盾が生じる。

 しかし、布都御魂が、タケミカヅチ神武天皇、第10代崇神天皇の時に出てくるので、この三つは、大きな変革の起きた同じ時代のことを異なる角度から語っているだけの可能性もある。初代神武天皇の時もしくは第10代崇神天皇の時に、出雲建子命もしくは出雲建という先住の人々と、後からやってきた人たちの確執があった。

 さらに伊勢国風土記逸文に、出雲建子命のところに阿倍志彦の神がやってきて城を奪おうとしたが逃げ帰ったということも記載されているのだが、長野の諏訪の地でも、守矢(もれや)神がタケミナカタに敗れ、そのタケミナカタタケミカヅチに追われているので、似たような状況が伝えられている。

 諏訪大社では、その後、守矢氏が神職をつとめ続け、伊賀一宮の敢國神社は、敢國と書いて、あへくにと読むのだが、この神社は阿部氏が祀ったと考えられているので、諏訪の場合と似ている。

 つまり、伊賀の阿部、諏訪の守矢が、出雲系とされる出雲建子命やタケミナカタに敗れ、その出雲系が、神武天皇の時の天日別命や、国譲りの時のタケミカヅチ信濃の地へと追われている。その後、阿部と守矢や、それぞれの地で神職者となる。

 いずれにしろ、この伊賀の柘植川流域も”出雲族”という名で象徴される勢力の拠点で、国譲りの舞台の一つであるが、”古代出雲”が意味するのは、伊賀や島根など特定の一箇所ではないような気がする。

 似たような国譲りの伝承は、例えば播磨の地にも残されており、鉱物資源に恵まれ、かつ高温に耐えうる窯づくりに不可欠な土を産出するところは他にもあり、日本の各地で同時的にそうした技術革命が広がった可能性は高い。いずれにしろ、技術革命によって強力な鉄製品を作りだすことができて日本国内に変化が起きたということを、神話は語っているのかもしれない。

 あらためて見直すと、伊賀と甲賀の地も、技術革命の条件を満たしていた。興味深いことに、上に述べた甲賀の油日神社の元宮の油日岳は、この伊賀の都美恵神社からも近い。油日神社と油日岳の直線距離は3kmだが、都美恵神社からは4.5km。二つの神社の距離は4.8km。

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上から順番に甲賀忍者の集会所、油日神社、油日岳、伊賀の国譲りの場所、都美恵神社。伊賀國一之宮の敢國神社

 そして、伊賀の都美恵神社が鎮座する場所は、柘植川と、その支流の倉部川のあいだに挟まれた土地であり、倉部川の源流も油日岳である。

 つまり、油日岳は、琵琶湖へと流れる野洲川の源流の一つであるとともに、大阪湾へと流れこむ淀川に合流する木津川の源流の一つでもあるのだ。

 油日岳から、水上交通の二つの道で、琵琶湖と大阪湾の両方につながることができる。そして、その二つの交通路に沿って鍛治と関連の深い三上山と敢国神社がある。

 さらに国譲りの神話が残るこの油日岳から都美恵神社周辺の場所は、大阪湾や奈良から東国へと向かう道と、日本海から琵琶湖を通って伊勢方面や奈良方面へと向かう道が合流する場所でもあった。

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甲賀、伊賀、亀山のあいだの三つのポイントが油日岳を要とした、甲賀の油日神社と、伊賀の都美恵神社である。琵琶湖、奈良、伊勢湾への道が交わるところになる。

 甲賀と伊賀は、どちらも原初の琵琶湖があったところで、鉄生産に不可欠な良質の土と、褐鉄鉱など鉄資源に恵まれていた。

 その要にある油日岳の山頂に、罔象女神(ミズハノメ)という水神が祀られているが、油日岳の山頂は、油の火のような光とともに神が降臨した場所である。

 今では水神とされる罔象女神(ミズハノメ)と油の火のような光、この二つのあいだには、日本の古層を理解するうえで重要な鍵が隠されている。

 そして、神話の中で、神武天皇が東征の際に天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地が吉野の丹生川上神社であるが、ここの祭神が、後に罔象女神(ミズハノメ)や、京都の貴船神社などでも祀られている龗神(おかみのかみ)とされた。

 ともに雨乞いの神として知られるが、単なる雨を司る神ではない。

 天神とは、 「祟りの正体。時代の転換期と鬼(1)」でも書いたように祟りと関係の深い火雷神であり、龗神(おかみのかみ)は竜神である。

 油日岳の山頂に神が降臨した時の油の火のような光というイメージも、火雷神や竜とつながっている。

 

(つづく)

 

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