かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
表の裏は表である。
表の裏のまた裏は表であるというのは、本来は一のものを二つに分ける現代人の合理的な分析だが、表の裏が表であることがわからないと、日本の古代は解けない。
今では縁結びの神として人気がある京都の貴船神社は、縁切りの聖所でもある。
丑の刻に、藁人形を呪いたい人に見立て、神木に釘を打ち込むという丑の刻詣りの発祥の地とも言われている。
その起源は、社伝によると、神武天皇の母の玉依姫(たまよりひめ)が黄船に乗って浪速より淀川に入り、鴨川からさらに貴船川をさかのぼり、ついに貴船の地に到り、祠をまつったのが起こりとされ、貴船神社の奥宮には、その玉依姫の黄船を石垣で囲ったと言う船形石が今も残る。
玉依姫が乗ってきた船ということだが、事情は複雑だ。
玉依姫は、神話のなかでは竜宮の出身であり、日本各地で龍神を束ねる海神族の祖先とされ、また姫自身も龍神として崇められている。
なぜなら、玉依姫というのは、神話のなかで、山幸彦と結ばれた海神の娘、豊玉姫の妹という設定であり、豊玉姫が生んだウガヤフキアエズの育ての親で、にもかかわらずウガヤフキアエズと結ばれ、初代神武天皇を産むのである。
玉依姫がウガヤフキアエズを育てるきっかけは、豊玉姫がお産の時、夫の山幸彦が約束を破って覗き見をしてしまい、正体であるワニの姿を見られたことを恥じた豊玉姫が子供の残して竜宮へと去り、妹の玉依姫に、ウガツフキアエズの養育を頼んだからだった。日本の天皇家のルーツにはかくも複雑な事情があるということを、神話は敢えて記している。なぜそう表現する必要があったのかは、現代人にとっても考えるに値することだ。
日本の皇室の起源および貴船神社の起源に、龍神の玉依姫が存在している。
竜は単なる水の神ではなく、天候を左右する力があると信じられていた。
竜は雲をあやつり風を起こす。竜が回転して躍動すると竜巻となり、海の水も天空へと吸い上げる 雨は、そうした竜の力によって地上に降る。竜は、風を操り雲を操り、雨を降らせる。だから古代から、雨が降らないと竜に祈り、雨が降りすぎても竜に祈った。竜は、結果として祈雨と止海の神としても崇められることになっただけで、もともとは水神ではない。
玉依姫と関わる京都の貴船神社の祭神は、龗(おかみ)の神である。そしてこの神も、当然ながら竜神である。神話の解説書などで龗(おかみ)の神は水神であると定義されているが、そんな生易しいものではない。
龗の神(竜神)は、日本神話において、伊邪那岐神が、火の神カグツチを斬り殺した際、十握剣の柄についた血から生まれた神であり、誕生の時から妖しい宿命を背負っている。
龗の神(竜神)を祭神とする貴船神社を舞台とする「鉄輪」(かなわ)という恐ろしい能があるが、この能の元になっているのは平家物語の 「剣巻」で、その内容は次のようなものだ。
嵯峨天皇の時代、一人の嫉妬深い貴族の娘が、貴船神社に7日間籠り、自分を生きながらにして鬼神に変え、夫を奪った妬ましい女を殺させて欲しいと祈り続けた。
貴船神社の神は、本当に鬼になりたければ、姿を整えて宇治川へと向かい、37日間、水の中に身を浸せと神託を与える。
女は悦び、誰にも見られないように、長い髪を5つに分け、5つの角を作った。そして顔には朱を塗り、全身を丹(硫化水銀)で赤く染め、頭に鉄の輪を被り、その三箇所に火をともし、二本の松明に火をつけて口にくわえ、夜更けに大和大路を走って南へと向かうと、頭より5つの火が燃え上がり、眉が太く、歯は黒く、顔も全身も赤い姿が、まるで鬼のようで、これを見た人々は、恐ろしくて気を失って倒れ、死んでしまう人もいた。そのように宇治川へと到り、37日間、川の水に身を浸し、貴船の神の計らいで、生きながら鬼となった。宇治の橋姫とは、この鬼のことである。
宇治の橋姫は、古くから様々な歌や物語の中に登場する。
『源氏物語』においては、それまでの主人公の光源氏が、最愛の女性、紫の上の死後、幻のように姿を消してしまい、新たに彼の子供達の物語である宇治十帖が始まるが、その最初が、「橋姫」の帖である。
この帖の主役は、光源氏の息子の薫である。しかし、光源氏は薫の本当の父親ではない。
光源氏の実際の息子は、光源氏の愛人の六条御息所の嫉妬が怨霊となったことで呪い殺された葵の上とのあいだにできた夕霧であるが、その夕霧の友人の柏木と、光源氏の正室である女三宮との姦通によって生まれたのが薫であった。
光源氏の最愛の女性、紫の上には子供が生まれなかった。そして女三宮は朱雀天皇の娘で、朱雀天皇の懇願によって、光源氏は彼女を正室として迎え入れたのだった。
その女三宮が、自分の息子の夕霧の友人である柏木と姦通して子供が生まれたことを知った光源氏は、宴席で柏木に皮肉を言う。柏木は恐怖で自失し、心を病み、死の床につく。
『源氏物語』第45帖、すなわち宇治第1帖の「橋姫」で、このように呪われた男女関係の結果として生まれた薫が、自らの出生の秘密を知ることになる。そこに、堅物とされた薫の最初の恋が重ねられていく。薫が尊敬する皇族、八の宮が静かに暮らす宇治に通ううちに、薫は、八の宮の娘に心惹かれていく。
『源氏物語』の宇治第1帖のタイトルが「橋姫」となっているのは、次の歌による。
橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹(さお)のしづくに 袖ぞ濡れける
この歌は、「宇治の橋姫のように宇治の地の暮らしで淋しい思いをしているであろう姫君(八の宮の娘たち)の心を思い、自分も、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 涙で袖を濡らしている。」と研究者が訳しているが、橋姫の心と、恋愛に苦しんでいるわけでもない八の宮の娘を重ねるのは、どうにも違和感がある。
橋姫の複雑な心は、薫の複雑な心であると素直に解釈した方がいいのではないか。
世の中には、天変地異だけでなく、紫の上のように子供が欲しいのにできなかったり、光源氏のように最愛の人に先立たれたり、挙句の果てに妻と他の男性とのあいだに子供ができて、それを自分の子として育てたりと、自分にはどうすることもできない不条理があり、生きていくことが不安定なものにならざるを得ないが、自分の心さえ、自分ではどうにもならなくなってしまう時がある。嫉妬や姦通、そして呪いが嵩じて鬼にもなる。
薫は、形の上では光源氏という権力者の息子になっているが、実際の父と母のことを思うと、人には言えない複雑なものがあったろう。
さて、橋姫は、鬼であるが、同時に、祓いの神である。
日本の歴史は、この表裏の関係があるから、現代人にとって非常にわかりずらくなる。
表の裏が表なのである。表の裏のまた裏が表だという現代人の合理的分析では解けないのが、日本の古代なのだ。
鬼は、イコール神である。最高神アマテラスでさえ同様である。
宇治の橋姫神社に祀られているのは瀬織津姫であり、瀬織津姫は、その水の流れで人間についた悪縁や苦しみ、罪を洗い流し、河口まで運んでいってくれる神である。
社伝によれば、宇治の橋姫神社の瀬織津神は、646年、宇治川上流の佐久奈度神社から勧請された。
佐久奈度神社は、琵琶湖から流れ出た水が、大きく湾曲する岩盤地帯にあり、急流が、まるで竜のように激しくうごめき岩にぶつかる場所に鎮座しているが、この場所は、「中臣大祓詞」の創始地とされる。
大祓詞は、もともと6月と12月の末日に、罪や穢れを祓うために唱えられていた祝詞であるが、中臣大祓詞というのは、都の朱雀門の前に、王や貴族や官僚や周辺の里人が集まり、中臣氏によって罪や穢れを祓うために詠まれた「大祓詞」のことである。
この時に詠まれた大祓詞は、平安中期に編纂された延喜式にも記載されていて、現在でも見ることができる。
応仁の乱で、京都が焼け野原になった後は途絶えていたが、1871年に、明治天皇によって400年ぶりに復活し、現在でも宮中や全国神社で行われている。
その中臣大祓詞において重要な役割を果たしているのが瀬織津姫である。
「高い山や低い山の末より、佐久奈度に落瀧てくる速川の瀬に座す瀬織津姫が、罪や穢れを大海原に持ち出してくれる」と、大祓詞で、唱えられる。
この瀬織津姫が、宇治の宇治橋に勧請されて橋姫と同体となり、この橋姫に倣って、伊勢神宮の内宮の入り口にかかる宇治橋の手前200mのところに饗土橋姫神社が創建された。「饗土」とは、疫病神や悪霊などの悪しきものが入るのを防ぐために饗応の祭りを行う土地を意味する。
宇治川で鬼となった橋姫には、さらなる伝説がある。
貴船神社の神の力で鬼女となった橋姫は、妬む女を殺し、その親類を殺し、誰彼かまわず殺しながら、延々と生き続けていた。
そして、長い歳月を経て、この鬼と一条戻橋で出会ったのが渡辺綱。渡辺綱は、紫式部と同じく藤原道長に仕えていた源頼光(清和源氏の基礎を築いた源満仲の息子で多田の地を拠点とし、多田銀銅山の開発も行っていた)とともに、京丹後の大江山の鬼退治を行った頼光四天王の一人である。
渡辺綱に家まで送ってくれるよう頼んだ橋姫は、突然、鬼女に変幻し、綱を掴んで舞い上がって愛宕山に連れ去ろうとするが、綱は、北野天満宮の上空で、持っていた太刀で鬼女の腕を切り落とした。
愛宕山は、前回の記事でも書いたように、イザナミを殺し、恨みや祟りの起源となったカグツチを祀る山であり、そこが鬼女の住処ということになるだろう。橋姫という鬼を生んだ貴船神社の龗(おかみ)の神(竜神)は、イザナギに斬られたカグツチの血から生まれた神である。そして、渡辺綱がかろうじて鬼から逃れた北野天満宮は、菅原道眞の祟りを鎮める場所である。
さらに伝説は広がり、渡辺綱に斬られたこの鬼は、実は、源頼光とともに大江山の鬼退治をした時に、唯一生き残った茨城童子であるともされる。
大江山は、古来から鉱山で知られるところであり、鬼退治のために源頼光が選ばれたのは、多田の地の鉱山経営で、その分野に深く通じていたからだともされる。
また渡辺綱は、嵯峨源氏の祖で「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とされる源融の玄孫であるが、生まれてすぐに父が亡くなり養子となる。その養母の実家が淀川の渡辺津であり、そこに移り住んで渡辺姓となり、後に源頼光に仕えることになる。
渡辺津というのは、淀川の河口にあった港町で、瀬戸内海の海上交通によって物資が運ばれ、荷揚げされるところだった。
古代は、難波京が置かれ、後に石山本願寺、そして大阪城が築かれたところである。
そして、現在は、奈良盆地を抜けて大阪の応神天皇陵など巨大古墳のある藤井寺の近くを通って西に流れて海へ注ぐ大和川は、古代、藤井寺あたりから北上し、この渡辺津で淀川とつながっていた。
すなわち大和川は、奈良と大阪をつなぐ大動脈だったが、相次ぐ洪水によって、1703年、大工事によって大和川の流れは変えられ、淀川とつながらず西向きに流れるようになったのだ。
渡辺綱が生きていた頃、彼が拠点とした淀川の渡辺津は、大和川とも合流する場所であり、京都や奈良と大阪をつなぐ水上交通の要だったのだ。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となった。
渡辺党の武士は、摂津源氏の源頼政の兵力の主力として保元・平治の乱を戦い、宇治川合戦の際にも平氏の大軍に対して勇猛果敢に戦った。また、源平の戦いで源義経が屋島の戦いに挑む際、渡辺党に助けられて兵力を整えたことも記録されている。
渡辺津は、経済や軍事のみならず、宗教的にも重要な場所であった。京から四天王寺、住吉大社、熊野へ詣でる際は淀川からの船をここで降りていたため、熊野古道もこの渡辺津が起点だった。後にこの場所に石山本願寺が築かれ、浄土真宗の本拠となり、織田信長と激しい戦いが行われた。
源頼光は多田銀銅山の鉱物資源に通じており、渡辺綱は水上交通に通じていた。
この二人が中心になって、酒呑童子という京丹後の鬼退治が行われた。
神話や伝説の記述はシンプルであるが、その記述の背後に秘められた文脈、歴史的事情は、かなり怪しく意味深なものがある。
(つづく)
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