日本という国は、古代から八百万の神といわれるように無数の神が存在する。
その一つひとつの神のことについて、それがいったい何を意味するのかと説明したところで、古代の人々が感じていた神に、どれだけ近づけるというのか?
「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
神と名付けられていたとしても、形あるものは、神の依り代にすぎない。
凄い神様を創造したという言い方は正しくなく、神というのは本来凄いものなのに、釈迦如来とか千手観音とか弥勒菩薩というふうに分節化されてしまうことで、それぞれ、過去世、現世、未来世などと役割分担させられてしまっていることが不自然だから、本来の統一体に戻しただけのことだろう。
蔵王権現は、神道においても、大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視されているが、つまり、神というものが個別の分節化されたものに限定されて定義付けされないということを、蔵王権現は示している。
こんな複雑な手続きを踏まなければいけないのは、新しい知識や情報が入るたびに、世界が複雑に錯綜化し、神においても色々と目新しいものが祭り上げられ、本質から遠ざかってしまうからだ。カルト宗教は典型だが、芸能人(古代はシャーマンのようなもの)が、神のような影響力を持ってしまうこともある。
人間は、知識や情報を身につけることが賢くなることだと思っているが、知識や情報は、本来は一つのものを細分化していく人間の脳特有の癖だと言ってもいいだろう。
知識や情報で複雑化してしまった世界のなかで、人間は、分断化された個別のスペースの中に閉じ込められて、さらにその個別のスペースを細かく分断していく作業を続けながら生きていく。世界全体のリアリティからは、どんどんと遠ざかりながら。
それはなにも現在に限ったことではなく、古代から同じことが繰り返されてきた。そして、常に、リセットされてきた。
もっとも古い段階は、神の依代としては磐座で十分だった。磐座を通じて、「なにごとのおはしますかは知らねども・・・」と、畏れ多い気持ちになり、ともすれば自己中心的で傲慢になりやすい人間の心を制御した。
依り代となって導くものは、猿田彦になったり、アメノウズメとなったり、そこから芸能の人が生まれ、芸術表現が創造され、それらの創造物もまた神の依り代のようなものだった。
そして、「なにごとのおはしますかは知らねども 」と、人間に畏れ多さを感じさせるもっとも神秘的で確かなものは、天体の動きや配置だった。太陽や月や北極星やオリオンなどの天体の規則正しさを司るものこそ、まさに神と呼ぶべきものであるというのは、古代の日本に限らず、世界中で共通のことだ。
天体の動きは、宇宙の根本原理を示すものであり、信頼に値するものだ。だから、農業も、航海も、天体観測を基準にした。
中世、世阿弥が創造した能において、翁の舞は芸の真髄が求められるが、翁の舞は、目の前の出来事の枠の外の現実を、どれだけリアリティあるものとして伝えられるかにかかっている。
目の前の出来事をなぞることは、世界を細分化し、結果的に人間を袋小路に導いていく。それは、目の前の出来事にしか興味を持たなくなった人間を、さらに、世界の本質と実態から遠いところへと誘う。そうした処世作為は、目の前の出来事に縛られた権威付けや評価付けで増殖していく。
過去と未来につながる大きな時間は、目の前の出来事の単なる積み重ねではなく、その狭く閉じた枠の外を流れている。翁の舞にかぎらず、モナリザのあの微笑みにしても、日々の出来事に対する感情の現れであるはずがない。
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