第1129回 撮ることの秘儀  鬼海弘雄さんの写真について

 

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 鬼海弘雄さんの写真で素晴らしいものはたくさんある。

 その中で、例えば、この一枚の写真には、鬼海さんの人柄や、哲学、そして写真の凄さ、写真表現だからこそ可能なことが、ぎゅっと詰まっている。

 これは、鬼海さんが、トルコのアナトリア地方を旅している時の写真だ。

 ゆるやかな坂をたくさんのアヒルがヨチヨチと歩いて登っており、その前方にイスラム世界特有のモスクの尖塔がそびえ、そのそばに古びた自動車が停車している。そして、自動車の前方には、見晴らしの良い高台から風景を眺めるためか、一歩一歩、確かな足取りで歩いている1人の男がいる。

 そして、その上空に、ぽっかりと浮かんだ気球。

 これらのものたちは、この一枚の写真の中で、どれ一つ欠けてはならないものたち。

 そして、どれもが、鬼海さんの愛するものたちだ。

 イスラム世界を旅していると、天空にまっすぐに伸びる尖塔を持つモスクの姿を目にしない日はない。

 それはまさに天と地を結ぶ垂直の軸であり、敬虔なイスラム教徒の魂の中心にはその軸がある。その確かな軸があるかぎり、繰り返される日常のなかで、空虚を感じたり、自分を見失うことはないだろう。信仰の深さとは、そういうものだ。

 本物の表現者もまた、自分だけの垂直の軸を魂の中心に抱いている。それは、信仰という言葉より、信念と呼ぶべきもので、信念があるからこそ死を賭する覚悟もある。世俗的な名声や金銭のために魂を売ったりはしない。

 そうした純粋なる精神を鬼海さんは愛していたし、鬼海さん自身も、そういう人だった。

 しかし、鬼海さんの懐の深さはそれだけに止まらない。

 鬼海さんは、天のことなど無頓着に右や左と余所見をしながら、地べたを這いつくばるようにマイペースで歩んでいる無垢なる存在も温かく見守っていた。気取りがなく、自然体で、けれども何かに驚くとパニックになって逃げ惑う、あどけないアヒルのようなものたち。

 そして鬼海さん自身は、そんな天と地のあいだを彷徨う魂の旅人だった。気球のように世界を俯瞰しながら、世の中の硬直した基準に囚われることなく、偏見のない目で様々な物事を見つめていた。

 しかし、ただ風に流されるだけではなかった。やはり、一歩一歩、自分の足で確かな足取りを刻んでいくことの大切さを鬼海さんは意識していた。流行に流されず、たとえ遠回りすることになっても自分のやるべきことを深くやり抜くこと。自由というのは、風の吹くまま、とか、自分の好きなように、という程度の生易しいことではなく、厳しさを引き受ける覚悟のできたチャレンジこそが本質。

 そうした魂の冒険には、相棒も必要だ。相棒は人に限らず、使い込んで身体の一部になった道具も含まれる。しかし、道具というのはあくまでも後ろから自分を支えてくれるものであり、それを使う人間の主体性の方が大事だ。

 最新式の自動車など新しいものに目を奪われるのは人間として仕方ないこと。しかし、その新しいものが、近道を行くためや、虚栄、すなわち自分をごまかすうえで都合の良いものにすぎないのなら、長い目でみれば、かえって自分を貶めるものとなる可能性が高い。鬼海さんは、目新しいものよりも、使い込まれたものに強く親近感を覚えていた。カメラも、ずっと同じものを使い続けていた。本当に信頼に値するものは、自分自身の心と身体で時間をかけて確認していくものなのだ。

 さて、鬼海さんの写真の凄さというのは、ここからが核心である。

 鬼海さんは、あまりシャッターを切らない写真家だが、シャッターを切らない時も、ずっと考え続けているし、写真ではなく文章でもアウトプットを行い、自分の考えを整理し続けている。そのようにして熟成された自分ならではの世界がある。

 それゆえ、鬼海さんが、シャッターを切る時というのは、当然ながらただの風景や人物や事物ではなく、鬼海さんの中で熟成されている”かくあるべき世界”が開示されている瞬間なのだ。

 鬼海さんは、イスラムの尖塔が示すものと、アヒルたちの歩みという一見相反するようなものが調和した状態こそ、世界なのだと一枚の写真で見事に示している。

 どれか一つの要素を偏愛的に愛して、その部分にだけ焦点を合わせている人は、この世にたくさんいる。自分が信じるもの以外は一切認めない、または無関心という頑迷さや偏狭さで。それはなにもイスラム原理主義者に限らず、科学絶対主義の学者なども同じだし、特定ジャンルの権威と祭り上げられている表現者も同じだ。 

 しかし、この鬼海さんのアナトリアの写真の中から、アヒルか、イスラムの尖塔か、気球か、1人の歩く男か、自動車か、どれか一つの要素を取り除いてみればわかるが、一瞬にして何とも味気ないものになってしまう。

 モスクの尖塔の直線と、アヒルの曲線があるから全体の線が豊かになり絶妙なるリズムが生まれる。自分の足で歩いている男と、停止している自動車と、浮かんでいる気球があるから、画面に大きな時空が生まれる。どれか一つだと、それは世界ではなく、カタログのような断片的情報にすぎない。断片的情報の提供は、写真家の仕事ではなく、商業的カメラマンの仕事だ。

 たった一枚の写真で、これだけ世界の真髄を伝えられることが、写真表現の凄さであり、これができる人が写真家という称号にふさわしい。そうでない人が、写真家と名乗るのはおこがましい。

 そんな呼び名はどうでもいいが、本来、神話というものは、この鬼海さんの一枚の写真のように、世界の本質的な有様を開示するために創造されたものだった。

 なので、実証主義という偏狭な価値判断にあぐらをかいた専門家が、神話は史実ではなく作り物にすぎないと主張して威張っているのは、とても滑稽な現象としか言いようがない。

 証拠が出揃って証明できることが、世界の真髄だと思ったら大間違いだ。

 このアヒルたちが、いったい何を考え、何を求め、お尻を振って歩いているのか、的確な説明をして、その証拠を示すことができるのだろうか。

 あどけない表情の鳥類は、官僚的組織のルールに縛られている自らを万物の尺度とする狭い了見の輩たちなど無関係に、人類より遥かに長い時間を地上で生きているのだ。

 世界は、かくも興味深く、謎に満ちて、豊かにそこに存在している。神話が語り継いできたことは、そのリアリティであり、鬼海弘雄という写真家は、近代主義の中で生まれた写真表現を通して、この時代に息づく神話を開示してきた。

 その真価は、人間の自己中心的な世界像を優れたものとみなす近代主義が、みっともない時代遅れと感じられるようになった時、よりはっきりとするだろう。

 

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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