第1120回 ”いかるが”の背後にあるもの(3)

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加古川のいかるが、鶴林寺の本堂と太子堂

(第1119回の続き)


 日本神話において、日本を一つにまとめるために東に西にと遠征し続けたヤマトタケルの出生地が、兵庫県加古川の”いかるが”の地である。

 前回の記事で書いたように、加古川の西岸には仁徳天皇陵などの古墳の石室に使われた竜山石の産地があり、その巨大な岩そのものを祀っている生石神社は、物部守屋によって作られたとされているが、この地の歴史は、さらに遡ることになる。

  ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は、第12代景行天皇の最初の妃であり、吉備臣らの祖の若建吉備津日子の娘だった。

 加古川(当時は印南川)地域に住んでいた姫のもとに、景行天皇が求婚のためにやってきた時の内容が、播磨国風土記に詳しく書かれている。

 2人は、めでたく結ばれ、ヤマトタケルが誕生することになるのだが、ヤマトタケルの母の播磨稲日大郎姫は、死後、加古川流域の日岡山に葬られ、その陵は、宮内庁により加古川町大野にある墳丘長約80メートルの前方後円墳日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されている。

 ヤマトタケルが生まれる前、播磨全域は、ヤマト王権支配下に入っておらず、この婚姻は、地方勢力との結束を強めることが意図されていたのではないかと思われる。

 生石神社の真北3kmのところに播磨富士と称えられる姿美しい高御位山(たかみくらやま)がそびえるが、その頂上は、断崖の岩場がせり出して巨大な磐座のようになっている。この磐座を御神体とする高御位神社の祭神は、生石神社と同じ大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命と、少彦名命(すくなひこなのみこと)である。高御位山の頂上は、天津神の命を受け、国造りのために大己貴命少彦名命が降臨した所とされているのだ。

 つまり、一般的に大国主は、国津神として、もともと日本にいた勢力で、天津神に国譲りを迫られるものだと理解されているが、大国主命も、その支援者の少彦命も、国づくりのために他からやってきた勢力であり、彼らの手で国づくりが整った後、また別の勢力に国譲りを行ったということになる。

 この流れは、物部氏の祖神のニギハヤヒと同じである。ニギハヤヒは、天孫降臨をしたニニギの曽孫にあたる神武天皇が東征を行ってヤマトの地に至った時、すでにヤマトの豪族ナガスネヒコとともにあり、最初は、神武天皇に抵抗した。後に、自らも天津神であることを示し、ナガスネヒコを殺して神武天皇に従属する。

 この神話の流れを播磨の地に照らし合わせると、第12代景行天皇と結ばれた播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の父の若建吉備津日子(わかひこたけきびつひこのみこと)は、第10代崇神天皇の時に諸国に討伐のために派遣された四道将軍の1人、吉備津彦命彦五十狭芹彦命)の弟であるとされ、『古事記』では、吉備津彦命とともに吉備国の追討に派遣されており、針間(播磨)を、道の口として平定したと記述されているのだ。

 つまり、崇神天皇の時に西方に派遣された播磨稲日大郎姫の父は、吉備と播磨を平定した後、播磨の地の実力者になり、そこに景行天皇が同盟のためにやってきたということになる。

 第10代崇神天皇の母親は、前回の記事で紹介した伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の妹の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で物部氏だが、第12代景天皇の母親の日葉酢媛(ひばすひめ)は、崇神天皇の時に丹波に派遣された丹波道主命と、久美浜の地で海運を司る三島系の豪族、河上之麻須郎の娘とのあいだに出来た娘なので、景行天皇崇神天皇とは異なる系譜の大王で、そのため、崇神天皇によって治められた地の豪族と新たに手を結ぶ必要があったのかもしれない。

 そして、さらに興味深いのは、景行天皇播磨稲日大郎姫の結婚の仲立ちをしたのが伊志治という息長氏の人物であったことだ。

 息長氏は、米原の霊仙山の麓を本拠とする豪族だが、日本の天皇制にとって重要な位置づけにある第26代継体天皇および、天智天皇天武天皇との関わりが深い。

 

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交野のいかるがと播磨のいかるがを結ぶ東西のラインの延長上、吉備の地に鬼ヶ城があるが、ここは吉備の鬼退治の舞台である。 綾部のいかるがの真東に、継体天皇の誕生地、近江高島の大炊神社があり、その真東に、霊仙山の麓、上丹生が息長氏の拠点、さらに真東が、アメノホアカリが祭神の尾張一宮、真清田神社が鎮座する。綾部のいかるがの真北も、アメノホアカリが祭神の籠神社である。交野のいかるがの真南は、奈良葛城の金剛山の麓、高天彦神社であり、ここは5世紀の中旬、権力の中枢にいた葛城氏ゆかりの地だが、この神社の傍に蜘蛛窟がある。ここは土蜘蛛と呼ばれ排除された一族の住処と考えられている。また、交野のいかるがと綾部のいかるがを結ぶラインの延長上が久美浜で、ここは、景行天皇の母、日葉酢媛の母の実家である。

 第26代継体天皇の祖父母は、息長氏の意富富杼王おおほどのおおきみ)である。

 そして第30代敏達天皇の皇后が、息長真手王の娘の広姫で、押坂彦人大兄皇子を産むが、この皇子は天皇に即位しなかった。その理由は、蘇我氏の勢力が高まって蘇我氏と血縁関係のある天皇が続いたためである。

 しかし、押坂彦人大兄皇子の息子が、第34代の舒明天皇として即位。舒明天皇は、死後、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらのみこと)と、息長との関係を強調される名が贈られており、彼の息子が、天智天皇天武天皇でなのである。

 さらに、この2人の天皇の母親である斉明天皇もまた、息長氏の血を受け継ぐ押坂彦人大兄皇子の孫である。彼女は、舒明天皇の死後、後継者が決まらなかったため第35代皇極天皇として即位し、645年の乙巳の変(大化の改心)の後に弟の孝徳天皇に譲位したものの、654年に孝徳天皇が病のために崩御すると、第37代斉明天皇として再び即位した。

 このあいだ、乙巳の変白村江の戦いなど政治的な主導権を握っていたのは舒明天皇の息子の中大兄皇子であるが、彼が第38代天智天皇として即位するのは668年で、すでに42歳になっていた。なぜ、それまで皇位につかなかったかというのも古代史の謎だが、いずれにしろ、629年に舒明天皇が即位した後は、天智天皇天武天皇や、彼らの子孫も含めて、息長氏の血統の天皇がずっと続いている。

 息長氏のなかで、もっとも有名な人物は、第15代応神天皇をお腹にみごもったまま三韓遠征を行って勝利をおさめた神功皇后である。

 神功皇后は、本名は息長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)で、その父系が息長氏で、母系の祖先が渡来系の天日槍(あめのひぼこ)である。

 その神功皇后が嫁いだのは、ヤマトタケルの息子の第14代仲哀天皇である。すなわち、神功皇后は、加古川播磨稲日大郎姫の孫と結ばれ、応神天皇を産んだことになる。

 それゆえなのか、加古川周辺には神功皇后の伝承が多く残っている。

 相生の松で知られ、能・謡曲の『高砂』の舞台の一つとも言われている高砂神社は、加古川の西岸に鎮座し、大己貴命を祀るが、社伝によれば、大己貴命大国主命)の加護によって三韓遠征を成功させた神功皇后が、凱旋の際、大己貴命から「鹿子の水門(かこのみなと)に留まる」との神託を受けたことで創建されたと説明されている。 

 また、加古川をはさんで高砂神社の対岸に鎮座する尾上神社は、神功皇后三韓征伐の際、この地に上陸したが長雨のために船を進めることが出来なかったため、「鏡の池」で潔斎沐浴して晴天を祈願し、住吉大明神を勧請したことが起源とされる。

 興味深いのは、加古川を挟んで鎮座する高砂神社と尾上神社は、ともに、縁結びや和合の象徴とされる相生の松がそびえる場所なのである。

 世阿弥の作とされる能の「高砂」の中で謡われる「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」は結婚披露宴の定番の一つであり、高砂の地は、夫婦和合の象徴として知られるが、そのルーツは、この土地でヤマトタケルの父と母が結ばれたことなのだ。

 そして、息長氏と渡来人の血を受け継ぐ神功皇后が、この地を拠点とする播磨稲日大郎姫の孫と結ばれて応神天皇を産む。

 この播磨の地での和合が、その後の栄華とつながる物語は、平安時代に書かれた『源氏物語』にも影響を与える。

 播磨稲日大郎姫を娶るために出かけた景行天皇は、摂津の国の高瀬の渡船場に着き、渡し守に淀川を渡りたいと頼んだところ、渡し守の紀伊国の人・小玉は「私は天皇の家来ではありません」と答え、天皇が、なんとか渡してくれるように頼み、王冠を取って舟の中に投げこんだところ、渡し守は、それを渡し賃として受け取り、天皇を船に乗せた。そして天皇は明石郡の御井(かしわでのみい)に着き、食事を召し上がられた。景行天皇が自分を娶るためにやってくると伝え聞いた播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は、恐れ多いと姿を隠したが、天皇が行方を探し出して、賀古(かこ)の松原で求婚した。そして自分の船と姫の船をつなぎ、舵取りの息長氏の伊志治とともに六継の村に戻り、そこでめでたく結ばれた。

 この物語に登場する賀古(かこ)の松原が、高砂神社および、その対岸の尾上神社の相生の松に重ねられている。

 この景行天皇播磨稲日大郎姫の物語は、『源氏物語』の第12帖の須磨と第13帖の明石の帖にも重なってくる。

 紫式部は、54帖という長編の『源氏物語』を、須磨と明石の帖から書き始めたとされる。

 京都で公私とも苦境に陥っていた光源氏は、須磨の地へと流れ、そこで寂しく暮らしていた。その時、激しい嵐があり、光源氏は住吉の神に祈る。その結果、命は無事だったが、落雷で邸が焼けてしまう。嵐が静まった朝、源氏の夢の中に桐壺帝が現れ、住吉神にしたがって須磨の地を離れるように告げる。その予言通り、明石入道が迎えの船に乗って現れ、光源氏は明石に移る。明石入道もまた、住吉の神のお告げにしたがったうえでの行動だった。

 そして明石の地で、光源氏は、明石入道の娘と出会う。娘に心を寄せる光源氏に対して、娘は、身分が違いすぎて恐れ多いと躊躇う。しかし、とうとう2人は契りを交わす。

 その後、光源氏に運が向いてきて、京都に戻ることになるが、すでに明石入道の娘は、光源氏の子供を身ごもっていた。後に、2人の子供である明石の姫が、天皇の皇后となり、たくさんの子供を産み、明石一族は栄える。

 『源氏物語』は、第41帖の「幻」を最後に光源氏は姿を決してしまい、その後は、主に宇治の地が舞台となるが、そこで描かれているのは明石一族の栄華である。

 『源氏物語』は、明石一族の栄華を伝えて終了するので、貴公子の光源氏の栄華は、その布石のようになっている。

 『源氏物語』を知らない人はほとんどいないが、54帖の長大な物語を最後まで読んだことのある人も非常に少ないため、この物語を、プレイボーイの光源氏の栄光を描いたものだと勘違いしている人が多い。源氏物語の中の光源氏は、華やかな存在ではあるが、実際には、常に悲哀を帯びており、当人も、世俗を捨てて出家することを強く望み続けている。

 それはともかく、興味深いポイントは、明石から加古川にかけての地が、都の高貴な男性と、地方豪族の美しく聡明な女性との結びつきの場となり、しかも、その結びつきから、ヤマトタケルという歴史の転換期の英雄の誕生や、源氏物語の明石一族の栄光へとつながっていることだ。

 『源氏物語』と神功皇后の物語の中で重要な役割を果たす住吉神は、明石から加古川の地にかけて多くの場所で祀られている。

 住吉神とはいったいどういう神なのか? いかるがの謎を解く鍵が、ここにも秘められている。

                                 (つづく)

 

 

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