第1117回 京都の古層と、北野天満宮。

 

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京都、太秦の地に築かれた蛇塚古墳。石室は全長17.8メートルで、同じ飛鳥時代に作られた石舞台古墳に匹敵する。玄室の大きさは日本で六番目、積み上げられた岩石は、チャートである。

 

 京都の北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに学問の神様として崇められる菅原道眞を祀る神社の代表であり、ここから全国各地に天満宮が勧請されている。

 一貴族が、全国的に知られる神様となったケースは菅原道眞くらいのものだが、その理由として一般的に道眞の怨霊が恐れられたからだと説明されるが、実際には当時の政治的状況が大いに関与していたのではないかということを、前回のブログで書いた。

 https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 北野天満宮は、菅原道眞を祀るために新たに作られた聖域というよりは、それ以前から特別な意味を持つ場所だった可能性が高く、その根拠はいくつかある。

 まず、北野天満宮の一の鳥居をくぐると、楼門に至るまでの参道に、菅原道眞の母の出身の伴氏を祀る伴氏社がある。伴氏社の鳥居は、蚕の社の三柱鳥居や、京都御苑厳島神社の鳥居とともに、京都三珍鳥居とされる。

 伴氏というのは大伴氏のことである。大伴氏は、6世紀前半、第26代継体天皇の擁立の時に活躍する大伴金村をはじめ、古代史において朝廷内で重要なポジションにいた。

 飛鳥時代に、蘇我氏物部氏の台頭で陰が薄くなったが、壬申の乱の時、天武天皇を支援し、その勝利の後、朝廷内で重臣となる。

 奈良時代聖武天皇の頃、高級官吏として歴史に名を残す活躍をした大伴家持は、歌人としても知られ、彼の詠んだ歌が、万葉集全体の1割を超えているため、万葉集の編纂に深く関わったと考えられている。

 しかし、785年、長岡京遷都の時、責任者であった藤原種継が暗殺され、大伴氏がその首謀者であると疑いをかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持も関与していたとされて官籍から除名されたほか、多くの大伴氏関係者が斬首されたり流罪となった。この時、桓武天皇実弟である早良親王も罪に問われ、抗議のために絶食するが、淡路島へ配流の途中に亡くなった。その後、長岡京で異変が起こり、早良親王の祟りだと恐れられ、急遽、平安京へと遷都することになった。

 この事件は、藤原氏による他氏排斥事件の一つとして知られているが、事情はもう少し複雑である。桓武天皇を擁立した藤原式家藤原種継が暗殺された後、種継の子供の藤原薬子と兄の藤原仲成藤原北家によって滅ぼされており、その後は、藤原氏のなかでも藤原北家だけが天皇外戚として繁栄を誇るようになるので、藤原氏の中での勢力争いがあった可能性が高い。

 大伴氏は、長岡京の変の後、しばらく衰退していたが、伴善男の時、勢力を盛り返す気配があったが、その伴善男が866年の応天門の変流罪となり、大伴氏の朝廷内での力は完全に失われた。

 しかし、その後、大伴氏が地方に下って生き残る選択をし、もしかしたら道眞の祟りの演出に関わった新興勢力の一員だったのではないかと前回のブログで書いた。

 北野天満宮境内社である伴氏社、もしくは北野天満宮の真西1.6kmのところにある住吉大伴神社が、大伴氏が大和から京都に移ってきた時に氏神を祀った場所であると考えられているので、北野天満宮と大伴氏とのあいだに何かしら関係がありそうである。

 また、北野天満宮に隣接する平野神社は、かつては現在の京都御苑と同じくらいの広さがあった。この平野神社は、土師氏の氏神を祀る神社で、桓武天皇の母親の高野新笠の母が土師氏だった。

 土師氏は、桓武天皇が即位したことによって、新たな姓を賜り、菅原氏、大江氏、秋篠氏となった。すなわち、菅原道眞もまた土師氏なのだ。道眞は大伴氏と土師氏のあいだに生まれた子供であった。

 土師氏というのは、4世紀末から6世紀前期までの古墳が巨大化していた頃、古墳造営や葬送儀礼に関っていた氏族である。巨大古墳には膨大な数の埴輪が埋められており、埴輪の運送の困難さを考えると、埴輪作りに適した場所を土師氏が拠点とし、そこが大古墳地帯となった可能性も指摘されている。実際に、応神天皇陵など大古墳が集中する藤井寺古市古墳群は土師氏の拠点であり、この地の道明寺天満宮は、もともとは土師神社で、道眞の死後、その境内に天満宮が祀られた。ここは、道眞も頻繁に訪れた地であり、道真の遺品である硯や鏡等が神宝として伝わっている。

 土師氏は、国譲りのために高天原から地上へと派遣されたのに大国主に心酔して戻ってこなかったとされる天穂日命アメノホヒ)の末裔とされる。

 北野天満宮の北門から入ってすぐのところ、本殿の背面に、御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座があり、ここにアメノホヒが祀られている。天満宮の参拝は、本殿の表側だけでなく裏側にあたる御后三柱も含めて礼拝するのが基本とされているのだが、現在の北野天満宮の本殿の位置は、南の一の鳥居からは随分と離れており、北門の方が近い。しかも、北門は、土師氏の氏神平野神社の正門のすぐ近くである。北門から入れば、本殿より先に、本殿の裏にある御后三柱のアメノホヒ(土師氏の祖神)にお参りすることとなる。境内の北側にある東門から入っても同じである。

 そして、この北野の地において、今では安産の神として人気の敷地神社(わら天神)は、北野天満宮よりも以前に天神を祀っていた。この敷地神社は、社伝によると、もともとは天神が降臨したとされる天神丘(金閣寺の北)の山麓で天神を祀っていたが、金閣寺造営の時に現在地に遷された。

 不思議なことに、北野天満宮の一の鳥居は、本殿の方を向いておらず、敷地神社と金閣寺の最奥の白蛇の塚(金閣寺が建てられる以前の西園寺家の別荘であった時代からの遺構で、「白蛇の塚」は、西園寺家の守り神だった)、そして天神丘を向いている。このライン上に、北野天満宮の本殿ではなく、伴氏社と、北野天満宮の中で実は一番大事な場所とされる野見宿禰社が位置している。北野天満宮への崇敬がことのほか篤かった豊臣秀吉も、野見宿禰社と同じ社殿に祀られている。

 野見宿禰は、土師氏の祖、つまり菅原道眞の祖先である。第11代垂仁天皇の時に活躍し、殉死に代わる埴輪の案を献言したことで知られる人物だ。

 北野天満宮の一の鳥居をくぐって参道を歩いてゆき、楼門をくぐっても本殿の姿が見えない。そして参道がなぜか左に折れており、その先が野見宿禰社である。 

 また、北門から入ると、まず最初に地主神社がある。もともとこの場所に小祠が設けられて、毎秋、雷神が祀られていた。その西には、西端の牛舎とのあいだに、ずらりと怨霊と関わりの深い12の末社が並ぶ。早良親王藤原広嗣伊予親王橘逸勢淳仁天皇、吉備大臣(吉備真備となっているが、吉備津彦だと思われる)などで、いずれも、恨みを残して死んでいった人たちで、菅原道眞の前の時代、厄災があった時に御霊として祀られた人たちだ。

  南の門から入って鳥居や楼門をくぐると、大伴氏関係の伴氏社や、土師氏関係の野見宿禰社(土師氏の祖)へと導かれ、北門や東門から入れば、まず最初に天神(雷神)や御霊を祀る場所があり、本殿の裏(北から入ればこちらが正面)に、土師氏の祖神であるアメノホヒの聖域がある。

 こうして見ていくと、北野天満宮は、かつては雷神や御霊を祀る聖域で、大伴氏や土師氏が関わっていた。その場所で大伴氏と土師氏のあいだに生まれた菅原道眞が祀られるようになった時、雷神と御霊という祟り神に菅原道眞という具体的な依り代が政治的に統合され、その神力が、より強力になっていったのだろう。

 北野の地で菅原道眞の霊を手厚く祀るようになるのは、朱雀天皇が譲位した翌年の947年からで、その時点で、道眞の死後、すでに44年が経っている。その時は、菅原道眞が現在のように天神そのものとして祀られていたわけではなく、早良親王をはじめ政争に巻き込まれて無念の死を遂げた人々と同じように御霊として祀られていた。

 天皇の勅使が派遣されて祭祀が行われて北野天満宮天神という正式な神号が送られたのは一条天皇が6歳で即位した翌年の987年で、これには一条天皇の祖父の藤原兼家藤原道長の父)が大きく関係している。

 藤原氏のなかでも、菅原道眞と対立した藤原時平と関係ある人々は道眞の怨霊を恐れていたが、藤原氏の中でも例外的に道眞と親しかった藤原忠平の子孫は、道眞の霊に守られるという神託を受けており、藤原兼家は、その忠平の孫だった。

 そして、兼家の姉の安子が第63代冷泉天皇と第64代円融天皇を産んでおり、円融天皇の息子が一条天皇なので、一条天皇もまた藤原忠平の子孫で、道眞の霊に守られる存在であった。

 それゆえ、一条天皇が幼くして天皇の位についた時に、藤原兼家の思惑で、道眞の霊を天皇および国家の守護神としたのだろう。さらに兼家の権勢を継いだ藤原道長も、菅原道眞の霊に守られる特別な藤原一族として、栄華を極めることになる。

 このあたりのことも以前のブログで詳しく書いた。https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/07/12/013520

 菅原道眞と牛が結び付けられた伝承がたくさん残っている。菅原道眞が死後、神として祀られる時の号は天満大自在天神であるが、大自在天というのは仏教におけるヒンドゥー教の破壊の神シヴァのことであり、シヴァは白い牛の背に乗っている。

 古代中国において、牛は大切な生贄であり、牛を殺して天神を祀り、祈雨を行ったり、御霊を鎮めていた。これが日本にも伝わり、『日本書紀』によれば、第35代皇極天皇の元年(642)、厄災が続いた時に牛馬を殺して祀ったという記録が残っている。

 また、京都の夏の名物になった祇園祭は、清和天皇の治世において、富士山の記録に残る最大の貞観の大爆発や大地震、大津波、疫病の流行などが起きた後、869年、京都の神泉苑で怨霊を鎮めるための御霊会が行われ、一条天皇の父親の第64代円融天皇が即位した頃(969年)頃から、京都東山の八坂神社の祭礼として毎年行われるようになった。

 祇園祭で有名な八坂神社の祭神は、876年、祇園社として創建されたが、最初の祭神は天神だった。

 この天神に対して牛を生贄として殺すことで豊穣や祈雨が祈願されていたが、この天神が怨霊を鎮める神として崇められるようになり、生贄の牛が供えられることで、天神は牛頭天皇と呼ばれるようになった。

 牛と天神の組み合わせによる霊力はきわめて強力であり、これを丁重に祀れば、災厄のもとになっている怨霊を鎮められると考えられた。

 牛頭天王は、このようにして創造された日本独自の神であり、明治維新までは八坂の祇園社の祭神だった。

 明治維新によって、牛頭天皇スサノオとなり、祇園社は八坂神社となった。

 八坂神社のある東山は、古代、鳥辺野と呼ばれる鳥葬地帯である。

 一般的に、八坂神社にお参りする時、四条通りの突き当りにある大きな朱色の鳥居から入り、この西楼門が入り口だと思っている人が多い。

 しかし、実際はそうではなく、南側にある南楼門が正式な入り口であり、本殿も、南楼門に向かって建てられている。

 今では高台寺清水寺に続く観光ルートになっているが、かつては、この南楼門を出たところから鳥葬地帯へと続いていた。つまりこの門は死の世界へとつながる門である。

 そして北野天満宮の北も、かつては、蓮台野や衣笠山など、鳥葬地帯であった。

 八坂神社と北野天満宮は、京都の東と北の葬送地において、天神と牛の呪力によって怨霊を鎮める聖域だったのだ。

 そして、八坂神社の正門が鳥葬地への出入り口になっているように、北野天満宮の場合、北門と東門が、蓮台野や衣笠山などの鳥葬地、すなわち死の世界への出入り口になっていたのだろう。

 北野天満宮の位置は、菅原道眞を重んじて政治改革を行おうとした宇多天皇ゆかりの仁和寺の真東1.8kmのところで、さらに、宇多天皇や菅原道眞の親しかった藤原忠平の子孫の花山天皇の陵や、一条天皇の火葬塚が、北野天満宮の真北に並んでいる。

 また、北野天満宮は、『平家物語』の鬼の物語にも出てくる。藤原道長の栄華に貢献した源頼光の四天王の1人、渡辺綱が、一条戻橋で出会った鬼に抱きかかえられ、愛宕山に向かって飛んでいる途中、鬼の腕を切り落として落下したところが北野天満宮である。片腕を失った鬼は、そのまま愛宕山へ飛び去るのだが、一条戻橋と北野天満宮愛宕山は、地図上でも一直線上に並んでいる。

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北野天満宮 一の鳥居

 また、北野天満宮の一の鳥居の前に立つと、鳥居の背後に、きれいな山が見える。

 沢山と桃山である。北野天満宮境内の西にそって流れる天神川の源流が、この沢山である。

 沢山周辺は、旧石器時代の石器や、平安時代前期から中期にかけての土器や瓦が出土している。また磐座とみられる大岩もあり、平安時代以前から信仰の対象の山だったことがうかがえる。沢山の山頂近くにある沢ノ池では、建造物の遺構や石段、礎石跡、御堂跡なども発見されており、このあたりが、古代からの祭祀および信仰の場所であったことが想像できる。 

 山深い場所であり、訪れることは簡単ではない。しかも、京都盆地と面する部分は、急峻な断崖絶壁となっている。

 京都盆地の北側にそびえる山々の大部分は、数億年前から遥かなる歳月をかけて海底に堆積した地層である。もっとも深い海底数千メートルのところでは、プランクトンの死骸が堆積して硬いチャート層となり、浅いところでは、石灰岩、砂岩、泥岩、礫岩などが形成された。

 なかでもチャートは特別なオーラーを発していて、水晶と同じ珪素が主成分なので水に濡れると光沢を発し、ナイフで傷がつかない硬さがある。そして、岩石の形成に時間がかかっているので、地球環境の変化の影響を受けており、色味も様々で興味深い。

 沢山周辺は広大なチャート地層であり、沢山を源流の一つとする清滝川から保津川にかけての一帯もチャートの岩盤がむき出しである。

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沢ノ池の近くの菩提の滝。チャートの岩盤がむき出しである。

 沢山が古くからの聖域であった理由として、たとえば沢山の南側の断崖絶壁は、現在のように植林化されていない時、チャートの光沢のある岩盤が南からの陽光を受けて鏡のように輝いていたかもしれない、と想像してみるのも悪くない。

 というのは、沢ノ池の真南4.5kmのところに蛇塚古墳があるからだ。この古墳は、盛り土が流されて石室だけがむき出しになっているが、日本の古墳で六番目に大きい玄室が作られている。日本で五番目に大きな玄室を持つのが蘇我馬子の墓と伝えられる飛鳥の石舞台古墳で、蛇塚古墳は、これと同時代のものである。

 石舞台古墳の巨石は花崗岩だが、蛇塚古墳の方は、独特のオーラを発するチャート岩である。

 これらのチャートは、蛇塚古墳のそばを流れる桂川(西1km)、もしくは天神川(東1.3km)を利用して運ばれたと考えられる。

 どちらも、川を遡ればチャートの岩盤地帯である。

 沢山から発した水は、西に向かえば清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺あたりを抜けた後、保津川桂川)に合流し、蛇塚古墳の西1kmのところを流れる。東に向かうと天神川となって一条天皇の火葬塚、花山天皇の陵を経て北野天満宮へといたり、太秦を通って蛇塚古墳の東1.3kmのところを通り、桂川に合流する。

 沢山から発した流れは、いったんは東西に分かれるが、蛇塚古墳のところでは、二本の流れが2.3kmほどに狭まり、その真ん中あたりに蛇塚古墳が築かれているのだ。

 しかも、東に天神川が流れていく方向が蓮台野の鳥葬地帯で、西に清滝川が流れていく方向に、現在、愛宕念仏寺や化野念仏寺があるが、ここは化野の鳥葬地帯だった。

 沢山から東西に流れていく川が山から里に至るあたりが、鳥葬という生命の循環の場所だったのだ。蛇塚古墳が、ちょうどその二つの川の中間にあるのは、偶然かもしれないが興味深い。

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一番北、沢山の山頂近くにある沢の池周辺には、旧石器時代から平安時代にかけての遺物が多く発見されている。この沢山を源流として、東に天神川となって流れ、一条天皇火葬塚、花山天皇陵、北野天満宮を通り、太秦から桂川へと合流する。また西に向かうと清滝川となり、神護寺を通り、愛宕念仏寺や化野念仏寺のある鳥葬地の化野あたりをすぎたところで桂川に合流する。化野の地と北野天満宮は、ほぼ東西の同緯度で、その途中に、道眞を重んじた宇多天皇ゆかりの仁和寺が鎮座する。嵯峨野の化野と、北野天満宮は、沢ノ池からの距離がほぼ同じである。そして沢ノ池の真南が垂箕山古墳、その真南500mが蛇塚古墳で、蛇塚古墳のところでは、西の桂川まで1km、東の天神川までは1,3kmとなる。同じ源泉から発して北野と化野の東西に分かれた水は、やがて桂川で一本となる

 

 さらに気になるのは、この蛇塚古墳の真北500mのところに垂箕山古墳があることだ。

 この古墳は、桓武天皇の第12皇子である仲野親王の古墳とされているが、それは普通に考えればありえない。というのは、この古墳は前方後円墳で70mほどの大きさを誇り、同じ桓武天皇の皇子で皇位を継いだ嵯峨天皇の陵墓の二倍ほどの大きさがあるからだ。さらに、桓武天皇をはじめ、この時代の古墳は、天皇のものであっても円墳であり、天皇の十二番目の皇子の墓が、巨大な前方後円墳であるはずがない。 

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箕山古墳


 考古学的にもこの古墳は、仲野親王よりも300年ほど前のものとされているのだが、そうした事実よりも、なぜここが仲野親王と結び付けられているかが問題なのだ。

 実は、仲野親王というのは、菅原道眞を重んじた宇多天皇の外祖父なのである。

 前回のブログでも書いたように、もともと天皇になる予定のなかった宇多天皇の母親の班子女王の父親が仲野親王で、母親が東漢氏の当宗氏の女性だった。十二番目の皇子は、自力では生計を立てるのが難しく、仲野親王は当宗氏の女性と結ばれて支援を受けていたのではないかと想像できる。

 そうすると、垂箕山古墳というのは、当宗氏(東漢氏)と関わりの深い聖域だったのかもしれない。

 これとの関連で興味深い記録があり、「806年3月17日、桓武天皇が70歳の生涯を閉じた時、天皇の山陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野の付近)に定められた。ところが、そのことは宇太野付近の在地勢力の反発をひきおこし、京の周辺の山で不審火があいつぐことになる。占いの結果、これは山陵が賀茂神社に近いための祟りであることになり、天皇の陵は山城国紀伊郡(現・京都市伏見区)柏原山陵(柏原陵)に改められた。」というものだ。

 宇多野というのは、沢ノ池と垂箕山古墳のあいだの地域一帯である。

 この地域に勢力を誇る集団が、桓武天皇の陵の位置を変更させたのだ。

 にもかかわらず、桓武天皇の第12皇子の仲野親王の墓とされる垂箕山古墳や、仲野親王の娘で宇多天皇の母となる班子女王の陵墓(垂箕山古墳の北東1.5kmの福王子神社にあった)や、宇多天皇の陵墓(さらに北東1km)が、この宇多野の地に存在するのである。

  これらのことから、仲野親王宇多天皇の背後には、桓武天皇が築いた王朝体制とは別の力が存在していたとは考えられないだろうか。

 ちなみに、垂箕山古墳の真南500mのところの蛇塚古墳が、日本で六番目に大きな玄室を誇る古墳だが、飛鳥の地に、蘇我馬子の古墳とされる石舞台古墳よりも大きく、日本で三番目の規模を誇る玄室を備えた真弓鑵子塚古墳がある。この古墳は、蛇塚古墳と同じ頃に建造されたものだが、炊飯具をかたどる土器が出土しており、これは渡来人の古墳からよく見つかる土器だということで、京都教育大名誉教授の和田萃氏が、飛鳥時代蘇我氏のもとで勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏の墓ではないかと指摘している。

 もしそうだとすると、同じ時代、京都の地においても、東漢氏が勢力を誇り、蛇塚古墳を築き、この宇多野の地に勢力を維持し続けて、その一族の女性が桓武天皇の第12皇子の仲野親王に嫁ぎ、班子女王を産んで、彼女から産まれた宇多天皇が源氏の身分から下克上のように天皇に即位し、菅原道眞を重用して政治改革を行おうとし、藤原時平たちによって阻止されると道眞の怨霊騒ぎを引き起こしたというストーリーができる。

 それは空想にすぎないかもしれないが、道眞の怨霊騒ぎの後、東漢氏坂上氏は、清和源氏の武士団の中心として活躍することになり、時代は、貴族の時代から武士の時代へと大きく変化していく。

 いずれにしろ、北野天満宮の境内西にそって流れる天神川の源流である沢山の頂上付近の沢ノ池の真南に、垂箕山古墳、蛇塚古墳が存在していることは、とても興味深い。

 実は、この蛇塚古墳をさらに真南に行くと向日山の東隣を通り、ここは長岡京の政治の中心、大極殿内裏のあったところである。向日山の高台には弥生時代の集落跡があり、さらに日本最古級の巨大古墳で、しかも前方後方墳の元稲荷古墳があり、その隣に向日神社がある。この向日神社を二倍にして設計したのが東京の明治神宮だということは、あまり知られていないが、明治維新という王政復古の大事業における首都の聖域として、なぜ、向日神社がモデルにされたのか!? 

 そして、向日山の麓に、現代の天皇の血統を確実に遡ることのできる最古の天皇、第26代継体天皇が築いた弟国の宮もあり、蛇塚古墳の真南7.5kmの向日山の地が特別な場所であったことは間違いない。

 さらに向日山の真南3kmのところにあるのが、この地域最大、全長128mの惠解山古墳である。この古墳からは、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見され、このように多量の鉄製武器が出土した例は全国的に見ても非常に珍しい。

 そして、その真南4kmが、石清水八幡神社の鎮座する男山。さらに真南には、奈良県の葛城の地で重要な位置付けとなる神社が南北に並ぶ。長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、そして高鴨神社(日本の賀茂、鴨、加茂神社の総本山)だ。

 話が長くなるので、それぞれの神社の特殊性については、ここに言及しないが、奈良の葛城の地は、奈良の三輪山よりも古い日本の中心地なのだ。

 いずれにしろ、不思議なことだが、京都の沢山にある沢の池から、日本の古代史の中で重要な場所が、きれいに一本の線でつながっている。

 これは単なる偶然ではない。というのは、5世紀末、奈良の葛城の地に居住していた秦氏などが、京都に移住したという記録が残っているからだ。

 5世紀のはじめ、第15代応神天皇の時代、葛城襲津彦によって、秦氏東漢氏や忍海氏といった渡来系の氏族が日本に移住して、新たな技術をもたらした。

 それからしばらくのあいだ、葛城氏は、大王家との婚姻を重ねて巨大な勢力を誇っていたが、5世紀末、雄略天皇のよって討たれた。葛城の地にいた渡来系の人々が京都に移住したのは、そうした政変のあった頃だと思われる。

  渡来人たちの移住と関係あるのかどうかわからないが、二つの地域のあいだをつなぐ南北のきれいなライン上に、重要な聖域が設けられているのがとても興味深い。

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上から、沢山のそばの沢の池、垂箕山古墳、蛇塚古墳、向日山、惠解山古墳、石清水八幡神社の鎮座する男山、狐井城山古墳、長尾神社、葛木坐火雷神社(笛吹神社)、葛城一言主神社、高鴨神社。

 

 

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