第1130回 魂の交流と、天命

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お使い帰りの兄妹 撮影:鬼海弘雄

 生前、私を同志と言ってくれた鬼海さんは、2020年10月19日、75歳で逝ってしまった。

 そして、若造の私にとって恩師だった日野啓三さんは、2002年10月14日、73歳で他界された。鬼海さんも日野さんも、ほぼ同じ年齢で、同じ季節に旅立たれた。

 日野さんが亡くなって1ヶ月ほど経った時だろうか、写真家の野町和嘉さんの所に行った。野町さんとは、それ以前、一度だけ仕事をしていた。私が、有楽町マリオンを使って企画したイベントで講演を依頼したのだ。

 日野さんが亡くなった後、野町さんのところに行ったのは理由があった。日野さんは写真が好きで、とくに野町さんの写真を、二回、表紙カバーで使っていた。「砂丘が動くように」と「どこでもないどこか」という小説で。

 それで、日野さんの死の報告と、私が、素人ながら自分の思いだけで作った日野さんの遺著「ユーラシアの風景」を野町さんの所に持っていった。大手出版社から「書くことの秘儀」という本が後で出版されたけれど、原稿としては、「ユーラシアの風景」の中の「北欧の奥行き」という短編エッセイが、日野さんの絶筆だった。

 野町さんと色々話をしている中で、なぜか、出版社の経験のない私が雑誌媒体を立ち上げることになった。それは無理でしょと言っても、これ(ユーラシアの風景)ができるんだったらできるだろう、と強引に。

 私は、野町さん、トチ狂ったこと言っているなあという思いを抱えて帰宅して、そのまま放置していたのだが、それから10日くらい経った時か、野町さんから電話があり、「あれ、進めているか?」と問い詰めてきた。そんなに簡単に始められるようなことではないだろうに。仕方ないので、私は、たしか3日くらいで企画書を作った。とくに深く考えたわけではなく、日野さんの影響を受けて知った偉大なる人たち、20世紀の碩学白川静さんや、川田順造(人類学)さん、河合雅雄(霊長類学)さん、養老孟司(解剖学、脳科学)さん、松井孝典(惑星科学)さん、日高敏隆(動物行動学)さんなど、今、冷静に考えれば恐ろしい人たちをズラリと書き出し、その人たちに書いて欲しいことをポイントで明記しただけのこと。まさに若気の至りで、これらの人たちとまともに話ができていたのかどうか疑わしい。

 テーマは、「森羅万象と人間」FIND THE ROOT つまり、根元に立ち還れ、とした。

 それを野町さんに送ると、うん、内容はいいんじゃない、と軽く言われた(ふつうなら、こんな豪華メンバー、実現するんか?とか言うだろうに。実際に、企画書を送った白川静さんでさえ、「あんた、こんなの実現するんか?」と最初に聞かれたし、河合雅雄さんは、「白川さん、やるう言うとんのか?」 というのが、返事の第一声だった。)。

 そういうデリケートな事情には無頓着に、野町さんは、「内容はいいけど、雑誌だから、先の企画もしておかなければ準備できないだろ」と威圧的に言うので、第一回は「天」、その次は、「水」、次が、「森」、とか、適当に決めた。あとは、走りながら考えればいいや、という気分で。

 そうすると、野町さんは、これでいいんじゃないか、レッツゴーみたいな乗りで、私は、野町さんの仕事場にあった写真集とかを見ながら、写真家はこの水越さんがいいなあとか邪念なく決めていった。私は、写真家との付き合いは、それまでは野町さんと関野吉晴さんしかなかったけれど、真に心に訴えてくる写真を受け止めることはできていたと思う。

 それで、協力してくれることになった水越さんに会うために北海道の屈斜路まで行くと、水越さんも呑気な感じに、それで、どんな雑誌になるんですか?と聞くので、ナショナルジオグラフィックを大きくした感じですよ、と適当に答えると、「それはすごい」と無垢に賛同してくれた。それで、水越さんの仕事場にある膨大なポジを見ることになって、私が、写真をいろいろと見ていると、水越さんは目の前に座って、こちらをじっと見ている。やりにくいので、一人にしてくださいと言い、3時間くらいかかって選んで、これでいきますと伝えると、20点くらいのオリジナルポジを持ち帰らせてくれた。ポジは一点しかないもので、ふつうは複製したりするけれど、初対面なのに、丸ごと預けてくれた。飛行機に乗って持ち帰る時、けっこう緊張した。

 その水越さんが、このたび、北海道功労賞を受賞され、なぜか私が、今月の中旬、贈呈式で、水越さんを紹介するスピーチをすることになった。他の受賞者は、バイオや、ガンの研究者。参列者は、主に行政の長や、外国公館総領事、報道機関の長など堅苦しい肩書き。なので受賞者の紹介者も、立派な肩書きの人たち。水越さんもそういう知り合いはいるはずなのに私を敢えて指名するというのは、私が、立派な肩書きの人たちよりも水越さんの表現を理解しているからで、この選択もまた水越さんならではのセンスなので、私も、その水越さんの流儀にそった役回りをと思っている。

 それはともかく、日野さんが亡くなって半年になる前の2003年4月、風の旅人を世の中に送り出した。おそらく、あの日、野町さんのところに行かなければ、「風の旅人」を作るなどという大それた発想にはならなかった。

 なにかに背中を押されたようにして始めた「風の旅人」で、あの時、ああいう大胆な動き方をしていなければ、小栗康平さんにも、鬼海弘雄さんにも出会うことはなかっただろう。

 小栗康平さんや前田英樹さんとは、2005年くらいから、10年以上、ほぼ毎月に一度、小栗さんの次の映画の構想のためにという建前で、池袋のうどん屋で飲み会合をしていた。

 この7、8年くらいか、頻度は減ったが、鬼海さんも加わるようになった。2、3年ほど前までは、鬼海さんもお酒を飲んでいた。鬼海さんは、私が京都に移った後も、そうして知り合った前田さんの剣術の道場まで、けっこう遠いところなのに、出かけて行ったりしていた。

 前田さんが、鬼海さんの供養のために飲もうというので、コロナ禍の前、昨年の年末以来、久しぶりに明日、池袋のうどん屋に集まる。

 昨年の年末、鬼海さんが、私の背中を押してくれなかったら、「Sacred world」日本の古層vol.1も作っていなかった。なぜなら、私は、本という形にするのは、鬼海さんのように最低でも10年取り組んでからと思っていたので。でも、鬼海さんは、「今、形にしなければ、整理できなくなるよ、もう十分、その段階にきている」と力強く言ってくれた。他の誰かではなく鬼海さんに背中を押されたことが大きい。そして、内容や人の評価はともかく、形にしてよかった。形にすることで、自分がやっていることを整理できて、手応えも感じ、一歩前に進めた。

 そして、鬼海さんの言葉を受けてすぐに取り組んだから、完成品を、まだ元気だった鬼海さんに見てもらうことができた。今思えば、天命だったのだと思う。

 「風の旅人」の場合も、他の誰かではなく野町さんに背中を押されたから始まった。

 優れた写真家は、なにかしら強い直感力と、その直感に基づいて行動する瞬発力や、その行動を成就させるための気迫がある。もちろん、そういうオーラを受け流してしまう人もいるだろうが、私は、たぶん、彼らのオーラの受容体になりやすい体質なんだろう。彼らの強いオーラを自分のエネルギーに転換する体質。「風の旅人」の場作りはそういうものだったし、その場作りは誌面の上だけのことではない。魂の交流という言い方が、なかなか通りにくい世の中になっているが、消えてしまったわけではなく、間違いなくそういうものは存在しており、そのことに敏感であれば、自ら特に意識しなくても、しかるべき道はできていくのではないかと思う。

 鬼海さんは、表現も、人間関係も、魂の交流だけをもとに行っていた。死の数ヶ月前、病院に見舞った時も、ベッドのまわりにたくさんの本があったのには驚いた。抗がん剤で苦しい状況だろうに、よくも読書ができるねと。そして、それらの本は、暇つぶしのようなものは一冊もなかった。鬼海さんは、魂に触れるものを求めるということにおいて、最期まで一貫していた。

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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