私はこれまでの人生で、野生の狐が原野を飛び回っているのを見たことがない。
鹿とか猿なら、日本の聖域を探求中に色々なところで見ることがあるが、狐だけは見たことがなく、子供の頃からの記憶を辿っても思い浮かばない。だからその分、狐には特に妖しいイメージを抱いている。
それが昨日、奈良と三重の県境の曽爾村を訪れた帰り道、日も暮れかかった山中で、小さな狐が何かを咥えてピョンピョンと飛ぶように走っていくのを目撃した。ちょうどその2、3日前、話の文脈は忘れたけれど「今まで狐だけは見たことがないんだよね」と言っていたところなので驚いた。
やはり狐の走り方はとても印象的で、耳のとんがったところも記憶に刻まれる映像だった。
そして、ここ数日、ずっと辰砂(硫化水銀)のことを考えてブログにも書いていた。辰砂が発見できそうなところは幾つも訪れているのだが、残念ながら実物の辰砂を目にしたことはなかった。
それが昨日、曾禰村の山中で見つけたのだ。その数日前、鉱物に詳しい人に「どこに行けば辰砂と出会えますかね」と尋ねたところだったので、この偶然の発見には驚いた。曾禰の地も、最近、頻繁に訪れている室生火山帯の中にあり、1500万年前の大噴火の影響を受けた、この世離れした土地である。だからこの地で辰砂と出会えても不思議ではない。
狐といい、辰砂といい、きっと何かのご縁なのだろう。
前回のブログ記事で、古代、水銀がいかに大切にされたかを書いたが、歴史に多少興味がある人は、「丹」といえば水銀であり、全国にある「丹」という場所は水銀の産地で丹生都比売は水銀の神様だと認識している。
確かに丹という地の多くは水銀の産出地と重なっているが、だからといって、その地を水銀だけの産出地とみなしたり、丹生都比売神を水銀の神様に限定してしまうのはどうだろうか?
丹の場所や丹の神様は神話の中の歴史の転換期で重要な役割を果たしている。
たとえば神武天皇は、東征の最後、大和入りの前に丹生川上神社で戦勝を占い、神功皇后は三韓遠征の前、丹生都比売の神託を受け、その通りにすることで勝利を収めた。
水銀は大地の激しい活動があったところに鉱床があるので、水銀の鉱床のあるところには他の貴金属も眠っている。なので、地面に硫化水銀の鮮やかな赤が露頭しているところは豊かな鉱脈の目印になった可能性がある。
もちろん硫化水銀の赤色が神聖なものとして重んじられたのは間違いないが、水銀という金属は、金、銀、銅、鉄などの他の金属と違って、それ自体が何かに使われるというよりは、岩石の中から金や銀を取り出す精錬工程において必要不可欠なものだった。
つまり水銀は、他の価値あるものが存在する目印になったり、その価値を引き出す性質があり、そうした導きの性質が重要な神託を告げる神を創造させたのかもしれない。
硫化水銀の赤が象徴する血液にしても、体内を巡り、細胞に栄養分を運搬し、老廃物を運び出すという媒質であり、その存在の本質は、水銀と同じく媒介者的なものだ。
丹生都比売神が示しているものは、単なる水銀を供給する神ということではなく、水銀に象徴されるような、物事の価値を引き出し、バランスを整え、生かすうえで欠かせない媒介者。新しいものを創造する作家ではなく編集者のような存在。
日本各地で丹のつく土地に必ずといっていいほど空海の伝承がある。その空海は、日本の精神史における最高峰の巨人であるが、空海自体も、新しい物語や思想を創り出した人ではない。
空海は、唐の恵果和尚から密教の正当の継承者として認められたわけで、空海が密教を創造したわけではない。空海が広めた密教に欠かせない修験道にしても空海の百年前に役小角が創り出したとされているし、伝承の中で空海が行ったとされる数々の社会事業も、行基が百年前に行っている。
空海のすごいところは、先人たちが創り出した叡智を誰よりも深く理解し、自分のものとし、自在に組み合わせ、時代の状況に応じて編集し、使いこなせたことなのだ。
空海は、最澄のような学者タイプではなく実践的編集者であったから、行動力も逞しかった。
恵果和尚は、空海とは半年しか接していないが、空海の資質を見抜いた。
経典を通じて一生懸命に仏教のことを理解しようと机に向かっていた最澄は、密教の真髄を理解できていなかったが、その理由は唐での滞在期間が短かったからではない。
学校の教科書では平安初期に活躍した僧侶として、空海と最澄と同等に扱われるが、最澄は一人の偉大な僧侶だが、空海は神と同格に崇められている。
空海が築いた高野山は、信者からは今も空海が生きて瞑想を続けていると信じられて、1200年にわたって、空海に食事を運ぶ生身供(しょうじんぐ)が欠かすことなく行われている真の聖地である。
一方、最澄が延暦寺を築いた比叡山は、歴史上、法然や道元や親鸞など日本史を代表する僧侶を生んだという位置づけで評価されているが、実際は、法然も道元も親鸞も、比叡山で短期間だけ修行したが、得られるものは無いと見切りをつけて下山して、別の道を歩んでいる。
さらに、比叡山の天台宗は、早い段階で山門派と寺門派に分裂した。寺門派は、空海の姪の子供である円珍を開祖とし、比叡山を去って、現在の三井寺=園城寺(滋賀県大津市)を拠点として活動する。
天台宗の山門派と寺門派を分かつもの、そして最澄と空海を分かつもの、それが修験道である。
三井寺は、琵琶湖を望む低地にあるが、その背後の如意ヶ岳や大文字の送り火で知られる大文字の山頂付近に大寺院の跡が残されており、そのあたりが天台宗寺門派の修験道の修行の場だった。
平安時代初期、空海と最澄の志は同じだった。奈良時代、仏教が一部の特権階級の人たちの心の平安のため、そして国家鎮護の道具となり、仏教徒は、現代の多くの大学教授のように経典を研究する存在でしかなかった。当時の寺院は現在の大学である。
そういう状況に対する宗教革命、仏教は万人を救うものでなければならないという志をもつ最澄と空海。最澄は、それまで別々の大寺院で別々に研究されていた仏教経典の教義を統合する形で天台宗を創造しようとした。いわゆる、円、禅、戒、密であるが、円というのは法華、戒というのは戒律、密というのは密教。すなわち、法華経の教え、戒律(修行を行う上で、守るべき規範=律宗)、禅の実践、それに密教の4つの統合が目指されていた。
しかし、ここで問題となったのが密教である。最澄は、密教の真髄がわからなかったため、空海にその伝授を依頼する。しかし密教が、実践的な厳しい修行を通じて言葉を超えたところで得られる境地であるのにも関わらず、最澄は、修行者というより学者的な気質が強いのか、経典を通じて密教を理解しようとして空海にその貸し出しを依頼したが断られた。それならばと最澄は、自分の後継者と考えていた泰範にその役割を期待し空海の元に送り込んだが、泰範は、最澄との宗教上の見解の相違があると判断し、空海の元に残り、空海の十大弟子の一人となった。そして空海が高野山を開創するにあたっても、空海の弟子、実恵とともに奔走し、山にこもって草庵を構えた。
一番信頼していた弟子が空海の元に去ったことで、最澄と空海は決別することになるのだが、泰範の言う最澄との宗教上の見解の相違の一番のポイントは、密教を体得するための修行の在り方の違いで、そこに修験道が大きく関係している。
空海も最澄のように、円、禅、戒、密の統合を当然ながら意識していたが、この4つは並列ではなく、密によって束ねられるもの。それが空海を開祖とする真言宗の本質である。
そして、密教は、修験の実践を通してのみ体得できるもので、最澄のように経典の学習によるものではない。秀才型の最澄には、その真理がわからなかった。
空海は、若い頃から四国の山岳地帯に分け入り、修行を重ねていた。
その修行とは、おそらく自分の心身と森羅万象を同化させることであっただろう。太陽の光を浴び、星や月を観続け、雨や風や雷でさえ心身にダイレクトに受け止め、植物のざわめきや風の匂いで天候の変化や動物たちの動きを事前に読み取る。
修験は、そうした心身の実践活動であり、山深い地は、その修行に相応しい岩場や滝など、人間の潜在的意識に働きかけてくるものを豊富に備えていた。
さらに空海は、霊感で掴みとった真理を、すぐれた構想力と表現力で指し示す能力を兼ね備えていた。
人の苦しみは、たとえば生と死など、本来は一のものを意識分別によって二分化することで生じる。この分化を消失させることは、即、救済である。
空海は、『十住心論』で次のように説く。
九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒(の)ぶ。一多相入し、理事相(あい)通ず。
過去・現在・未来を貫くあらゆる時間は、この一瞬におさまっているから、一瞬の間に感じたことはすでに、多くの無限に等しい時間に展開していることになる。そのように一と多とが互いに融け入り、一である「理」と、多である「事」とは、互いに通じ合っている。
森羅万象世界は、因と果を繰り返しながら生々流転している事物を媒介にして、たえず自らを形成している有機体的全体である。この世界においては、どれ一つをとっても、それだけで自存しているものはない。どれもみな他のすべてのものとの関係なしには自存できない。
生きとし生けるもののいのちの極微から極大までが、互いに内となり外となって共生し、融通無碍の世界が広がっているが、それらと精神は一体である。
物質と生命と意識とが織りなす世界がそのまま私たちの身であり、それは、ありのままの私たちの精神である。このありのままの精神においては、過去・未来・現在を貫くあらゆる時間が、一瞬の中におさまっているから、すべての時間を、一瞬の心が生きることになる。一と多が融け入っている状態は、因と果という分別も生じない。
この世界はものの形と質が分離していなくて、名前も行為も、形も存在しない。
と表現していることと意味するものは同じである。
古事記序文では、「その後、陰陽が分かれて、黄泉と現世を出入りするようになる」と記述される。
分別なき状態は、生も死も、一つのエネルギーの流れの変化の一つの相にすぎない。
空海は、そうした万物の真理を深く理解していたが、最澄はそうではなかった。
たとえば最澄は、奈良の南都六宗の僧侶とは宗教観の違いから激しく論争し、対立した。そして、比叡山の天台宗を、奈良の東大寺に変わって国家仏教の中心に位置付けたかった。最澄は、白か黒、正か誤、新か旧、正当か否かという違いにこだわった。
それに対して空海が開いた高野山は、血液循環システムの中心の心臓のようなもので、この地から密教の教えが各地へと行き渡っていくことが目指されていたが、他と優劣を競うような世俗的な場ではなかった。そして、最澄が特に意識していた東大寺に関して、空海は、国家のためにという大義で華厳宗の寺である東大寺の宗派の違いを無化してしまい、密教の潅頂(かんじょう)の場にしてしまった。
灌頂とは、密教の最高秘儀で、師匠から弟子に法を授けるため香水(こうずい)を受者の頭に注ぐこと。もともとは、国王の即位式で行われたものが密教に取り入れられた。
空海は、東大寺において、「薬子の乱」で嵯峨天皇との政争に敗れて出家した平城上皇の灌頂を行った。
これは、国家の中心が奈良から京都へ移った後における国家仏教の要としての東大寺の復権であり、東大寺にとっても有難いことであったが、華厳宗の寺である東大寺の密教化でもあった。
有名な東大寺の大仏は、華厳宗の仏である盧舎那仏で、これは釈迦の悟りの境地を仏格化したものだが、東大寺の密教化によって、この大仏は、形は違えど大日如来と同じということになった。本来、密教のなかでの大日如来は、すべての仏、菩薩、明王、天部神たちの中心の存在であり、それに対して盧舎那仏は、様々な仏たちの一つであるから、大日如来と盧舎那大仏が同じということではない。
空海は、最澄と違って融通無碍であり、東大寺と対立するのではなく、その中に入り込み、東大寺を国家仏教の中心へと復権させると同時に、まさに一である「理」と、多である「事」を一瞬にして融け合わせ、何の軋轢もなく東大寺の密教化が成された。これが空海の大きさである。
東大寺の大仏を見学に行けば、この盧舎那仏様は大日如来様と同じですと説明されても、その根拠や背景に何があるかは説明されない。説明されないほど常識化させてしまったのは空海である。
空海は、天皇や朝廷という国家権力の中枢に関わりをもちながら、その権謀術数の渦に巻き込まれることなく、そららを超越し、同時に世俗の争いに巻き込まれる権力者たちを自らの密教世界に引き入れて浄化した。
『源氏物語』のなかでも、六条御息所の生き霊を祓うために行われたのも密教の修法だが、言葉で説明しがたい密教の真理を、視覚的に体得するためのものが曼荼羅で、曼荼羅は、真理を顕現させるための壮大な編集物である。
両界曼荼羅のうち胎蔵曼荼羅は、宇宙の構造を示すもので、如来、菩薩、明王、天部の無数の諸尊をそれぞれの役割に応じて位置付けており、その中心に大日如来が存在する。
それぞれの諸尊は、大日如来の血液のような宇宙的エネルギーを受けて、それぞれの役割に応じて顕現化している。具体的には、中心から四つの方向があり、上方向(西)は真理があまねく広がっていくことを示し、ここに釈迦院が位置付けられ、大日如来の化身として出現した釈迦や、歴史上の釈迦の弟子などが並び、人々に真理を語りかける。
そして右(北)が、普賢菩薩や文殊菩薩で象徴される智慧。ここに金剛手院が位置しており、菩薩心を得るため、そして迷いを断つために必要な智慧と深く関係する。左(南)が、弥勒や観音で象徴される慈悲。ここに蓮華部院が位置付けられ、諸菩薩が清浄なる本来の心を悟らせる。下(東)方向は、般若菩薩や明王など煩悩を克服する力が示され、ここに持明院が位置付けられる。我を忘れた状態を諸明王が見抜き、人々の煩悩や妄執を根本から打ち砕く。これら四方へと広がっていく諸尊たちは、別々に区切られているわけでなく有機的につながり、さらにそこから無数の諸尊が派生している。
両界曼荼羅のもう一つ金剛曼荼羅の方は、全体が9つの升の形で区切られているが、右上の理趣会(欲望など煩悩の升)を除いた全ての升の真ん中に大日如来が存在する。
9つの升の真ん中の升が示す成身会を悟りの最高点とし、そこから下に降りて「の」の字を書くように渦巻き状に9つの升をたどる、もしくは全体の右端から逆の渦を描いて中心に至るダイナミズムが表されている。
ど真ん中を悟りの状態とすると、全体の右下の升は教えに逆らった状態となるが、誰でもここから始まるのでとくに否定されない。右上の理趣会は欲望や煩悩などの状態だるが、これも生命の一つの段階として受容する。そして、ど真ん中の成身会から下に降りてから左側を上向きに進む部分の升は、それぞれ、衆生を救って悟りの世界へと導く智慧や慈愛のプロセスである。
つまり、誰しも、教えを理解できず欲や煩悩にまみれた状態(右の升の並び)と、真理を体得して衆生を真理へと導く力(左の升の並び)が、渦の右回りか左回りになっているだけであり、すべての衆生は救われて悟りの境地へと至る可能性があるとともに、その教えを広める存在となる可能性がある。その生命流の媒質が大日如来ということである。
特に胎蔵曼荼羅はわかりやすいが、大日如来は、心臓のように中心にあり、曼荼羅の隅々まで血液を送り込み、大日如来のエネルギーが全域をめぐるように遍在している。それぞれの仏群は、体内の器官のようなもので、器官は血液が流れてこなければ機能しない。それぞれの仏群が知恵や慈悲や布教や煩悩の克服という言葉で表される様々な役割を果たせるのは、大日如来が心臓のような血液循環系の中枢器官として身体の隅々とつながって、ひたすら新鮮な血液を送り出すとともに汚れた血液を受け入れては浄化し、さらに循環させる働きを続けているからだ。
曼荼羅世界においては、生成と変節と死滅はひとつながり、清も濁もひとつながりで、ひたすらめぐっているだけである。
話は変わるが、古代人は、文身(いれずみ)をしていた。縄文時代の土偶にも文身を思わせる文様が描かれている。
その文身は、硫化水銀の朱色を使って描かれることが多かった。
文という古代文字は、人形の心臓部分に❌の印がつけられている。
文章は、単なる情報伝達の手段ではなく、心臓というポンプを通じて全身にめぐる血液循環系のようなものである。
水銀は、なぜ丹という漢字で表されるのか。
丹は、”たん”と発音する。”たん”は、誕であり、旦は、太陽が地平線に現れる時をさす。子宮や闇というあちら側から現れることが、”たん”である。
なので、天の岩戸から出てくるアマテラス大神も”たん”ということになる。
丹生都比売神社において、丹生都比売大神は、別名が稚日女尊(わかひるめのみこと)であり、アマテラス大神の妹神であるとしている。
「日本書紀」では、稚日女尊が神衣を織っていたとき、スサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込み、驚いた稚日女尊は機から落ちて亡くなってしまい、それを知ったアマテラス大神は岩戸に隠れてしまったという物語になる。
丹生都比売大神の死が、アマテラス大神の岩戸隠れのきっかけということである。
丹生都比売大神は、単なる水銀鉱床の神ではなく、水銀の媒質的な性質と関係しているように思われる。体内を巡る血液のように、そして岩石から金や銀を引き出すように。すなわち、エネルギーが伝播する場である。
丹という地名が残るところも、歴史的にそのような役割を果たしていたのだろう。
そして空海もまた、偉大なる媒質であり、丹生の地に必ず空海伝承があるのも、きっとそのためであろう。
(つづく)
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