第1123回 いかるがの背後にあるもの(5) 食物を司ることの意味の深さ 

f:id:kazetabi:20200929213156j:plain

斑鳩寺 (兵庫県揖保郡太子町)。境内に稗田野神社の御旅所があり、稗田神社と深い関係にあった。稗田神社は古事記の制作に関わった稗田阿礼を祀っているが、稗田阿礼は、鎮魂儀礼に携わっていた猿女氏である。


 第1121回の記事において、第12代景行天皇神功皇后が、現在の兵庫県加古郡播磨町で、御食事(みあえ)を行ったことについて、その背景を書いた。

 「あへ」は”饗”であり、「饗応」のこと、すなわち”酒食を供してもてなすこと”で、同盟関係を強くするためや、神と人間との結びつきを強めるために行われた。それは、古代だけでなく、現代の政界やビジネス界も同じである。

 そして、古代、天皇および祭祀の食膳に仕えた人々を統轄した氏族が、膳氏(かしわでうじ)と阿閉氏(あべうじ)だった。この両氏は、ともに、第10代崇神天皇の時の四道将軍の一人、大彦命の末裔で、兄弟氏族のようなものだ。

 食膳は、ただの食料提供ということではなく、上に述べたように饗応を調えることであるから、外交や、祭祀とも深く関わっていた。

 現在でも、天皇皇位継承において即位の礼が行われるが、即位の礼を構成する5つの儀式の最後の一つが饗宴の儀であり、その後、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭(古代は、一代一度ではなく、毎年行われる宮中祭祀新嘗祭と明確な区別はなかった)が行われるが、あべ氏や、かしわで氏は、これに関わっていた。

 平安時代陰陽師として広く知られる安倍晴明も、”あべ”氏であるが、彼は、921年、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)の安倍益材の子として生まれた。大膳大夫とは宮中の食膳を司る役所の長官のことで、晴明も父の後を継いで大膳大夫を努めるようになるが、その後、賀茂氏に弟子入りし陰陽の道に進んだ。晴明は、陰陽師として有名になった後、播磨の守にもなっている。

 安倍晴明陰陽道と聞くと、呪文や式神を思い浮かべ怪しいイメージとつながるが、陰陽道は、森羅万象の摂理を読み取り、禍(わざわい)を避け、福を招く方術であり、天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問を組み込み、自然界の変動や災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術であるから、祭政一致の古代において、”まつりごと”と深く関わっていた。日本を律令国家に導いた天武天皇は、『日本書紀』において、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が出てくるほど陰陽道に通じていた。

 また、古代のまつりごとは、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官に明確に分けられていたが、神祇官が、大嘗祭・鎮魂祭の施行、巫(かんなぎ)や亀卜を司っていた。

 古代、神の意思や要求は、卜占(=うらない)によって知ることとなった。

 たとえば、”神の祟り”と言う時、現代人の感覚だと、罪ある行為の後に受ける罰、禍というイメージとなる。

 しかし、柳田國男は「タタリといふ日本語のもとの意味は、神かかりの最初の状態をさしたもの」と説明している。また、折口 信夫は、「神意が現はれる」ことを意味するとし、「人の過失や責任から祟りがあるのではなく、神が何かを要求する為に、人を困らせる現象を示すことてあった」としている。

 古代においては、祟りの現象の中にある神の要求、解決しなければならない出来事への対処を知るために、神との交流が必要で、卜占こそが、その重要な手段だった。

 そして、卜占を専門に行う卜部という者たちが神祇官の中にいた。彼らの卜占の技術は亀卜であった。亀卜とは、海亀の甲羅を焼き、そのひひ割れの形状で占う占術であった。(亀卜が日本に入ってくる前は、鹿の骨が占いで使われていた)

 卜部の構成するメンバーは、対馬の者が10名、壱岐の者が5名、伊豆の者が5名だった。

 この卜部のルーツに、天皇や祭祀の食膳に仕えた阿閉氏が関係している。

日本書紀」によれば、顕宗天皇3年(487年)の2月、阿閉臣事代が天皇の命を受けて朝鮮半島任那に派遣される途中、壱岐島において、月神が人に憑りつき、「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月讀神社から分霊させ京都に祀らせた。これが、京都の松尾大社の摂社となっている月読神社で、押見宿禰の子孫が、壱岐の卜部なのである。

 さらに阿閉臣事代は、同じ年の4月、対馬においても、日の神が人に憑かれて、『倭の磐余(イワレ)の田を、わが祖・高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ』と告げられた。阿閉臣事代はこのことを朝廷に奏上し、神の求めのままに四十四町を献った。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)が、これをお祀りしてお仕えした。とある。

 対馬の下県直の子孫が、対馬の卜部である。

 壱岐島においては、月神が自分に土地を奉納せよと告げ、対馬では、日神が、高皇産霊(タカミムスヒ)のために田を奉納せよと告げるのだが、対馬の日神というのは、皇祖神のアマテラス大神ではなく、アマテル(阿麻氐留)である。これは、アマテラス大神ではなく、同じ太陽神のアメノホアカリだとする説もあるが定かではない。しかし、対馬が日神のルーツであることは確からしい。

 律令国家の最高神として位置付けられたアマテラス大神というのは、もともとどこかに存在した神というより、かつて存在した日神を、国家神として新たに権威づけし直した神なのだろうと思われる。

 いずれにしろ、神祇官の中で卜占を司る壱岐対馬の卜部が、食膳および外交に仕えた阿閉氏を通じて、ヤマト王権の中に深く関わることになった。

 壱岐対馬という九州と大陸のあいだを結ぶ地域は、朝鮮半島や大陸の最新の情報の受信地としても機能しており、当然ながら、その情報は政治判断において重要だった。朝鮮半島および中国の動向は、日本の近未来と無関係でありえない。

 卜占は、単なるシャーマニズムではなく、陰陽道が、天文、暦数、時刻、易からの知識と情報で災厄を防ぐための道を判断したのと同じで、海亀の甲羅に現れるひびの形状を意味付けるうえで、あらかじめ獲得されていた情報知識が活用されていたことは言うまでもない。

 そして、阿閉氏というのは、異なる勢力との和合、服属儀礼、外からの使者などとの「饗(あえ)」の食物供献に関与することで、外交交渉を担当していた。また、大嘗祭などの祭祀や儀礼においても、その祭祀に関わる膳部、采女、卜部などを統率する立場となる。

 大嘗祭は、新たに即位した天皇が、皇祖神に対して、新穀からなら御飯(おもの)、御酒(みき)などの神饌をお供えし、自らも召上げる一代一度の祭儀だ。

 その準備は、新穀を収穫する二つの地方を占いで決める儀式から始まる。その二つの地方は、悠紀(ゆき)と、主基(すき)と呼ばれ、ともに清浄という意味がある。令和の大嘗祭においては、悠紀が栃木県で、主基が京都府だった。古代、播磨国は、悠紀や主基にたびたび選ばれており、若狭や伊勢とともに重要な御食国(みけつこく)だった。

 古代王権は、新天皇の即位にあたり、地方勢力を代表する悠紀(ゆき)とか、主基(すき)に対して、国讃(くにほめ)や、めでたい伝承を奏上させることで、服属を確認し、さらに言葉に宿る生命力や呪力を獲得しようとした。食を司ることは、このように単なる食べ物を管理することではなく、そこには、占を行う卜部や、大嘗祭や鎮魂祭などの時に神楽の舞などの奉仕をした猿女や、天皇の食事に奉仕した采女なども関わってくる。

 さらに阿閉氏は、そうした職掌ゆえ、大王に近侍しながら地方との関係を深める立場であり、天皇の考え、外国や地方の動向など貴重な情報が多く集まった。そして大王の警護や雑役を務める丈部(はせつかべ)も統率し、軍事的な役割も果たすことになる。

 第1121回の記事で取り上げた『住吉神代記』のなかで、三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、加古郡播磨町の浜に上陸して住吉の神に饗(あへ)を捧げる前の出来事として、「海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいた。それで、その地を、鹿兒(かこの)濱と名付けた。」という描写があった。

 アイヌの英雄叙事詩のなかに、「角のある鹿の皮を身につけた少年」の物語があるが、アイヌの人たちは、鹿皮を着衣として使っていた。

 実は、神功皇后が阿閇濱(あへのはま)と名付けた加古郡播磨町というのは、俘囚の人たちの移住地だった。

 俘囚とは、奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた帰服蝦夷を指し、当時、律令国家体制において、これら俘囚は強制的に全国各地に移住させられ、国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除されていた。そうした政策がとられたのは、彼らの反乱を抑えるためでもあるが、俘囚は優秀な傭兵でもあったからだ。彼の生活様式は一般とは異なり、漁労狩猟が認められ、農業は行わず、あとは武芸訓練を行っていた。

 そして、これらの俘囚を管理するために、俘囚の中から優れた者を夷俘長(いふのちょう)に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令が発出されている。

 あべ氏は、もともと俘囚の長であり、後に、中央で重要な役割を果たす貴族になっていったという説もある。

 阿部氏と同じく、朝廷の警備や武力勢力として朝廷に仕えて中央で勢力を伸ばした佐伯氏は、大伴氏と同族とされるが、そのルーツが、「日本書紀」で次のように説明されている。

 「日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三輪山山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人を脅かすので、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖である」と。

 空海は、讃岐の佐伯氏の出身だが、空海が幼少の頃、佐伯今蝦夷が朝廷内で活躍していた。佐伯今蝦夷は、聖武天皇に仕え、東大寺造営の管理推進において成果をあげ、その後、要職をつとめ、遣唐使の大使にも任命され(病気のため断念)、桓武天皇の時、長岡京への遷都が行われると、これまでの土木・建築における実績を買われて、藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、宮殿の造営を担当している。

 空海は、佐伯今蝦夷の中央での活躍に刺激を受けて、讃岐から奈良に上京したとも伝えられる。

 この佐伯氏は、長岡京遷都の際の藤原種継暗殺の首謀者として、大伴氏とともに処罰されるなど、藤原氏との政争によって、しだいに中央での勢力を失っていくが、佐伯氏の空海が築いた真言密教もそうだが、推古天皇元年(593年)、安芸の有力豪族となっていた佐伯鞍職(さえきくらもと)が神託を受けて創建した厳島神社では、鞍職が初代神主となって以降、佐伯氏が代々神主を務めてきた。一時、藤原家に神主職を奪われたが、藤原神主家が滅亡すると再び佐伯氏が務め、世襲により現代に至っている。

 さらに、神仏習合の一大霊場である立山を開山したのは、奈良時代のはじめ、佐伯有頼である。今でも、立山剱岳方面の山小屋経営者や山岳ガイドには、有頼の末裔の家系伝承を持つ佐伯姓の人物が多い。

 また、九州の豊後(大分)では、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、大友氏に所属した武士として佐伯氏がいる。

 大伴氏もまた、佐伯氏と同じく藤原氏との政争に敗れたが、鎌倉時代以降、鶴岡八幡宮神職を担い続けているし、一部は、甲賀忍者など武士化したと考えられている。

 すなわち、佐伯氏や大伴氏は、平安時代の貴族政治においては政争に敗れたものの、宗教界や武士世界のなかで、古代からの氏族のスピリットを受け継いでいったとも言える。

 空海が作り上げた真言密教の宇宙観にしても、稲作に従事せず漁労や狩猟といった縄文時代から続く営みを続けていた蝦夷の太古の世界観が、なにかしら反映されているようにも思われる。

 そして、神功皇后が、鹿の毛皮を着た人たちと出会い、饗(あへ)を捧げるため、酒と塩で仕込んだ魚を捧げた阿閇濱(あへのはま)は、現在の加古郡播磨町であるが、ここは、現在でも佐伯姓の人がとても多い。

 県別の総数では、佐伯姓は愛媛がもっとも多く、その次が東京で、兵庫は東京とほぼ同じくらいの数(5000人前後)で3番目であるが、播磨町だけで約700人、特に播磨町野添は約400人で、小地域での集中度は、立山の開山の佐伯有頼の末裔と称する山岳ガイドや山小屋が集中する富山県立山町 芦峅寺の地域の約500人に次いで全国で2番目である。<日本姓氏語源辞典(著者:宮本洋一氏) より>

 実際の数は変遷していくものだが、私(佐伯剛)が生まれ育ったのは兵庫県明石市の西の端の二見町で、加古郡播磨町は隣接し、徒歩圏内だった。そして、祖父母が住んでいた。祖父母の家に行くたびに、まわりの米屋さんや肉屋さんが佐伯さんだったことを、はっきりと覚えている。

 神功皇后が阿閇と名付けた地は、神話の中でヤマトタケルに征伐され、蝦夷から移された部民、佐伯の土地でもあった。

 起源を東北に持つ可能性のある佐伯氏と阿部氏が、共通して関わっていた朝廷儀礼があり、それは、喪葬儀礼だった。

 天皇崩御すると、殯(もがり)宮が作られ、遺体が安置される。そして、遺体が埋葬されるまで数ヶ月、数年にわたって殯宮や殯庭で、様々な儀礼が行われた。歌舞を奏した鎮魂や、声を発して哀情を表したり、なかでも酒食の献上は非常に重要な意味を持っていた。

 この喪葬儀礼全体を統率する役割を担っていた氏族として、佐伯氏と阿部氏が、皇親氏族や、藤原氏、多治比、紀氏、大伴、石川、石上氏とともに記録されている。

 天皇の近親者か、天皇の側で、食膳奉仕や、守衛を行っていた氏族が、天皇崩御時においても、つとめを果たしていたということになる。

 ここ何回かのブログで、”いかるが”の謎を追い、近畿にある6つの”いかるが”の地を探求しているのだが、これらの地は、アメノホアカリニギハヤヒ)と関わりが深く、この神を祖神とする物部氏の陰が背後にあることを第1119回のブログで示したが、さらに、阿部氏が取り仕切っていた饗(あえ)との関係も気になるところだ。

 三重県四日市の”いかるが”には、采女という地名が残るが、ここは、古代から、采女を多く出した土地であり、伊勢の采女として、歌にもよく詠まれている。采女は、天皇の食事や身の回りのことに奉仕した女性だった。

 また、大阪府交野の”いかるが”と、京都府綾部の”いかるが”は、ともに私市(きさいち)という地名で、私市というのは私部(きさいちべ)の村であり、私部というのは、后(きさき)のための食べ物を作ったり、身の回りの世話をする人々だった。

 そして西播磨の揖保郡太子町の”いかるが”の斑鳩寺の中に稗田野神社の御旅所があり、近くに稗田野神社が鎮座して稗田阿礼を祀っており、斑鳩寺と稗田神社は深い結びつきがあったと考えられている。稗田阿礼は猿女氏の者で、猿女氏は、鎮魂儀礼に関わっていた氏族であり、歌舞の祭礼を行うアメノウズメはその祖神である。

 加古川の”いかるが”の地は、ヤマトタケル誕生や、三韓遠征に勝利を収めた神功皇后の物語の舞台となっているのだが、ここは、神話の中の饗(あえ)のルーツのような場所である。

 最後に、奈良の斑鳩法隆寺を築いた聖徳太子であるが、聖徳太子と阿部氏との関係が、とても気になる。

 四天王寺の場所が阿倍野という地名であったり、聖徳太子斑鳩宮に移る以前の居所の上宮の候補地が奈良県桜井市であるが、ここは阿部氏の拠点でもあった。そのうえ、聖徳太子にもっとも愛された女性、膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)は、阿部氏と同族で食膳に仕えた膳氏の女性だった。

 膳部菩岐々美郎女について、聖徳太子は「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝えられる。推古天皇30年(622年)、膳部菩岐々美郎女は、聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没した。そして、聖徳太子墓所である磯長綾(しながりょう)に合葬された。 

 

                                  (つづく)

 

  * Sacred world 日本の古層 Vol.1を販売中。(定価1,000円)

 その全ての内容を、ホームページでも確認できます。

www.kazetabi.jp