第1115回 菅原道眞と藤原道長のつながり

第1112回ブログ 「歴史を知ることは未来を知ること」

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/06/28/172054

の続き。

 

 この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 藤原道長が詠んだとされるこの歌は、盤石な権力を手に入れ、得意の絶頂で詠んだ歌だというのが通説である。

満月が欠けるところのないように、この世の中で自分ののぞむ所のものは何でもかなわぬものはない第一学習社『詳録新日本史史料集成』

 国語のテストで問題が出れば、この第一学習社の現代訳のように、道長の”驕り”を表現したものであると解答しなければ不正解になる。

 それに対して、近年、道長が残した日記などを分析し、道長はそれほど傲慢な人物ではなく、家族思いの優しいお父さんだったのではないかという捉え方から出てきた。

 平安文学研究者の京都学園大の山本淳子教授が、この歌は、娘の結婚と、その場の協調的な雰囲気の喜びを詠んだとする新解釈を発表し、研究者の中では注目されているそうだ。つまり、道長のこの有名な歌は、子供の幸せを喜ぶ良きパパの歌?なのだと。

 新訳私は今夜のこの世を、我が満足の時と感じるよ。欠けるはずの望月が、欠けていることもないと思うと。なぜなら、私の月とは后である娘たち、また皆と交わした盃だからだ。娘たちは三后を占め、盃は円い。どうだ、この望月たちは欠けておるまい。」 2018.11.2  産経新聞記事より。https://www.sankei.com/west/news/181102/wst1811020001-n1.html

 ちょっと首をかしげたくなるが、どうやら、近年の歴史研究は、欧米の近代合理主義に染め上げられた現代の生活感覚にあてはめる傾向にあるようだ。

 それにしても、これまでの通説も新解釈にも、詩心がまったく感じられない。

 満月への感慨が、はたして自分の権力の絶頂や娘の結婚を手放しで喜ぶことにつながるのだろうか。現代人でも同じだと思うが、満月の輝きは、どこか哀しい。

 その輝きが、刹那的な時間に限られたものであることを認識していない人はいないだろう。月は次第に欠けていってしまうものであり、日の出とともに周りが明るくなっても見えなくなってしまう。

 月の輝きは、美しいけれどはかない。はかないからこそ、かけがえがない。月は、もののあはれの象徴である。

 藤原道長は、紫式部が『源氏物語』を書くことを支援した人物であり、その人物に、”もののあはれ”がわからないはずはない。

 そして道長は、この歌を詠んだ一年後には出家している。 

  道長が残した日記からその人柄を分析して、それほど傲慢ではないという結論を導き、だからという理由で、この歌を家族思いの良きパパの歌だとする結論は、その正誤はどうでもよいが、歌そのものが描き出す世界を感じ取ろうとする詩心が、どこかへ行ってしまっている。研究費と時間を使って行う真実の究明というのは、その程度のものなのだろうか。

 少し前、『源氏物語』をテーマにした大学主催のシンポジウムがあり、話を聞いていたのだが、会場から、「現在における源氏物語の意義は何ですか?」という質問があった。
 それに対して、若い時から源氏物語が大好きであったという源氏物語の専門の男性教授が、「源氏物語のブランド価値、知名度は依然として高いので、映画やテレビドラマだけではなく、商品の販売においてその名を付けるだけでも十分に通用する」と答えたので唖然とした。
 金閣寺龍安寺知名度やブランド価値が高いので観光資源として十分に通用するというのと同じ発想で、歴史価値は、マーケティング価値であるということを、『源氏物語』の専門の教授が思っているのだ。この教授の授業を受ける大学生は、高い入学金と授業料を払い、歴史価値をマーケティング価値にする処世術を学問だと錯覚して勉強することになる。
 そして、そうした学習をつんだ人の中で、自分が学んだことを活かせる仕事に就きたいと高い志を持つ若者が、美術館や博物館の学芸員を目指したり、歴史と町おこしを結びつけるプロジェクトに参加したり、ということになるのだろうか。

 それはともかく、藤原道長安倍晴明を重んじるなど陰陽道に通じていた。一定の期間、外部との交渉を遮断して閉じこもる物忌みを、20年で300回も行った記録がある。また、外出などの際、方角の吉凶を占い、方角が悪いといったん別の方向に出かけるといった方違えも頻繁に行っていた。源氏物語の中でも、光源氏などを通して、こうした様子が描写されている。

 物忌みや方違えを頻繁に行うほど”迷信深い”人物が、己の栄光に有頂天になるとは思えない。道長は、自分の宿命は、自分の意思だけでどうにかなるものではないということを弁えていただろう。

 藤原道長の時代を藤原氏の全盛時代だと思い込んでいる人が多いが、道長の時代は、貴族政治の最後の輝きであり、道長の息子の頼通の晩年、摂関家の権勢は衰退へ向かい、院政と武士の時代へと移る。

 そうした事態は突然起こったわけではなく、藤原道長が実力者として君臨する前から兆候は現れていた。

 藤原道長が娘三人を天皇の皇后にしたことが藤原氏の絶大なる権力を象徴しているように考えられているが、天皇外戚は、長いあいだ藤原氏が独占してきていたので、道長が三人の娘を皇后にできたというのは、藤原氏の中で、道長に対抗できる人物がいなくなったということにすぎない。とりわけ経済的な面が大きいが、藤原道長が特別に力を蓄えることになった理由は後述する。

 時代の変化は、道長の絶頂期の100年ほど前、900年頃に急速に始まっていた。

 班田収授を基本とした律令体制の危機と、次なる時代の鳴動である。

 律令制は、政府から人民に田が班給され、その収穫から租税を徴収するという班田収受法によって運営されていた。

 しかし、徴税を逃れるために土地から逃亡する農民が増え、同時に、自分が開墾した土地は免税という特権を利用して逃亡した農民を使役して荘園を運営して財を成す貴族も増え、班田収受法は機能しなくなっていた。

 矛盾だらけの律令体制を維持することのメリットがあったのは、有力貴族だけであり、朝廷じたいの税収も減るばかりで、天皇家においても、嫡子以外の皇子たちを養う余裕などなかった。そのため皇族たちは、次々と臣籍降下していき、源氏や平氏などの身分で天皇家の家臣となったり、経済力のある豪族との婚姻で生き延びていた。

 その代表的な1人が、887年、突如として第59代天皇に抜擢された宇多天皇である。 宇多天皇は、後に祟り神となった菅原道眞を重んじていたことで知られる天皇である。

 宇多天皇は、本来は天皇になるはずのなかった人物なので、宇多天皇を擁立する陰の勢力が存在していたと思われる。

 というのは、宇多天皇の父親の光孝天皇は、55歳になるまで天皇になることなど夢にも思わず生きていた。宇多天皇は、その光孝天皇の7番目の皇子ということもあり、皇室の身分ではなく源氏の身分に臣籍降下していたのだ。

 しかし、884年、突然、光孝天皇が55歳で即位し、その3年後に重篤な状態に陥った時、宇多天皇に白羽の矢が立てられた。宇多天皇は、887年8月25日に源氏の身分から皇族に復帰し、翌日に皇太子となったが、その日に光孝天皇が亡くなったため、すぐに第59代天皇として即位した。皇室の中に皇統の嫡流に近い者がいたにもかかわらず、2日前までは臣下の身分にあった者が、慌ただしく天皇に即位したのである。

 光孝天皇が55歳で即位したのは、平安時代初期、桓武天皇を即位させるために、62歳になるまでのんびりと生きていた白壁皇子が光仁天皇として即位させられたケースと同じだろう。宇多天皇を擁立するための布石にすぎなかったのだ。

 即位した宇多天皇は、菅原道眞を重んじて、宇多天皇を擁立した勢力に支えられて、政治改革を推し進めようとした。

 その改革の内容がどういうものであったかは、抵抗勢力によって菅原道眞が太宰府に左遷されたことと、その後の怨霊騒ぎで抵抗勢力が滅ぼされた結果、社会がどうなっていったかを考え合わせると想像することができる。 

 まず、菅原道眞が太宰府に左遷された翌年の902年、宇多天皇から譲位されていた醍醐天皇によって、藤原時平の主導で、律令制の最後のあがきと言える班田が行われた。

 宇多天皇は、息子の醍醐天皇が自分と同じく源氏の身分から皇太子となり天皇となっていたので、自分と同じ路線を歩むだろうと判断して譲位してしまったのかもしれない。しかし、醍醐天皇藤原時平に丸め込まれてしまったのか、道眞を太宰府に左遷してしまった。宇多天皇は、なんとかそれを撤回させようとしたが叶わなかった。

 醍醐天皇の時代は、班田を復活させ、貴族、寺社、豪族などが土地を私物化することを禁止する荘園整理令も施行されたため、後の時代の朝廷によって高く評価されているが、その内容は、醍醐天皇が即位した年以降の荘園が増えることを抑制するものでしかなく、藤原時平たちのような既得権組には影響がなかった。むしろ、新興勢力を抑えるということで、既得権組の優位性を強めるものだった言える。

 そして、班田収受を基本とした人頭税は、逃亡農民の増加や、逃亡農民を使って私有地を拡大していた有力貴族の存在によって、もはや時代にそぐわないものになっており、制度の改革が必要になっていた。

 当然ながら、そうした時代変化は止まることはなく、道眞を死に追いやった既得権組は、その後、怨霊による祟りとされる事変によって次第に追い詰められていくことになる。

 909年、菅原道眞を左遷した首謀者である藤原時平が亡くなり、930年、清涼殿に落雷があった。この時、多くの貴族が亡くなり、醍醐天皇は、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなった。そして、この落雷が、道眞の祟りによるものだという噂が広がった。

 醍醐天皇の後を継いだ朱雀天皇は怨霊を恐れた。とくに母親の藤原穏子は息子を怨霊から守るために、朱雀天皇が3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。

 そして、醍醐天皇が行った班田を最後に、朱雀天皇以降、班田はいっさい行われなくなった。

 また、朱雀天皇の治世では、939年、平将門藤原純友の乱があった。

 朱雀天皇は、946年、同父母弟の村上天皇に譲位し、村上天皇の治世は、藤原氏の摂関を置かなかった。そのため、後の時代、親政の典範と評価されているのだが、村上天皇は、母親の穏子が道眞の怨霊を特別に恐れていたし、朱雀天皇も政治に強く介入していたことがわかっているので、道眞の怨霊効果が、その治世に反映されていたと考えられる。

 菅原道眞の怨霊の噂は、いくつかの事変のたびに京都の町の中に広がっていたが、北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年からである。

 実はその直前にも布石があった。

 多治比文子の神託である。

 942年、多治比文子が神がかりし、京都を騒がしている不吉な出来事は、菅原道眞の怨霊が原因であり、これを祀り鎮めなければならないという神託を受けたとされている。

 一部では、多治比文子は道眞の乳母だったという話が流布しているが、それはありえない。

 道眞が58歳で死んだのは903年なので、多治比文子が道眞の乳母であれば、道眞が死んだ時は、もっとも若い年齢(15歳)で乳母になったと想定しても73歳であり、神託を受けた時は110歳を超えている。

 それよりも多治比氏というのが一つの鍵で、多治比氏は、平城京遷都以前、柿本人麿のパトロンだったともされる多治比嶋が、持統天皇の時に右大臣となり臣下としては最高位の位であった。しかし、奈良時代藤原仲麻呂に対立する橘奈良麻呂の乱で処罰されたり、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件に関わったとして、早良親王や大伴氏や佐伯氏とともに処罰されるなど、藤原氏の陰謀によって朝廷内で完全に力を失っていた。

 しかし、多治比氏の血統は、桓武天皇に嫁いだ多治比真宗葛原親王を産んだことで後世に受け継がれた。葛原親王の異母兄の嵯峨天皇が子供達が政争に巻き込まれないように源氏の身分へと臣籍降下させたのに対して、葛原親王の子供達も臣籍降下して、その末裔が平氏となるのだ。

 源氏のルーツは嵯峨天皇平氏のルーツは桓武天皇とよく言われるが、桓武天皇嵯峨天皇の父でもあるので源氏と平氏のルーツである。なので、平氏に限定するならば、そのルーツは、桓武天皇の第三子で、多治比真宗が産んだ葛原親王ということになる。

 多治比氏以外に、菅原道眞と関係しているのが、道眞の母親の大伴氏である。大伴氏もまた、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺事件の後、866年の応天門の変伴善男を筆頭に多くの親族が首謀者として流罪となり、朝廷内での力を完全に失っていた。

 しかし、伴善男の後衛とされる三河の伴氏は、源義家郎党で一の勇士として知られる伴助兼などが出る武士団となり、のちに、ここから分かれたものが近江にうつって甲賀流忍術の中心となる甲賀二十一家の伴家にもつながっていく。また、鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮の神主は、伴善男の後裔の大伴忠国から明治維新まで25代にわたって大伴氏がつとめているのだ。

 藤原氏の他氏排斥のための陰謀によって朝廷内で力を失った多治比氏や大伴氏は、地方にくだって武士として次の時代を拓いており、これらの勢力が、道眞の怨霊騒ぎの陰に存在している。

 実際に北野天満宮を訪れてみるとわかるが、第一の鳥居をくぐって一番最初に鎮座するのが、大伴氏関係の伴氏社であり、ここは「京都三珍鳥居」としても知られている。

 さらに、この北野天満宮の真西1.5kmほどのところに大伴氏の氏神を祀る住吉大伴神社がある。

 北野天満宮境内社である伴氏社は、道眞の母を祀る社とされているが、大伴氏が大和から京都へ移住した時、氏神を祀る社として祀ったのが、この伴氏社か、もしくは住吉大伴神社であるとされており、どちらが氏神であれ、北野天満宮の鎮座する場所は、大伴氏と縁の深い場所だった。

 いずれにしろ、以前にブログに書いたように、道眞の祟り騒動は、当時の政治状況と深く関係している。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/05/19/234523

 

 そして、菅原道眞を重んじた宇多天皇の母は、班子女王であるが、彼女は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王と、渡来系の東漢氏の当宗氏の母のあいだに産まれた。

 東漢氏は、軍事力に優れていたことで知られるが、秦氏と同じように、製鉄技術を日本にもたらし、土木建築技術や織物の技術者も含まれていた。

 また、白川静氏は、訓読を発明したのは、『史(ふみと)』と呼ばれる人だと指摘したが、史氏(文・書=ふみとも言う)は、公文書の執筆を担っていた東漢氏だった。

 この東漢氏だが、飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いにおいては、東漢氏蘇我蝦夷を裏切ったことで勝負は決まった。また、壬申の乱においても、東漢氏坂上熊毛が、大友皇子を裏切り天武天皇の側について勝利に貢献した。桓武天皇の絶大なる信頼を得ていた坂上田村麻呂もそうだが、自らが王になるのではなく、時代が変化する時、その方向性の鍵を握る存在として実力を誇っていた氏族だった。

 そして、菅原道眞の怨霊騒ぎの頃から摂津の多田の地で足場固めをしつつあった清和源氏のルーツ源満仲は、この東漢氏の一族、坂上氏(坂上田村麻呂の末裔)を武士団の中心としていた。源満仲もまた、藤原氏の政敵である源高明を裏切って、これを滅ぼし、藤原氏と手を組むことを選択した。

 この東漢氏の一つ当宗氏が、宇多天皇の母、班子女王の母の実家であり、この氏族もまた新興勢力だったのだ。

 新興勢力は、律令制に変わる社会制度を求めていたのだろう。道眞の怨霊騒ぎによって班田が行われなくなり、人頭税から地頭税へと移行していくと、土地の計測や税収の管理を行う受領の権限が増していった。彼らは強力な武士団も持っていたので、中央の統制を受けずに、土地を開墾し、鉱山を開発し、その富を蓄積していくことになる。京都に止まって出世争いするのは身分の高い家柄の貴族だけであり、それ以外は、地方に下って受領となることで活路を見出そうとしていた。彼らが新興勢力である。

 宇多天皇と菅原道眞(903年没)の時代から、道眞の祟りで社会が動揺していた時代は、まさにその過渡期であり、その過程の939年、平将門藤原純友など新興勢力の反乱があった。

 そして、その乱の直後の942年、道眞の怨霊を祀るように多治比文子に神託があり、怨霊を恐れる朱雀天皇村上天皇に譲位した翌年の947年、道眞の霊が、大伴氏ゆかりの北野の地に祀られる。

 そして、天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは987年、一条天皇の治世である。その4年後の991年、北野天満宮は、国家の重大事、天変地異の時などに天皇から特別の奉幣(神への捧げもの)を受ける神社に加えられた(当時は19社、のちに22社)。

 しかし、一条天皇の治世と言っても、987年というのは僅か6歳で一条天皇が即位した翌年のことであり、一条天皇の意思ではない何かが、こうした動きの背景にあったものと思われる。 

 6歳の一条天皇を強引に天皇に即位させたのは、藤原道長の父、藤原兼家である。

 986年、天皇に即位してわずか2年、当時18歳だった花山天皇が、出家に追い込まれた。

 この陰謀の首謀者が、一条天皇の祖父であった藤原兼家であり、これは藤原氏のなかでの権力争いでもあった。

 花山天皇の出家事件の時、源満仲率いる武士団が、天皇を護衛するという口実で睨みをきかせていた。

 こうして藤原兼家から藤原道長にいたる栄華の道が準備されたわけだが、その段階で、北野天満宮で祀られる菅原道眞が、国家的な神となるのである。

 藤原兼家の次女で円融天皇に嫁ぎ、一条天皇を産んだ藤原詮子は、国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入した。

 この詮子に、989年3月19日、北野天満神が憑依したという記録が、『小右記』に残されている。

 『小右記』というのは、藤原道長の時代を代表する学識人、藤原実資が書き残した膨大な日記であり、社会や政治、宮廷の儀式、貴族の暮らしなどを知るうえで重要な史料である。 出家後の道長の法成寺での生活ぶりや、藤原道長が詠んだという歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」も、ここに記されている。

 藤原詮子への北野天満神(=道眞)の憑依は、内裏の火災を防ぎたければ、幼い一条天皇藤原氏氏神である春日大社へと行幸させよという内容であったが、978年に大内裏を焼失し、その後も内裏の再建と火事を繰り返していた円融法皇を牽制するものだった。

 北野天満神が国家神となってからすぐの藤原詮子への憑依であるが、藤原兼家は、自分に抵抗する勢力を抑え込むために、道眞の怨霊の力が有効であることを認識していた。

 その理由は次のように考えられる。

 藤原兼家や、その娘で一条天皇の母となる詮子と、北野天満宮との関係を考えるうえで重要な人物が、兼家の祖父の藤原忠平である。

 忠平は、宇多天皇や菅原道眞と深く結ばれた関係であった。藤原忠平の妻、源順子は、宇多天皇の皇女(養女ともされる)という説もあるが、『大和物語』では、菅原の君とされ、菅原道眞の近親であると考えられる。

 道眞と藤原時平が対立した時も、忠平は道眞と親交が深く、道眞の左遷に反対した。

また道眞が左遷された後も手紙をやり取りしていたため、忠平の子孫を保護するという道真からの御託宣があったとされる。

 忠平は、菅原道眞の怨霊騒ぎのなか藤原時平が亡くなり、醍醐天皇が病気がちになって宇多法皇が国政に関与するようになると急激に出世し、朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。

 この藤原忠平の次男、藤原師輔が、藤原兼家の父(藤原道長の祖父)であるが、彼は、藤原忠平の意思を継いだのか、道真を祀った北野神社を支援していた。

 師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、彼の死後、娘の安子が生んだ冷泉天皇円融天皇の二代の天皇が続き、藤原兼家道長など子孫の繁栄の基礎を築いた。

 このように見ていくと、藤原兼家藤原道長親子は、兼家の祖父の藤原忠平の時から菅原道眞と関係が深く、忠平の子孫として道眞の霊に護られる存在であり、道眞の怨霊で追い詰められていった人たちとは逆の立場だという精神的強みがあった。

 興味深いのは、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ円融天皇、その息子の一条天皇、安子が産んだ冷然天皇の息子の花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置しているのだが、これらの天皇もまた、菅原道眞の霊に保護されるという藤原忠平の子孫に該当するのである。 

  このようにして確認していくと、北野天満宮に国家神として菅原道眞が祀られるようになった理由が、浮かび上がってくる。

 道眞の怨霊があまりにも恐ろしかったからというよりは、10世紀の政治的事情が絡んでいたということだ。

  藤原道長の父、藤原兼家は、天皇外戚として摂関家となり繁栄するが、その繁栄の手口は、道眞を死に追いやった藤原時平たちの時代と異なっていた。

 もはや時代の流れに逆らえないと判断していたのか、兼家は新興勢力に対抗するのではなく、逆に密接に結びついて主従関係を結んでいった。

 兼家が関係を結んだ勢力を家司受領という。徴税によって国家財政を支えるはずの受領は、地頭税における土地と税収の管理の権限を高め、私的収奪による蓄財を行った。それを黙認したのが新しく摂関家となった藤原兼家藤原道長であり、受領は、その見返りに摂関家に対して経済的奉仕を行った。莫大な献物を行い,受領在任中に摂関家に荘園を寄進し,その経営にも当たるなど摂関家の経済基盤の重要な一翼をになったのだ。

 藤原兼家の時の家司受領の代表的人物が、源頼朝足利尊氏など清和源氏の発展の基礎を築いた源満仲である。

 彼は、969年、安和の変において、藤原氏の政敵の源高明に謀反の疑いをかける密告の役割を果たした。そして、986年には藤原兼家の孫の一条天皇を即位させるために花山天皇を出家させる時にも関与をした。

 また満仲の長男の源頼光は、藤原兼家道長親子の家司として備前・但馬・美濃・伊予・摂津等の受領を務め、蓄えた財により京都の一条通りに邸宅を構え、たびたび藤原兼家道長に多大な進物をして尽くした。兼家の二条京極第新築の宴で来客への引出物として30頭の馬を贈ったり、道長の土御門殿が全焼して再建する際には家具・調度一切を頼光が一人で贈ったという記録が残っている。

 また、藤原道長は、正室の源倫子以外に、藤原氏との政争に破れた源高明の娘の明子を妻とし、2人の源氏の女性とは、それぞれ六人の子宝に恵まれ、そのうち3人が天皇の皇后となった。さらに妾四人のうち2人が源氏の娘なのである。

 そして、源倫子の父、源雅信の孫にあたる源済政が、信濃、美濃、讃岐、近江、丹波、播磨の受領を歴任できたのも、藤原道長や頼通への徹底した奉仕の結果だった。

 藤原道長が伴侶に選んだ妻と妾、あわせて6人のうち4人が源氏の娘であり、道長が、いかに源氏との関係を大事にしていたかがわかる。

 藤原道長の栄華は、このように新興勢力の成長段階において、持ちつ持たれつの関係を築けたからであった。それは、朝廷内で発言力のある摂関家だから可能だったことであり、そのため、道長と、それ以外の貴族(藤原氏も含む)のあいだに圧倒的な差が生まれた。道長が3人の娘を3代の天皇に次々と嫁がせて皇后にできた理由がそこにある。

 しかし、こうした癒着によって実力を蓄えた新興勢力は、その勢いを増し、重要な政局においては、彼らの存在を無視できなくなる。武家の源氏や平氏は、そのように台頭していった。

 藤原道長は、当然ながら、そうした時代の流れも読んでいただろう。道長の栄華は、貴族の時代から武士の時代へと変化していく流れの中の、一瞬のタイミングをうまくとらえたものでしかない。

 そして、摂関家の立場を利用して、新興勢力と持ちつ持たれつの関係になることは、新興勢力に勢いを与えることでもあり、強大化していく彼らが、そのうち自分たち貴族に取って代わる存在になると道長は悟っていただろう。

 藤原道長は、紫式部に『源氏物語』を書かせる。光源氏の栄光の人生は道長自身と重なるが、源氏物語の主人公は、道長が持ちつ持たれつの関係を築いていた源氏という設定にしている。

 そして藤原道長は、『源氏物語』の主人公に自分をだぶらせるように、新しい時代の到来を予感しながら、光源氏と同じく早い段階で出家し、静かに一線を退く。

 藤原道長の歴史的貢献は、紫式部を通して、「もののあはれ」という精神を、この世に深く刻んだことだ。

 その藤原道長が詠んだとされる歌、

 

この世をば  我が世とぞ思ふ  望月の  欠けたることも  なしと思へば

 

 は、地上の栄光の上にあぐらをかいた傲慢者の心情ではなく、かといって娘の結婚を喜ぶ良きパパの心情を詠ったものでもない。

この世界を自分のものだと思うのは、満月を見て欠けたところなど何一つないと思うことに等しい。(いくら美しい満月でも、やがて欠けていく宿命に逆らえないのだから、人の栄華だって同じだろう。)

 いろいろと理屈を考えず、月のことを思い浮かべ、歌をそのまま自然に味わっても、こうした心情なのではないかと思う。

  (つづく)

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北野天満宮にて菅原道眞を国家神として祀ったのは、藤原道長の父の藤原兼家だが、藤原兼家の姉で、菅原道眞と親しかった藤原忠平の孫の藤原安子が産んだ第64代円融天皇、その息子の第66代一条天皇、安子が産んだ第63代冷然天皇の息子の第65代花山天皇の陵が、北野天満宮のまわりに規則正しい配列で位置している。  三角形の一番北が一条天皇の火葬塚、その南1kmが花山天皇の陵、さらにその南500mが北野天満宮の北門である。  一条天皇の火葬塚の西南1.7kmのところが一条天皇陵のある朱山、その麓が龍安寺で、ここはもともと大伴氏の拠点の場所だった。龍安寺から西南500mが、菅原道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺仁和寺北野天満宮の本殿の真西1.9km。仁和寺の真北800mが宇多天皇の陵。   北野天満宮の北門の真西1.6kmが、大伴氏の氏神、住吉大伴神社。  北野天満宮の一番南側にある社が、道眞の母親、大伴氏を祀る伴氏社。その真西2.5kmが、円融天皇の陵。そのすぐ傍にあるのが、宇多天皇の母親の班子女王(東漢氏の当宗氏)を祀る福王子神社(陵もここにあったとされる)。

 

 

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