人はよく「気配を感じる」とか、写真などで、「気配が写っている」とよく言うのだけれど、”気配”って、何かしらんと思う。
そして、その二つの画像を見比べると、その場にいた時の自分の感じ方は、ピンホールカメラで撮った画像の方が近いと思う。
その理由は、自分の目で見ているものよりも、デジタルカメラの写真の方が、写りすぎているからだ。
たとえば、大きな磐座があって、まわりに森が広がっているような場所で、私は、森の木々の葉の一枚一枚を見ていないのだけれど、デジタルカメラで撮った画像には、それらが写ってしまっている。
私は、その場に立ち尽くして、磐座を凝視しているというより、なんだか遠くの世界を覗くような感覚で眺めているので、たぶん焦点はちょっとぼやけている。デジタルカメラで撮った画像のように明晰に、対象を見てはいない。
だいたい、人は、ちょっと興奮気味の時は、対象を明晰に見ていたりしないだろう。
人を好きになるというのも、相手を明晰に見て判断しているというより、動きや仕草や表情も含めて、なんか全体から立ち上るものに惹きつけられている。
明晰に見るというのは、対象の動きを止めてしまって見ているわけで、それは、醒めた目で見ているということだ。
醒めた目で見て、それでも相手を好きだと言っているのは、冷静な客観的判断ということで科学的にはその方が正しいとされるが、相手や物事との関係においては、そこに何かしらのズルイ計算が入るケースが多いのではないか。
生き生きと動いている相手の全体を好きになる時というのは、おそらく、細かなディティールにはこだわっていない。
ピンホールカメラで撮る感覚は、それに近い。
人を好きになる時、相手の息遣いを身近に感じるが、それは自分の息遣いでもある。
そして、その息遣いの共振が、気配なのだ。
”気配”というものは、対象が発しているものを冷静に受信して感じているというより、対象が発しているものと自分が共振することで感じているもの。
そして、共振している時というのは、相手のディティールを細かく見てはいない。細かく見る前に、相手とつながってしまっているからだ。
ピンホールカメラで撮る写真というのは、何らかの作用で、その場所とつながってしまった写真なのだ。自分の意思というより、意思を超えた何かに引き寄せられて。
それはオカルトでも何でもない。人を好きになる感覚もそういうものなのだから。
見栄えがいいものの写真を撮るという行為は、その対象を好きになっているというより、どちらかというと自分のアピールだろう。
見栄えがいいかどうかわからないが、その場から醸し出されている何かに惹きつけられて共振してしまっている時、自分のことよりも大きな何かとつながっているという感覚になる。
そのつながりを、他の誰かが認めるとか評価するとか、そんなことは二の次である。
なぜならば、その大きな何かとのつながりだけが、時空を超えるからだ。数年単位の分別ではなく、数十年、数百年、それこそ無限に。
表現において、永遠ということが意識されなくなって、どれくらいの歳月が流れているのだろうか。
地上に存在するどんな物も、消滅していく定めにあるが、気配として、余韻として、いつまでも残り続けるものがある。人はそこに永遠を感じてきた。とりわけ日本人は、自然環境の影響もあって、その感性を、より研ぎ澄ませてきた。もののあはれは、永遠とつながっている。
気配や余韻は、あからさまであることによって阻害されることがあり、たとえ幻のようなものであっても、存在の確かさが十分に伝わる伝え方がある。
また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去(い)つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去(い)つてしまつた。
アルチュール・ランボー「永遠」中原中也訳
このランボーの詩、中原中也以外に、小林秀雄とか、数えきれないくらいお人が翻訳しているのだけれど、ランボーが表している永遠を、きちんと捉えていると感じられる人のものは少ない。中原中也以外には、金子光晴くらいかな。
二人に共通しているのは、彷徨い人であること。世間の定めた価値の枠組みの外に出て、ものごとを見ている人。
Elle est retrouvée,
Quoi? ― L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil
これらの訳の違いは、allée 英語のgo の捉え方だと思うけど、中也と金子光晴以外は、海と太陽を男女の交わりに置き換えて、その昇天(恍惚)の方を永遠と捉えていて、それに対して、とくに中也は、その後の気配を永遠と捉えている。昇天するにはしたものの、その後の余韻というか虚脱を残して、あっという間に消えさったものを、焦がれる思いで追憶している。
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